decisive short-term




その人は、いつも同じ場所に座っていた。
いや、座っている―――と言うより寝ていると言った方が正しい。
一応本は手元にあるのだけれど、ちゃんと読んでいるのを見たことがない。


「―――閉館の時間ですよ」


決して広いとは言えないこの図書館に残っている人はもうこの人だけ。
私は緊張をため息で誤魔化し、彼に声を掛ける。
しかし「うーん」と唸るだけで腕から顔を上げる様子はない。


「……啓介くん。時間」


名前を呼ぶと、ようやく眠そうな目を擦りながら身体を起こした。


「ああ……。もうそんな時間?」
「今日もよく寝てたね」
「夜は長いし」
「ここは仮眠所じゃないってば」


呆れた顔で言っても、彼は全然気にする様子もなく大きく欠伸をした。


は?今日も仕事終わんの遅いのか?」


椅子から立ち上がりながら、机に置いてあった一冊の本を手渡してくる。
アメリカの元大統領の演説集。
昨日は警察小説、その前の日は確か少し前に流行った恋愛小説だった。
どうせ読まないならいつも同じ本にすればよいのに、毎日違う本を選んで来るから不思議だ。
私は小さく首を横に振る。


「作業が残ってるから、まだしばらく掛かると思う」
「そっか」


特に残念がるふうでもなく、啓介くんは鞄を肩にかける。
椅子をちゃんと戻すところは、いつも行儀がいいな、なんて感心する。


彼が初めてこの図書館に現れたのはいつだっただろう?
年が変わってすぐくらいだろうか?
お母さんに借りて来いと頼まれたと言って、受付にいた私に本のリストが書かれたメモを差し出して来たのが最初だ。


「どうやって探すのか分かんねーんだよな。俺、あんまりこう言う所来ねーから」


困ったような、でもちょっと甘えたような目をした彼は、それから夕方になるとほぼ毎日現れるようになった。
奥の方の机の一角で、今日のように閉館時間まで眠り続ける。
夜に峠に走りに行くから今のうちに寝ておくのだと冗談めかして言っていたが、きっと冗談じゃなく本気だと思う。
いつも閉館のアナウンスが流れても起きる気配がなく、仕方なく起こしに行く。
ああ、今日もまた寝ている。
そんなふうに心の中で呟き呆れながらも、最近はその姿を見ると、妙に安心してしまったりもする。
そして何回目の時だったか、啓介くんは起こしてもなかなか反応してくれない日があって。


「名前呼んで起こしてよ。それならたぶん一発で起きるから」


肩をゆすってようやく起きた彼は、妙案を思い付いた、とばかりに嬉しそうにそう言った。
それは出来ないと最初断ったら、まるで駄々っこのように「それじゃあ起きない」と言ってまた机に突っ伏してしまったのだ。
それ以来、他の人には見つからないように、コッソリと名前を呼んで起こしている。
そして、「あんただけ俺の名前知ってるのってずるい」とよく分からないことを言う彼に、何となく名前を教えてしまっている。


「また飯でも一緒に食いてーなぁと思ったんだけど」


同僚が片づけをしながら、こちらをチラチラと見ている。
その視線が痛くて、私は彼の背中を出口の方へグイグイと押した。


「今度、再チャレンジするわ」


背中を後ろにそらせながらこちらを振り返り、啓介くんが小さく笑う。
数日前、やっぱりさっきと同じような感じで「って仕事終わんの遅いの?」と聞いてきた。
その時はたまたま早く上がれる日で、もうじき帰れると言うと「じゃあ外で待ってるから飯食いに行こうぜ」と人懐こい笑みを向けられた。
図書館の利用者(寝る人)と図書館の司書(起こす人)。
それだけのシンプルな関係でまさかそんなナンパまがいのことを言われるなんて思わなくて、最初は面食らった。


「え、ダメ?飯って家で食べないとダメとか言う?」


ポカンと口を半開きにしていた私に、そんな見当違いなことを聞いて来る。
何だか、彼は本当に、普通に、自然で、妙に意識してしまう自分の方がおかしい気がして来て、思わず頷いてしまった。
それに、悪い気はしなかった。
悪い気どことか―――正直に言えば、ちょっと、いや、結構、嬉しかったから。


「ご飯は一緒に食べられないけど―――」


図書館の外に出て、私はエプロンのポケットをごそごそと漁る。
さっき、閉館時間直前にそこに入れた物。


「これ―――あげる」


彼に差し出したのは、小さな青い包み。
今日女の子から渡す物と言えば、きっとすぐに予想がつくだろう。


「啓介くんが寝てばかりいるのは、頭に糖分が行ってないからじゃないかな」


暗に義理チョコですよ、と主張する。
でもきっと顔が赤いから説得力はない。
本命チョコ―――と自信満々に言えるほど、気合を入れたわけでもない。
けど、義理チョコって胸を張って言えるほど、適当に選んだわけでもない。
ハッキリ言えないのは、今のこの「寝る人」と「起こす人」の関係を壊したくないから―――だと思う。


啓介くんは、私の手元を見てちょっと驚いた顔をする。
そして、そのチョコレートを受け取ると、少しくすぐったそうな顔に変わった。


「しょーがねーじゃん、図書館って静かで眠くなんだよ」
「だから。図書館は本を読んだりする場所で―――」
の声で起こされるの気持ちいいし」
「え―――」
が仕事してんの見てると、何か満足感って言うか充実感って言うか、そんな感じで気持ちよくて眠くなる」
「なっ……、私が原因?」
「そうだよ。気付かなかった?」


笑いながら吐き出される息は、ほんの少し白い。
そんな彼の台詞にどう反応していいか分からなくて、私は「もう」と頬を膨らませた。


「―――結構、長期戦を覚悟してたんだけど」
「え?」
「そんなにかかんないって思っていい?」


首を傾げる私の前で、彼は持っていたチョコレートを鞄にしまう。
そしてまた私を見て―――ちょっと、いたずらっぽく笑った。


「お返し、期待しといてよ」
「え……う、うん」
「あー、でも俺、一ヶ月も待てっかな」
「うん?」


ウーン、と大きく伸びをしたかと思ったら、いきなり片手で肩を掴んで。
私の頬に、掠めるようなキス。


「お返しの先払い」


呆然とする私に向かって「頭金みたいなもん?」なんて言って笑う。


「わ、わけ分かんない!」


ヒラヒラと手を振って消えていく彼の背中に向かって何とかそれだけ言ったけど、きっと聞こえなかったと思う。
ああ、やっぱりもうちょっと気合を入れてチョコを選べばよかった。
少しだけ後悔。


来年はもっと立派なのを送ろう。
そんなことを思った。