夕立




どうしてそうしたのか、自分でも分からない。
そいつを目の前にするまで、そんな気はなかった―――とは言わない。
けど、初めからそう言うつもりで呼び出したわけじゃない。
じゃあ何がしたかったんだって聞かれても、はっきりとした答えは出ない。
何も考えなかった。
考えたくなかった。
そして、目の前に立つそいつを見下ろしたら、考えられなくなった。


少し驚いた顔。
でも何も言わないそいつ。
僅かな抵抗は、俺の手によって呆気なく封じられた。










今日最後の講義を終えて外に出る。
陽は大分傾いて、空にはオレンジ色が僅かに残るだけ。
それでもまだ一匹の蝉が忙しなく鳴いているせいで、暑さが和らいだのを感じ取ることが出来なかった。


「あっちぃなぁ。どっか寄ってかねぇ?」


同じ教室から出てきた男が、だるそうに歩きながらそう言ってくる。
けど、俺の返事はもう決まっていた。


「悪い、俺先帰るわ。」
「またかよ?ここ最近ずっと付き合い悪いじゃん。なに、またいつもの女?」


暑いのに詰め寄ろうとする男をかわし、俺は曖昧に笑う。
いや、いつも笑ってるつもりなんだけど、何故か口の端を緩めるのがやっとだった。


「その笑い方、何かやらしぃよな。」


そしてそれを見た連中が揃ってこう言いやがる。
ほっとけよ。
俺はそう言いながら、いつもの場所に向かった。
自分から始めた習慣―――のクセに、どうしても足取りは軽くならない。
ただの「女」だったら、もっと気楽だっただろう。
遊ぶためだけの女だったら。
自分から呼び出したクセに―――待っていなければいいのに、とも思う。
でも実際いなければ、やっぱりムカつくんだ。


待っていれば、胸の中の固い石みたいな塊がどんどん大きくなっていくし
待っていなければ、たぶん、もっと凶暴な気分になる。




場所は、いつも決まっていなかった。
ただ、オープンしたての最新設備か整ってるような綺麗な所じゃなくて、どこか時代遅れな感じの、寂れた場所を選んでた。
五月蝿いくらい軋むスプリング。
古ぼけた照明。
そんな中で欲望を吐き出すことで、俺は、それ以上でもそれ以下でもない、と、託けたかったのかもしれない。


脱ぎ散かした自分の服を探す横で、はテーブルの上に置いてあった腕時計をはめる。
帰り支度を始めるとき、こいつは必ず最初にその時計をはめた。
何でって聞いたことはあったけど、一種の癖みたいなものだと、素っ気ない返事が返ってきただけだった。


「―――もう、蝉は鳴いてねぇかな。」


ここじゃあ蝉の声も、街の喧騒も、何も聞こえてこない。


「蝉、嫌いなの?」
「嫌いじゃねぇけど・・・あれは昼に鳴くもんだろ。」
「別にいいじゃない、ほんの少しの間しか鳴くことが出来ないんだから。」


ちょっと笑ってそいつが言う。
白い背中。
さっきまでは自分を受け入れてたそれが、すごく冷ややかに見える。
いや―――受け入れてなんか、いないのか。
馬鹿馬鹿しくなって、俺も笑った。






次はいつ、とか、いつまでこんなこと続けるの、とか、そう言うことを一切口にしなかった。
ましてや、自分のことどう思ってるの、なんて聞いてきやしない。
そんなことに興味が無いのか、それとも、そんなこと分かりきってる、とでも言うのか。
は、十中八九、これを「脅迫」と取ってるだろう。
そりゃあそうだ。
あれを見た後から、始まった関係だ。
俺自身、そうじゃないと言い切る自信はない。


ゼミの発表準備の為に足を運んだ学科資料室。
古い紙の匂いなのか、カビの匂いなのか、普段は縁の無い空気。
天井までもある本棚の間から現れた女の顔は、どことなく上気しているように見えて―――立ち去った部屋の隅に落ちている腕時計を拾った。


鎖が壊れてしまっていた、それ。
俺は何故か自分で直してからそれを返そうとした。
そして、講義の終わった小教室に呼び出して―――それが、最初。
人気のない所に呼び出している時点で既に、やっぱり俺にも下心はあったんだろう。
「ありがとう」とだけ言って時計を受け取る
それをはめようとした腕を掴んで、気が付いたら、唇を塞いでた。






「―――よかったね、蝉、鳴いてないよ。」


他意なくそう言って笑う。
確かに蝉の声は聞こえなかったけど、代わりに車の音とか、どこかの酔っ払いの笑い声とかが鬱陶しかった。
ホテルの空調が効き過ぎなんだろう。
大学を出たときよりも、暑苦しい空気が体にまとわり付く感じがする。


