ハッケン
外に出たら、息が白かった。
バス停に向かうまでの道、ふと脇を見たら霜柱が立っている。
子供の頃は、それを踏んだ時のサクサクと言う音が好きだったな……なんて思いながら歩く足を速めた。
今日はいつもより少し早かったみたいで、バス停にいつも並んでいるサラリーマン風の男の人の姿はない。
別に何の競争をしているわけでもないのだけど、思わず小声で「よしっ」なんて言ってしまう。
バス停の前に立ち、手にはぁと息を吐きかけて、向かいの街路樹を見上げる。
アスファルトからどんどんその冷たさが体に浸透して来る気がして、無駄な抵抗と分かっていながらも、ちょっとつま先立ちになってみたりする。
サラリーマンのお兄さんが角から現れるのと同時にバスがその後ろから姿を現した。
バスに乗り込むと人の熱気と暖房でむっとする。
私はステップの途中で一瞬む、と口を噤んだ後、奥へと進んだ。
手すりの掴まれるところ……と、ちょっとだけ彷徨っていると、ひときわ背の高い男の人。
その思いがけない偶然に私は思わず口をあんぐり。
でも、自分に向けられた高橋くんの微笑に、慌ててその口を閉じて、同じようにニッコリ。
「おはよう、」
「おはよう。高橋くんってバス通学だっけ?」
「いや、今日はちょっと自分の車を預けててさ」
「ふーん。代車とかは?」
「あるけど、たまには気分転換にね」
「でも車の方が断然楽でしょ?暖かいし」
「寒さには強い方なんだ」
そう言って、ちょっとおどけた感じに自慢げに笑う高橋くん。
その様子が子供っぽくて、この人でもこんな表情をするんだな……と、小さな発見をしたようで嬉しくなる。
「そうなんだ?でも暑さにも強そう」
「そうかな」
「うん。だって今年の夏、あんまり汗かいてるの見たことなかったよ」
「汗をかかないからって、暑さに強いとは限らないけどな」
「じゃあ弱いんだ?」
「どうだろう?」
高橋くんは肩を竦めて見せる。
「何よ、それー」と私は小さく睨みながらも、こんなふうに高橋くんと普通に喋っている自分が不思議な感じだ。
大学で同じクラスではあるけれど、普段はそんなに会話をすることはなくて、交わすのは軽い挨拶程度。
仲のよい友達はお互い別々だそ、「同じクラス」と言う以外に接点はなかったのだ。
別にとっつきにくい人と思っていた訳じゃないけれど、こんなふうに親しげな笑みを浮かべながら冗談まじりの会話をするイメージがなかったから、すごく意外で―――楽しい。
「は寒さに弱いのか?」
「うーん、冬はどっちかと言えばじっとしていたいなぁ」
「熊みたいだな」
「……もっと冬眠する動物で可愛いのってないの?」
くすくすと笑う高橋くんに抗議の視線。
「熊も冬眠中に風邪ひくのかな」
「、風邪をひいているのか?」
「うーん、昨日からちょっと喉が痛いんだよね」
「―――じゃあ、これやるよ」
高橋くんは柔らかそうな黒のコートのポケットに手を突っ込み、何やらゴソゴソとさせたと思ったら、手の平には青い飴の包み。
「俺もこの前少し喉が痛くて、その時に買ったんだ」
「えー、そうなんだ?」
私がちょっと意外そうな顔をすると、涼介は意地悪い目をして口の端を上げる。
「何とかは風邪をひかないんだけどな」
「そ、そうじゃないってば!高橋くんって自己管理とか完璧に見えるから……」
高橋くんのことを冗談でもそんなふうに思う人って、この世にいるんだろうか?
おろおろとする私を見て、今度は可笑しそうにクスクスと笑う。
その様子に、自分がからかわれてるんだと気付いて、私は顔が熱くなった。
それを誤魔化すように私はちょっと俯いて飴の包みを開き、口に放り込む。
そんな時にタイミングよく、バスが強めのブレーキ。
「わっ」
手すりから手を放していた私はヨロリ。
そこにすかさず高橋くんの手が伸びてきて、肩を抱いて体を支える。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
クスクスと笑う高橋くんは、私が手すりに掴まり直した後も、背中にまわした手を離さない。
何だか私はその自分に触れている部分につい意識が集中してしまって、そんな自分が恥ずかしくて「この飴おいしいね」なんて、緊張でろくに味も分かっていないにも関わらず言ってしまう。
それを見透かしているかのような高橋くんの笑み。
「こんなふうにと話をするのって初めてだな」
「う、うん……」
その時、バスが曲がり角を曲がって傾いた。
私はちゃんと手すりに掴まっていてよろけなかったのに、私の背中にあった高橋くんの手が、少しだけ私の体を彼の方に引き寄せる。
ふわり、と高橋くんの匂いがする。
何てことのないように自然にしている高橋くんの真似をして、私も何てことのないような態度を取るけれど、顔が熱くなるのは自分ではコントロール出来なくて、その熱さで口の中に転がっている飴がすぐに溶けてしまいそうだ。
「もっと早くにバスに乗っていればよかったかな」
「え?」
「そうしたら、もっと早くにこうやってと色々話が出来ただろう?」
そう言って柔らかい笑みを見せる高橋くんに、私はどんなふうに返事をしていいのか分からなくなって、ちょっと目を逸らす。
「えーと……今からでも遅くないと思うよ」
そして思いついた台詞と口にした後で、実は結構思い切った台詞だったのかな?なんて少し後悔する。
高橋くんは、そんな私をじっと見た後、小さく笑った。
「じゃあ、車が戻ってくるまではバスを使うよ」
「うん」
「その後は―――さっきが乗って来たバス停の辺りで拾えばいいか?」
「うん?」
「あのバス停の近くに住んでいるんだろ?」
「え……うん。……え?」
「今までの分を取り戻すには、朝だけじゃ足りないかな」
何故か妙に楽しげな顔をして、じゃあ帰りも送って行こう、なんて言う。
その表情が本当に楽しそうだったので、私は暫くしてから、きっと冗談を言ってるんだと思い直す。
けれど、それを見抜いたかのような高橋くんの言葉。
「本気だぜ?」
が嫌じゃなかったら―――だけど。
そう付け足した声が、低く、優しく響いて、私は顔を赤くするだけじゃ足りなくなって頭までクラクラして来た。
「―――前から、こうやってと話がしたかったんだ」
揺れに乗じて、なのか、高橋くんは身を少し屈めて私の耳元に顔を寄せる。
「―――あっ!」
「え?」
「……飴、飲みこんじゃった」
もう、そんなに大きくはなかったんだけど。
動揺でゴクリと飲んでしまった。
一瞬、高橋くんの見せるキョトンとした顔。
そしてその直後、まいった、と言うように細められる目。
「にはかなわないよ」
「え?なに?」
「いや、何でもない」
バスが大学の前に到着する。
ドアが開くと、高橋くんの手がそっと私の背中を押して出口の方へ促す。
「とりあえず、今日一緒に昼飯食わないか?」
「う、うん」
「じゃあ、第一関門クリアだな」
バスから降りて、そう言って笑いながら高橋くんは私に手を差し出す。
「第一関門って……」
「コツコツ攻略するのも楽しいかもな」
そう言って悪戯ぽく笑う高橋くんも、何だか初めて見る表情で、私はくすぐったいような恥ずかしいような気分で苦笑いを浮かべ、その手を取った。