自転車




ずーっと、ずーっと、こんな夜が続けばいいのにな。




大学入ったばかりの頃から続けている家庭教師のバイトも今年で最後。
四年に上がるとき、卒論もあるから辞めようかと思ったけれど、教えている子の好意で週に一回にして貰って続けてる。


「じゃあ先生、気をつけて帰ってね。」
「うん。今日やったとこ、ちゃんと復習しておいてね。」
「うえー。」


木曜日の夜八時。
いつもと同じように、生徒の女の子を小突きつつ彼女の家を後にする。
こんな時間だから当たり前だけど、外はもう真っ暗。
閑静な住宅街には規則的に外灯が灯っているけれど、人や車の通りは殆どなくて、すごく、寂しい感じがする。
最近は寒くなって来たから、なおさらそう感じるのかもしれない。
この前クロゼットから引っ張り出してきたマフラーを首にかける。
はあ、と息を吐き、さすがにそれはまだ白くないのを確認して、ちょっとほっとする。
こんなふうにして、バイトを終えて家に急ぐ。もう、数え切れないくらい繰り返してきた習慣。


静かで固い道路に、私の足音が響く。
その直後、もうちょっと低い足音が、重なるように鳴り出す。
それと一緒に、カラカラと言う音。


「―――お疲れさん。」


僅かな数の外灯だけがチラチラと光る道で、その姿は少し眩しくて、ほんのちょっとだけ、違和感。
でも、その笑顔を見ると、すごくすごくほっとする。


「また、それで来てくれたんだ。」


緩む口元を誤魔化すように、私はそう言って彼が引っ張っている物を指差した。
こうやって迎えに来てくれるようになるまで、私は、啓介と言えばあの黄色い車、って言うイメージを持っていて。
初めてそれに跨っているのを見たときは、思わず吹き出してしまった。
自転車は白いんだね。


「だから言ってんじゃん。この辺夜ってすっげー静かだろ。あんな車で来たら迷惑だろうが。」
「え、啓介って案外気配り屋さん。」
「・・・シメるぞ。」


そんなからかい口調は私の照れ隠しだ―――って、啓介も分かってくれてるんだろう。
そう言って頬に伸ばされる手は、いつだって温かい。
でもその温かさにまた私が照れてしまって、軽口叩いて、悪循環。


「うし、さっさと帰るか。お前の生徒に見つかったら示しつかねぇもんな。」
「あはは。」


でもちょっとは啓介のこと自慢したい。
あ、でも、やっぱりこれ以上ライバルが増えちゃったら嫌かな。
そんなことを考えている私に構わず、啓介は私の肩からヒョイと鞄を取り上げて担ぎ、カラカラと自転車を押して歩いて行ってしまう。


「今日はどうするよ?」
「うーん、のんびりでいいや。」


こうやって啓介と自転車で帰るときには二つのコースがある。
早く帰るコースと、のんびりコース。
早く帰りたいときは啓介が自転車を漕いで私が後ろに乗って、最短距離を行く。
のんびり帰りたいときは、啓介が自転車を押して、私がその横を歩いて、少し遠回りして帰る。
本屋に寄ったり、公園を横切ったり、人通りの少ない道をわざわざ選んでみたり。
どっちのコースが多いかって言えば、やっぱり、後者の方。
四年になって、週に一回になって、特にその割合は増えた気がする。
バイトの帰り以外に会える機会も、減ってきたしね。


「寒くなってきたなぁ。もうじき雪とか降んのかな。」
「峠の方は降り出すかもね。」
「ああ・・・とりあえず、木曜の夜に高崎で降んなきゃいいや。」
「・・・雪の日は迎えに来なくていいからね。」
「だーいじょうぶだって。今年はガッチリ防寒対策すっから。」


任せとけ、なんて言って、歯まで見せて笑う啓介。
去年は雪の日にずっと外で待ってて、次の日風邪引いて大変だった。
あれからもう一年経っちゃうんだね。
一年なんて、あっと言う間。


「なあ、は卒論とか進んでんの?」
「まあそれなりに。啓介は?」
「まあ何となく。」


何よそれ?
あまりのいい加減な返答に眉根を寄せれば、「美人が台無しだぜ〜。」なんて言ってカカと笑う。
まったく。相変わらず調子がいいんだから。
まあでも、こんな他愛のない会話が、いつも心地いいんだけど。
心地よすぎて怖いくらい。


車の音が近づいてきて、数十メートル先の交差点を横切っていく。
それが遠のくと、やっぱり啓介の自転車の音だけが残る。


バイトから家への帰り道。
こんなふうに隣りに体温と、自転車が並ぶようになったのは、去年から。
来年は、どうなっているんだろう?




ずーっと、ずーっと、こんな夜が続けばいいのに。




もう少し続く、静かな道。
不意に、自転車のカラカラと言う音が消える。


「・・・どうしたの?」


振り返ると、啓介が目を細めて口元を緩ませてる。笑顔のような、痛そうな、ちょっと複雑な顔。
突然どうしたんだろう、と首を傾げる私に、小さく手招きする。
訳の分からないまま、二三歩後ろに立っていた啓介の横に立ち、顔を見上げる。
見上げるまでもなく、顔を持ち上げられてしまった気がするけど。


薄暗い外灯が視界から消える。
代わりに目に飛び込んできたのは、思ったより長い睫毛―――と、唇。
そして、啓介の匂い、と、煙草の匂い。
それに酔う間もなく、ふと、息がかかり、その唇が私の唇に触れる。
たったそれだけのことに、私はフワリと足元が軽くなるような気がして、ぎゅっと啓介の服の袖口を掴んだ。


一瞬だけ舌を絡めて、最後に、私の唇を軽く噛んで離れていく。
思わず、離れがたくて追いかけてしまいそうになって、慌てて俯く。


「―――ど、どうしたのよ、急に。」


恥ずかしくて、少し声が低くなる。
さっきみたいに眉間に皺でも寄せようと思ったのに、自分が今どんな顔をしているのか、怖くて顔が上げられない。


「んー・・・。」


それなのに啓介は容赦なく私の顔を上げさせる。鬼。
でも、そんな啓介も、さっきよりも複雑な顔をしていた。


「何つーか・・・こうやって、ずっと一緒にいられればいいなぁと思ってさ。」


照れているような、笑っているような―――寂しそうな。


「だから、まあ・・・願掛け?」
「何それ。」
「うるせーな、深く考えんなよ!」


カラカラカラとまた自転車が鳴り出す。
さっきまでより、ちょっと速め。
私は慌ててそれを追いかけて、啓介の腕を掴んだ。


「じゃあ、私も願掛けしていい?」
「ああ?」
「だから―――。」






これからも、ずっと一緒にいられますように。






私は背伸びをし、もう一度、啓介の匂いを感じた。