「でも、あちぃ。」
「夏だからね。」
「そう言っちまえば実も蓋もねえな。」


は肩を竦めて小さく笑い、俺に背中を向けた。
駅に向かうため。
帰りはいつもこんな感じで、ホテルを出てから500メートルと一緒に歩いたことがない。
それがこいつのささやかな抵抗、なのか、俺の意地、なのか。
一度も振り返らずに離れて行くを見ると、すごく、むしゃくしゃするから、俺もさっさと車の止めてある場所へ向かう。


その途中、たまに、考える。
あの時遭ったのがじゃなかったら―――こんなこと、してたか?
でも、答えなんか見つからなくて、余計自分の中の塊がでかくなるだけだった。








来週から夏休みに入るのだと、その講義で教授がレポート課題の説明をし始めて漸く気が付いた。
夏休みを忘れるなんて今までの自分からは信じられなかったけど、それを知って何となく憂鬱になった自分に更に呆れた。
飽きもせずからかってくる連中と別れて、いつもの、あの小教室に向かう。
その途中、やけに焦りみたいなものを感じたのは何でだったんだろう。


俺を追い立てるように、遠くで雷が鳴る。
喧しく鳴いていた蝉の声が、いつの間にか、消えていた。


ドアを開ける。
このときに一瞬息を詰めてしまうのは「一種の癖」みたいなもんだった。
変わらず、机に肘を突いて窓の外を眺めている、そいつ。
安堵と同時に、何かが胸の辺りでざわつく。


「何で窓開けてんの?」


中には入らず、ドアの脇に背を凭れて、そいつが席を立つのを待つ。
こうやって廊下の様子を窺ってる辺り、妙な後ろめたさがある証拠だろう。
何に対してかは、はっきりしないけど。


「風が涼しくなったな、と思って。」
「冷房効いてんだから、中じゃ関係ないじゃん。」
「外の風の方が気持ちいいでしょ?」
「そうか?」


は椅子から立ち上がり、名残惜しそうに窓を閉める。
そして、鞄を肩にかけてドアの横の照明のスイッチを切った。
予想以上に明るさを失う部屋。
いつの間にか雷雲がすぐ近くまで来ていたらしい。


薄暗い廊下に、青白い光が走る。
けど、は気にする様子もなく歩き続ける。
雷鳴と同時に、いやな振動が窓ガラスを伝う。
それでも、何もなかったように黙々と歩いた。


女なら少しは怖がれよ。
そんな軽口を叩こうと思ったけど―――出来なかった。
気付いたから。
こいつが、今、全ての感情を麻痺させて歩いていることに。


焦り、苛立ち。
寂しさ。
色んなものが湧き上がってきて、耐えられなくて、俺は咄嗟にそいつの腕を掴んだ。


「なんで―――」


なんでいつも待ってんの。
なんで拒絶しないの。


ずっと、聞きたくて、聞けない。
そして、やっぱり今も聞くことが出来なくて、声が出ない。
ぽつり、と黒い大きな沁みが二人の足元に出来る。
三つ、四つ―――そして次の瞬間には一気に乾いた場所が消え失せて、痛いくらいの雨粒が容赦なく落ちてくる。
でも俺は動くことが出来なくて、目の前のそいつも、俺をじっと見上げたまま動かなかった。


「―――それは、卑怯だよ。」


雨がコンクリートや壁に叩きつけられる音しかしない中、何故かの声が恐ろしく透って聞こえた。
俺の聞きたいことが分かってたんだろう。
そして、それは自分こそが聞きたいはずのこと。


そうだな、俺は卑怯だ。
こんなふうにしか、お前との距離を縮めることが出来なかった。
いや―――実際には縮めるどころか遠ざかってて。
それを認めることも出来ずにずるずると続けてた。


ただの脅し。
単なる欲。
そんなふうに片付けたくて、でも、割り切ることが出来ない。




「ごめん」




ずぶ濡れになりながら気が遠くなるくらいそこに立ち尽くして、漸く俺が口に出来たのは、そんな安っぽい謝罪の言葉だけ。
何に対して謝ってるのか自分でも分からない。
安易にこんな言葉を吐くことは余計卑怯なんだと分かってたけど、他の言葉が出てこない。


「ごめん」


でも、お前と「こう」なったことは、後悔することが出来ないんだよ。
ばかだから。


そいつの腕をもう一度強く掴んで、自分の方に引き寄せる。
水音とともにそいつが俺の腕におさまると、また同じ台詞を呟いた。
卑怯だ―――って。


「なんで―――高橋くんの方が泣くの?」


泣いてなんかいねぇよ。
そう言おうと思ったけど、自信がなかった。
ぼろぼろ体から零れ落ちたものが、雨で流されるような気がしたから。


「―――そうじゃ、ねえんだ。」


自分でもよく分からないまま、そう言って思い切り抱きしめる。
濡れた服を通して伝わる体温。
こう言うふうに女を力いっぱい抱きしめたのは、何故だか、生まれて初めてな気がする。


―――わかってる


雷で、そいつの声は聞こえない。






あの場所に行くのは、その日が最後だった。