とうひ




ちょうどいい機会だと思った。






「―――あれ。」
「あ・・・。」


玄関のチャイムが鳴ってドアを開くと、そこには思ってもみない人が立っていた。
引越会社のつなぎを着て、帽子を被って。


中村くん。
うん、そうだ。中村くんだ。
同じ大学で、同じクラスの。


「お前んちだったのか。名前一緒だし女の一人暮らしなんて言うから、もしかしてとは思ったんだけどさ。」


あーびっくりした。
そう笑って言いながら、中村くんは靴を脱ぐ。
その後ろから先輩社員らしき人も上がってくる。


「中村くん、引越やさんでバイトしてたんだ。」


部屋の荷物を検分する中村くんの背中に向かってかけたその声は、まだちょっと上の空。


「ああ、ちょっとお金がキビしくなると、時々なー。」


荷物の量は大したことないっすねと、もう一人の人と話しながら
こちらを振り返り、ちょっと照れくさそうに、にって笑う。
その笑顔は、何となく私をほっとさせた。


「新しい所から大学って近いんだっけ?」


荷物を全部積み終えて、引越先に移動する。
私もそのトラックに一緒に乗せてもらえることになった。
先輩っぽい人が運転席。私が助手席。
中村くんはその間に座って、ちょっと窮屈そう。


「うーん、あんまり変わらないかも。」
「ふーん。」


中村くんは特に気にしない様子で、ペットボトルの水を飲む。
私は窓の外を見て、ちょっと笑う。


「ちょっとした気分転換、かな。」


そう付け足した言葉は、嘘じゃない。
あの部屋から出て、新しい気分でやり直したかった。
あの男の思い出が染み付いてしまったあの部屋から出て。


自分もあいつも疲れちゃって。
向こうから切り出された別れ話。
未練がなかったわけじゃないけど―――自分もそれをすんなりと受け入れた。
そうやって納得して別れたんだけど。
それでもやっぱり―――つらくて。


アパートの契約更新のお知らせが届いて。
いい機会だと思って、引っ越すことに決めた。


「おー、いい部屋じゃん。」
「そうかな。」
「何か家賃高そうだなぁ。」


新しい部屋は、当たり前だけど、ガランとしていて。
何もなくて。
そこに中村くんの声が響く。


「お前、これからここに入り浸ったりすんなよ?」
「しませんってー。」


先輩と冗談を言いながら笑い合う。
その明るい声が、これからの新しい生活への期待を大きくさせる。


うん。
ここで私はやっていける。


そんな勇気みたいな、確信みたいなものが心に満ちてきた。


荷物の搬入が始まる。
私も手伝おうと思ったんだけど、中村くんが


「邪魔邪魔。お前は茶ぁでもすすってろ。」


なんて冗談めかして言うから、結局私はぼーっと見ているだけだった。
手際よく運び込まれる荷物。
確かに私は邪魔かも。
半ば感心しながら二人の様子を眺める。


あっと言う間に荷物は運び終わり。
中村くんたちは帰ることになった。


「じゃあ中村、お前、清算頼んだぞ。」


そう言って先輩社員さんが、何やら袋を中村くんに投げる。


「えー?あ、はい。」
「俺は先にトラック戻ってっから。」


ひらひらと手を振ってトラックの方へと戻っていくその人。
一人残された中村くんは、俺金の計算とか苦手なんだよなぁ、とポリポリ頭をかいていた。


「えーと、いくらだったっけ。」


渡された袋からゴソゴソと伝票を取り出す中村くん。
私がその様子を何となく眺めていたら、中村くんが私をちょっと見て、少し口元を緩ませた。


「これでお前んち分かったし。何かあったら送ってやれるな。」
「なに?送ってくれるの?」
「おう。今度俺の素晴らしい愛車に乗せてやる。」


知ってる。
中村くんの車。
あのオレンジのやつだよね。
大学の駐車場でもすごく目立つから、よく覚えてる。


「何かうるさそうな車だよね。」
「何だと?この俺様の車にケチ付ける気かよ?」


あの音がいいんだよ、あの音が。
笑いながらそう言って、伝票を切る。
中村くんの口調が何となく可笑しくて、私も思わず笑ってしまった。


「はい。これ、五万三千円ね。」
「おう。」
「あとこれ、二人でジュース飲んでね。」
「おっ!サンキュー。」


嬉しそうに笑って、いそいそとそれをポケットにしまう。


「ちょっと、二人で使ってよ?」
「分かってるって。」


本当に分かっているのかな?
どこか企んでいるような笑いを浮かべて、中村くんは玄関のドアを開ける。
それじゃあまた、大学で。
そう言いかけたとき、中村くんがこちらを振り返った。


「―――あ、そうだ。」
「え?」
、お前、ちゃんと授業中起きてろよ?」
「・・・は?」
「前でお前が居眠りして、首ガクガクさせてっから、何か冷や冷やして俺が眠れねぇんだよ。」
「なっ・・・。」


確かに。
私はよく、中村くんと一緒の講義で寝てる。
だって・・・お昼の後の時間で・・・なんて心の中で言い訳。
そんなこと口に出せなくて、その代わり顔が熱くなってきた。


「あそこまで毎回豪快に寝てっとなぁ。たぶん教授も気付いてるぜ。」
「う・・・うるさいな。」


それに追い討ちをかけるように中村くんは笑う。
私が恥ずかしくて思わず俯くと、ぽんぽん、と中村くんの手が頭に触れてきた。


「まあ・・・俺が見てると思って、少しは緊張してろよ。」


すぐに顔を上げたんだけど、それよりも中村くんが手を上げて玄関を出て行くほうが早くて。
その彼の顔が、少し赤かったかどうか。
よく分からなかった。


バタン、とドアが閉まる。
その後に続く、カンカンカンと階段を勢いよく下りていく足音。


急いで部屋の窓から下を覗けば、慌ててトラックに乗り込む中村くんの姿。
トラックのエンジンがかかる音。


―――うん。
ここで私はやっていける。


その走り去るトラックを見送りながら。
私はもう一度、強く、そう思った。