きょうかい




どうも頭がぼーっとして、体が思うように動かず、だるい。
久しぶりの感覚に、あいつにうつされたかと内心舌打ちした。


ついこの前まで大熱を出して寝込んでいた
「うつすから」と珍しくしおらしいことを言うあいつに、「平気だ」と構わずに普段どおり一緒に過ごした。
いや、普段以上に、かもしれない。
俺は体も丈夫なほうだし、自己管理は出来ている方だ。
まさか風邪を引くようなことはないだろう、などと高をくくっていたら―――。


あいつにあわせる顔がねぇな。
俺は眉間に手をやり、だから言ったじゃないのと怒るあいつの顔を頭から追い出した。








「須藤さん、今日の場所分かってますよね?」
「―――今日の場所?」


昼休みが終わろうとしているとき、同じ部署の女性社員にそう聞かれて、初め何のことだか全く思い出せなかった。
が、その彼女が持っていた居酒屋の地図を見て思い出す。
同僚の送別会だった。
今日は早く仕事を上がろうと言うことばかり考えていてすっかり忘れていた。それだけ頭がぼやけているのか。


「ああ、大丈夫だ、分かる。」


その同僚は、入社当時からずっと一緒に仕事をしてきた仲間だった。社内では比較的親しくしていた奴だ。
明日は週末で休みだし何とかなるだろうと、定時後、会社の連中と一緒に居酒屋に向かった。








いつもは飲み会と言えば会社の近くの店が定番なのに、今日の会場は駅前の繁華街にある小綺麗な店だった。
送別会と言うことで気合いを入れたのか、ただ単に幹事の趣味か。
たまには、あいつをこんな所に連れてくるのもいいな―――なんて考えちまう自分は、相当焼きが回ってるのか。
人に気付かれないようにため息をつき、威勢のいい店員の案内に促されて部屋に向かった。


各テーブルの間が背の低い壁と御簾のようなもので区切られて個室のようになっており、後輩「ここなら少しぐらい騒いでも平気ですかね?」などと冗談めかして言う。「これじゃあ丸聞こえだろう。」と苦笑しながら、何とはなしに隣りの個室に目をやる。箸や皿は並べられているが誰もいない。ここももうじき宴会か、とぼんやりと考えながら案内された部屋に入り、端の方の席を陣取った。
送別会自体はお決まりのパターンで、滞りなく過ぎた。
上司が挨拶してビールで乾杯して、歓談する。


「今日はあんまり飲まないですね。」
「そんなことはないが・・・」


ビール瓶を片手に隣りに来た後輩が、なかなか減らない俺のグラスのビールを不思議そうに見た。
別に普段からそんなに沢山飲んでいるつもりはないが―――さすがにこんな体調でガブガブ飲む気にはなれない。
一応そいつへの礼儀でグラスを飲み干し、ビールを注いでもらう。
少し頭がグラグラし出す。
ちょっとやばいか?そう思い、トイレに行こうと立ち上がった。


部屋から出てサンダルを履くとき、また隣りの部屋が目に入る。さっきは誰もいなかったそこが、スーツ姿の男たちによって埋め尽くされている。やはりどこかの会社の飲み会か。
わいわいと盛り上がるその部屋を通り過ぎようとしたとき、俺の名前を呼ぶ女の小さな声。


「京一。」


当然と言えば当然だが、同じ職場の女性社員で俺を下の名前で呼ぶ奴なんていない。
一体誰だ?
後ろを振り返ろうとしたとき、その隣りの部屋の入口付近に座っている女の姿が視界に入った。


―――


こっそりと、同じ会社の連中に見つからないように小さく手を振っているのは、確かにだった。
酒と風邪のせいで頭がぼーっとしてると言っても、まさか自分の女を見間違うはずがない―――たぶん、だが。


お前も飲み会だったのか。


声には出さず眉間にしわを寄せてを見たが、そいつは肩を竦めただけで、さっさと職場用の顔に戻っちまった。
予期もしない、こんな所で偶然にに会ったことに思わず口元が緩んで、咳払いを装う。
―――が、それと同時に、自分のテリトリーではない場所にいるそいつに、嫉妬のような焦燥感のようなものを感じる。
きっとこのときの俺は随分と複雑な顔をしていたことだろう。




