朝、目を覚ます。
ああ、ちゃんと眠ってたんだ、なんて思いながら洗面台の前に立つ。
鏡を覗き込むまでもなく、目は見事に腫れ上がっていた。
二日酔い、と言うのは無理がある。でも眼鏡をすれば少しは誤魔化せるだろうか。
時計を見ればまだ6時過ぎ。


大学、休んじゃおうかな。
普段真面目に出ているから、一日くらい休んだって大丈夫だろう。今日何かテストがあるなんて聞いてないし。
でも、こんなことで休みたくない、とも思う。
「別にこんなことは自分にとって大したことじゃないのよ。」と意地を張りたい気分。
いや、実際、大したことないのかもしれない。
失恋なんて。


もう一度時計を見上げる。
シャワーを浴びて、冷たい水で顔を洗って。それでも1限の講義に余裕で間に合う。


「よし、行くか。」


気合いの入った声を出したけど、目の前に映っているのは情けない顔の自分で、今いち決まらなかった。








朝食は家で取らずに大学近くのカフェに入った。
カウンターで注文したカフェラテとデニッシュを受け取り、空いている席を探してウロウロしていたら、急に肩を叩かれた。


、いい加減気付けよ!」


思わず落としそうになったトレーを持ち直して振り返る。
と、そこにはちょっと怒ったような顔をした中村くんが立っていた。


「さっきから必死に手ぇ振ってる俺がバカみてぇじゃん。」
「え、あ、ごめん。壁の色と同化してたから気付かなかった。」
「・・・ぶっとばす。」


そんな不穏な台詞を吐きながらもその顔は笑ってて、私も思わずつられる。
けど、自分がかなり情けない顔をしているのを思い出して慌てて顔を俯かせた。


何も気付かないようにして、さっきまで座っていたらしい席へスタスタと戻る中村くん。
気付かないふりをしてくれてるのか。
いや、案外本当に気付いてないのかも。
だけど中村くん、眼鏡の私なんてよく分かったな。
そんなことを思いながら、私はほっとため息をつき、中村くんの向かいの席に腰掛けた。


「何、お前、いつもこんなとこで飯食ってんの?」
「そんなことないよ、たまに入るけど。そう言う中村くんは朝からこんな所でどうしたの?」


中村くんはバイト先の知り合い。
シフトが重なることが多いから、よく話をしたり冗談を言い合ったりしてバイト仲間の中でも仲はいい方だと思うけど、
でもバイト先以外の場所でこうやって偶然会うなんて初めてだ。
私は時々大学へ行く前にこのお店に寄ってお茶したりするんだけど、この中村くんがこんな健康的な時間帯に活動しているなんて信じられない。そう、確か夜は大体一晩中車で走っているはずだ。
私が聞き返すと、彼は急に思い出したとばかりに大きな欠伸をした。


「ああ、昨日徹夜でさー、ものすっごく眠くてこのまま運転したら事故りそうだからコーヒーでも飲んで眠気覚まそうと思って。」
「昨日の夜も走ってたの?」
「いや、テツマン。」
「・・・・・・。」


呆れたような顔をすれば、


「あ、俺勝ったんだぜ、今度何かおごってやるよっ。」


と慌てて言いながら不自然にコーヒーを飲む。
そんな様子がすごく可笑しくて、ほっとする。


何だか―――いつもと全然変わらないなぁ。


それは当たり前のことなんだけど、何だか、すごくすごく不思議なことのように感じた。
そして、すごくすごく、嬉しい。
思わず泣きたくなるくらい。








私は昨日失恋した。
いきなり―――ううん、前から薄々分かってはいたんだけど、「他に好きな子が出来た」なんて神妙な顔をして言い出して、決定的となった。
何で?何が悪かったの?何が狂っちゃったの?
笑って別れられるほど、私は大人になりきれなくて、悔しかったけど、目の前で泣いた。
家に帰ってもやっぱり泣いた。


昨日から、私の生活は変わってしまった。
1年近くも続いていた生活が、急に、一晩で。
でも―――当たり前だけど―――世の中は何も変わらない。
中村くんも変わらない。
変わらない笑顔。


悔しいけど、嬉しい。


「あ・・・と、煙草、吸っていい?」


中村くんはテーブルに出してあった煙草の箱を掴み、ぽんぽん、と中から一本取り出す。
遠慮がちに訊いておきながら、私の返事を待たないその行動はどうなの。
すでに煙草を咥えて、まさに火をつけようとしている彼に、一応「どうぞ。」と言っておく。
そのとき、笑いと同時に何か変な感覚が襲ってきたけど、私にはそれが何だかよく分からなくて、戸惑って、その煙草の箱を奪うと言う意味不明の行動に出てしまった。


「あれ、って煙草吸うんだっけ?」
「ううん、ここ1年くらい吸ってない。」


あの男は煙草を吸わなかった。
だから、私も自然に吸わなくなってしまっていた。
彼氏に嫌な顔をされてまで吸いたい、と思うような代物ではなかったから―――なんて、取って付けたようかな。


「肺真っ黒になるぞー。」
「・・・って、そんな恍惚とした顔して吸いながら言わないでよ。」


何となく、後に引けなくて私は煙草に火をつける。
―――苦い。
こんなに苦いもんだったっけ?


「そんな不味そうに吸うんじゃねぇ!」
「中村くん、言ってることがおかしいよ!」
「俺の大事な一本なんだからなー。」
「ごめんごめん。」


貧乏くさ、って呟いたら睨まれた。
ごめんごめん。
でもその大事な一本でちょっと元気になれた気がするよ。


「お前、今度バイトいつ?」
「明日。」
「よし、じゃあそんとき奢ってやるよ!」
「え、さっきの本当だったの?煙草一本ケチってるのに大丈夫?」
「やっぱの奢りな!」
「げっ!」


二人で声を出して笑う。
すごく自然に笑えた自分にちょっとびっくり。


何か、ちょっとずるいぞ、中村くん。


「そろそろ大学行かなきゃ。」
「おう!ちゃんと真面目に講義受けろよ!」
「中村くんに言われたくないよ。」


明日楽しみにしてるよ。そう言って、やっぱりカラカラと笑いながら、私は席を立ち、手を振ってお店を出た。
外に出てその陽射しの眩しさに、私は目が腫れていたことを思い出す。
そんなこと、途中からすっかり忘れてた。


ガラス越し、お店の中に目を向ける。
中村くんがこっち見て手を振ってる。


「ありがと。」


今日、休まなくてよかった。