my brain is asleep




「ねえ高橋くんってさあ、何でさんのことだけ『さん』付けなの?」


英語の授業が休講になって、たまたま掲示板の前で遭った同じクラスの女子に「外にお昼食べに行こうよ。」と誘われた。
特に用もなかったから一緒に行くことにして、で、くだらない話しながら飯食ってコーヒーと一緒に一服してたら、前に座っていた奴が「前から気になってたんだけど」と切り出してきた。
何事かと思ったら、そんなこと。
「あ、私もそれ何でだろうって思ってたんだー。」なんて他の奴まで言い出す。
何でそんなくだらないことが気になるんだか、俺にはよく分かんねぇ。


「そうだっけか?」


コーヒー飲みながらそらとぼけてそう言うと、皆が口々に言う。


「他の子は皆呼び捨てなのに、あの子のことだけずーっと『さん』付けだよね。」
「そうそう、私なんて初対面から呼び捨てだったのにさ。」


バカらしい、と思いながらボンヤリとそいつらの会話を聞き、あいつの顔を思い浮かべる。
ここにいる奴らとはちょっと毛色が違う、マイペースって言うか、つかみどころがないって言うか、自分の入り込む隙があんまりなさそうな奴。
確かに、俺はあいつを呼ぶときに「さん」と言っていた。
別にそんな難しい理由があるわけじゃない。
と言うか、理由なんてはっきりしない。
ただ、あいつの顔を見てるとつい「さん」と口から出ちまうんだからしょうがない。


怖い、とか言うんじゃないけど、あいつを目の前にすると緊張するって言うか―――うまく口も頭も働かなくなる気がする。
綺麗なお姉さま系ってわけでもないんだけど。
なんて、本人が聞いたら怒りそうだな。


そんなことをウダウダ考えている間に、周りの奴らは「あの子ちょっと取っ付きにくい感じだもんね。」とか言って盛り上がって、勝手に理由を作り上げちまっていた。
そう言うのとはちょっと違うんだけど―――わざわざ訂正するのも面倒だから、黙っといた。








そんな話をしていたことなんてすっかり忘れた頃に、その話題の張本人と大学の近くのコンビニでばったりと出くわした。
ペットボトルを取り出しているときに、ぽんぽんと肩を叩かれて、振り返るとそいつが手をヒラヒラと振りながら「おはよう」と笑っていた。
まともにそんな笑顔を向けられたことなんてなかったから、いつもより余計に頭がワケ分かんなくなって、「こんな早くに来るなんて珍しいんじゃない?」と笑って言う奴に「おう」とか「ああ」とかしか返事が出来ない。
どうしたんだよ、俺!
落ち着けよ、高橋啓介!


「今日は早起き出来たんだ?」
「いや・・・寝たらぜってぇ起きれねーと思って、山から直接来た。」
「山?あそっか、走り屋って聞いたことあったけど、本当だったんだ。」
「ああ・・・まあな。」


そいつは眠そうに欠伸をしながら、同じようにペットボトルを取り出す。
そして、つられて欠伸しちまった俺を見上げてクスクス笑いながら、「徹夜なんて若いね。」なんて言う。
こうやってまともに話をするのも初めてなら、欠伸したり普通に笑ったりするのを間近で見るのも初めてだった。
人見知り、なんて今まで経験したことないけど、こんな感じなんだろうか?
すげえ色々話したいのに、何だか思うように口から言葉が出てこない。
ああ、ちくしょう!


構内に入っても、いつもは混みあってる通りも人はまばら。
朝一の講義が始まる前ってこんなに誰もいないのか。
始業前に来たことなんてなかったから全然知らなかった。
なんつーか、空気もまだ綺麗な感じがして、新鮮に感じる。
て言ってもこの感動はあっと言う間に忘れちまって、来週はまた講義が終わるギリギリに来るんだろうけど。
さっき買ったペットボトルを両手で弄びながら隣りを歩いている奴を、ちらりと見る。
―――やっぱ、これも、新鮮って言うか、変な感じだ。


「いつもちゃんと始業前に来てんのか?」
「うん、だいたい。ちょうどいい電車がなくってね。」
「へぇ・・・どこに住んでんだっけ。」


名前を口にしようと思ったら、あのときの会話を思い出して急に意識しちまって、自分でも可笑しいくらい妙なテンションの声。
つーかさ、呼び方なんてどうでもいいじゃねぇか。
そんなことを思いながらも普段の自分が取り戻せなくて、もどかしい。
でも何でか苛々するってことはなくて、不思議だ。


教室のドアを開けると、当然のようにそこはからっぽ。
窓から差し込んでる光はまだ朝焼けの色が残ってるみたいにオレンジがかって見える。
そんなに早い時間ってわけじゃないのに、建物自体にさえ殆ど人気がないせいだろうか。
俺は窓際の後ろの席に、手に持っていた教科書を放るように置く。
その音がまた教室中に響いて、何だかいつもの空間とは別物みてえだ。


「たまに早く来たときくらい前の方に座ればいいのに。」
「やだよ。そう言うお前だって別にいつも前に座ってねーじゃん。」
「そだっけ。」


わざとらしく首を傾げながら、そいつは俺の隣りに腰掛ける。
そんで何だかちょっとほっとして、すぐまた今度は緊張―――って言うか、喉が渇いてくる。
石鹸なのか、シャンプーなのか、コロンなのか、彼女の匂いだって今までもちろん知らなくて、何て言うか―――変だ。
今さら女の匂いにドキドキするようなトシじゃねぇだろ。
しっかりしろよ、俺!