さて、それからはどうも落ち着かない。
トイレから部屋に戻るときチラリと覗くと、こっちに気付いているのかいないのか、は笑顔で上司らしき中年の男にお酌をしている。席に戻っても御簾越しにそいつのことが気になって仕方がない。
普段は、どちらかと言えば束縛はしないほうだと思っている。飲み会に行くと言われれば「ああそうか」で終わりだし、友達と泊まりで旅行に行くと言うときだって誰と行くかなんて聞いたりしない。
それは会社の人間と飲みに行く事だって腐るほどあるだろう。
愛想笑いを振りまいてお酌をすることだって必要になるだろう。
頭では分かっていて、自分で自分を説得するが―――やっぱり気になって仕方がない。
なまじ見えそうで見えない、この御簾が悪いんだと見当違いな八つ当たりをしてしまう。
やっぱり風邪なんだろう。
いつの間にか気付いたらビールの量がいつもと変わらなくなっていた。


今日を限りに辞めてしまう同僚と話をする。
申し訳ないと思いつつも、やっぱり意識のどこかは壁を隔てた後ろにいるに向いてしまっている。


「今度またゆっくり飲みに行こう。」
「須藤とは一度ゆっくり飲んでみたいと思ってたんだよ。」


罪悪感から、自らそいつを飲みに誘う。
場所的にも精神的にも体力的にも、もうちょっと落ち着いたときにそいつと話がしたいと思ったのは本心だ。
―――などと言い訳がましく心の中で呟きながら、またの方を見てしまう。
そしてタイミング悪く目に飛び込んできたのは、の肩に誰かの手が置かれているシーン。


いや、それくらいのコミュニケーションはあるだろう。
しかも飲みの席だ、肩ぐらい―――。
何とか自分自身に説得を試みたが―――無理だ。どうやら今日は沸点も低くなってしまっているらしい。
変わらず愛想笑いを浮かべる。俺はその男ともども御簾越しにジロリと睨む。


「またトイレですかー?」と暢気に言う後輩の頭を無言でグシャリとかき回し、サンダルを突っかける。
もうこの際どう思われようが構わない。
今度は御簾越しじゃなく直接を見る。
そいつも俺を意識していたのか―――いや、それは自惚れか―――すぐにこっちを向いて、目が合う。
俺は部屋から外に出るよう目配せする。
もしここで知らんぷりでもされたら、ズカズカ部屋に入って腕を引っつかんででも連れ出すつもりだったが、幸いが大人しく立ち上がる。俺はそれを見届け、先にトイレの方へと向かった。


「どうしたの?」


突き当りをトイレとは反対側に曲がり、物置らしき部屋の前で立ち止まる。
誰も来ないのを確認したは、いつもと変わりない笑顔を見せて俺を見上げる。
そんなの挙動一つ一つに無性に腹が立って、その腕を掴み、ぐいと引き寄せた。
やっぱり俺はどこかおかしい。
普段ならこんな所で抱きしめたり―――ましてや、キスなんてしやしない。
しかもすぐそこには、お互いの職場の人間がうじゃうじゃいると言うのに。
頭の隅ではちゃんと冷静に考えていながら、体が勝手に動く。


唇を離すと、びっくりしたの顔が目に映る。
だが、抵抗することはなくて大人しく俺の腕の中におさまっていた。


「―――京一、熱があるの?」


だんだんと心配そうな顔へと変わっていく。
その台詞は、俺らしからぬ行動のせいなのか、それとも唇や舌から伝わった熱のせいなのか。
俺が不機嫌そうな顔をして黙っていると、はやや呆れたようにため息をついた。


「だから、うつすって言ったのに。」


そう言って、今度は自分から唇を重ねてくる。
くらくらして、何も考えられなくなってくる。
熱のせい―――いや、この場所のせいか。


「・・・何時に終わるんだ。」
「って、まだ始まったばかりだもの、あと一時間以上はあるわ。」
「・・・・・・。」


何も言えずに黙っていると、今度はやや意地悪そうな顔つき。


「京一、やきもち焼いてるの?」
「・・・そんなんじゃねぇ。」
「あら、そう?」
「お前の愛想笑いに騙される男達に同情してるんだ。」
「ふぅん?」


我ながら下手くそな言い訳だ。こいつが信じるわけもない。
さらに意地悪そうにニヤリと笑って、もう一度口付け、するりと腕から抜け出した。


「終わったら、京一の所に行くから。」
「・・・別にいい。うつる。」
「大丈夫よ。手厚く看病してあげる。」


冗談めかしてウインクし部屋に戻ろうとする。その腕を咄嗟に掴んじまった俺は、慌ててそれを放した。
何やってんだ、俺は。
ガキじゃあるめぇし。


「たまには熱を出す京一って言うのもいいわね。」
「馬鹿言ってるな。」
「素直で可愛いわ。」


頭を小突こうとしたら、それより先にが逃げる。
クスクスと笑いながら行っちまう
可愛い?俺が?
ったく、気色悪いこと言ってるな。


俺は顔を顰めたが、いつもより少しばかり嬉しそうだったあいつの顔を思い出して、また、口元が緩んだ。
やっぱり焼きが回った―――か?