「誰も来ねぇな。」


沈黙するともっと変になりそうで、俺は髪をガシガシとかきながら、どうでもいいことを言う。
誰にも来て欲しくなんてないくせに。


「そうだね・・・おかしいなぁ。」


そいつも気のないような声でそう言いながら、入口の方を見る。


「いつもは何人か真面目そうな男の人とか来てるんだけど。」
「・・・悪かったな真面目じゃなくて。誰だよそれ、同じクラスの奴?」
「さあ、たぶん違うと思うけど。話したことないから分かんない。」


ペットボトルの蓋を開けながら、また気のない声で言う。
その内容にちょっとほっとしたりして、こんなん俺じゃねぇだろ、と自分にツッコむ。


「・・・うーん、何か嫌な予感がして来た。」
「何だよ?」
「さっき掲示板には休講の紙貼ってなかったよね。」
「ああ、見なかったけど。」


まだ「うーん」と言いながら眉根を寄せて、ルーズリーフが綴じられているファイルをパラパラとめくる。
そして途中でパタリと止まって、じっと見て、パタンとそれを閉じた。
何事だとそいつの顔を見たけど、微妙に視線が泳いでて目が合わない。


「・・・しまったよ、高橋くん。今日、休講だ。」
「え?」
「先週最後に『来週は休講です』って言ったの忘れてた。ついでに『掲示板では知らせません』って言ってた気がする。」
「・・・え?!」


そうだったか?
そんな大事なこと、この俺が忘れるか?!
俺も慌てて思い出そうとしたけど―――寝てた記憶しかない。
たぶん、最後まで寝てて聞いてねぇんだ・・・。


「マジかよ・・・。」
「すっかり忘れてた・・・。」


二人でガクリと肩を落とす。
そんなこと、普通忘れるもんか?
休講だぜ、休講。しかも朝イチの講義の。
こいつって案外抜けてるとこあるのか?
そう思うとますます力が抜けてくる。
ついでに睡魔も襲ってきた。


「何だか一気に眠くなってきた・・・俺、寝るわ。」
「おやすみなさい。」


机に突っ伏した俺の横で、そいつはガサガサと帰り支度を始める。
まさかここに一人で置いてこうって言うのかよ?
こいつって―――冷たくねえ?
俺はそいつの腕をガシッと掴んで顔を上げた。


「まさか俺一人にしようとか思ってる?」
「・・・って、寝てる横で何してろと・・・。」
「うわっ、つめてーっ、さいてーっ!」


そいつが可笑しそうな困ったような変な表情をする。
そいつの腕を掴んだせいなのか何なのか分かんねぇけど、俺はだんだん普段の調子を取り戻してきた。
それと同時に何だか勝手に口元が緩んでくる。


「本か何か読んでりゃいいだろ。」
「・・・何てジャイアンな男なの。」
「うるせー。」


抑えがきかなくて、しょうがないから眠るふりして腕の中に顔を隠す。
大人しく鞄から本を取り出す音、それを捲る音。
暫く沈黙が続いて、俺もうとうととしかけたとき、ボソリとそいつの声がした。


「―――私って取っ付きにくいかなぁ。」


その台詞に、すっかり忘れてたあいつらとの会話を思い出して、俺は腕の下でカアッと顔が熱くなる。
違うんだって!
ガバッと起き上がってそう叫びたかったけど、また妙な緊張が湧き上がってきて、そいつの腕を掴んだまま固まった。


「寝た?」
「・・・寝てねぇよ。」


だから、そう言うんじゃねぇんだよ。
理由なんて自分でもはっきり分かんねぇんだって。
顔だけクルリと横に向けると、文庫本に添えられたそいつの手が目に入ってくる。


「そうじゃなくてさ、なんつーか、気安く呼べないっつーか・・・。」
「それはやっぱり取っ付きにくいってことなんだと思うけど。」
「違うっつーの。分かんねぇかな・・・他と違って大事にしたいっつーか・・・。」


ああ、たぶんそれが一番しっくりくる。
緊張して、普段の調子が出なくて、くだらねぇことに心臓バクバクさせたりして。
ズカズカいきなり踏み込んで行くんじゃなくて、もっと、ゆっくりやってきたいんだよ。


理由が何となく分かってきて、また口が閉しまらなくなって来る。


「そっか・・・よかった。」
「なにが。」
「何となく。分かんないかな。」
「分かんねぇよ。」


うそ。
分かる。
つーか、勝手に分かったことにしとく。
俺はまた顔を腕の中に戻す。どうせ寝られやしないけど。


「・・・今度からって呼ぶ。」
「って、今度はいきなり下の名前呼び捨てなの?」
「うるせぇ。」


普段の俺のようなそうでないような。
酔っ払ったような感覚なのは、徹夜明けのせいもあるよな。
そうじゃないと、ちょっと俺、カッコ悪くねぇ?


目を閉じて、文庫本のページを捲る音に、俺は耳を澄ました。
そいつの腕を掴んだまま。