記念日




「じゃあ、お茶入れてくるから待ってて。」


涼介に促され、広いリビングへと入る
自分の家の敷地よりも広いんじゃないか―――と言うのは大げさかもしれないが―――と思うようなそこに足を踏み入れるのも、もう大分慣れてきた。
彼がお茶を入れている間、はいつものようにソファで待とうと部屋の奥へと進む。
こんなに広いのに暖かく感じるのは品のよい調度品のせいだろうか、それともただ、涼介の暮らしている家だからなのだろうか。
そんなことを考えながら、目の前のソファで寛ぐ彼の姿を思い浮かべる。
はそんな自分の空想上の涼介の姿にさえ照れくささを感じ、そこにすぐ腰を下ろすことが出来ず、意味もなくぐるりと周りを見渡した。


そのとき、目に付いたのは、少し離れた所にあるテーブルの上に置かれた、白いカード。
青いラインで縁取りされただけのとてもシンプルなもの。
けれど、どことなく品を感じさせるそれには目を引かれ、誘われるようにテーブルへと近づいていった。


恐る恐ると言った感じで覗き込む。
と、そこには Happy Birthday の文字。


え?誰かの誕生日?


それを見て、初めては自分が涼介の誕生日を知らないことに気が付いた。
付き合い始めて、改めて誕生日はいつ?と聞くのが何となく恥ずかしくて、機会を窺っているうちに随分と月日が経ってしまった。


「どうした?」


トレイに、温かそうな湯気の立つカップを乗せ、涼介がリビングに戻って来た。
いつもは落ち着かない様子でソファに座っているはずのが、今日はテーブルの前で立ち尽くしているのを見て、首を傾げる。
そして、そのテーブルの上にあるカードを見つけ、「ああ」と小さく笑った。


「おふくろ、そう言うところはマメなんだよ。」


小さい頃からまともに誕生日らしいことなんてしてくれなかったけど、カードだけは毎年書いて寄越すんだ。
ため息のような小さな笑いと共に取り上げたカード。
中には、母親らしい、綺麗な字でメッセージが書かれていた。


「今日、誕生日だったんだ・・・。」


おずおずと聞けば、涼介が肯定するように微笑みを向けてくる。


「ごめん、私、何も用意してない・・・。」
「俺も言わなかったからな。もう誕生日って年でもないし、気にすることじゃない。」
「でも・・・。」


やっぱりお祝いがしたかった。
もちろんプレゼントやケーキなんて言う物は後からでも用意できるけれど、今日は会ってすぐにちゃんと「おめでとう」と言いたかった。


ああ、ちゃんと前以て聞いておけばよかった。


そんな後悔ばかりが頭をぐるぐる回る。
しかし涼介にとっては誕生日などと言うものは本当にどうでもよかった。
何もしなくても、ただこうしてと過ごせるだけで十分だ。
ソファに腰を下ろしコーヒーカップを手に取るが、はまだテーブルの前に立ったまま動こうとしない。
そうやって気にしてくれるだけでも嬉しい、と言ったところで、フォローにしか取ってくれないだろう。
自分のことで悩んでくれるその姿がとても可愛く見えて、つい、自分の側へ呼ぶことを忘れて眺めてしまう。
そして、もうちょっと悩ませて見ようか、と悪戯心を起こし、わざとらしく咳払いした。


「じゃあ、プレゼントをもらえるか?」
「え、うん。何がいい?」


今にも買いに部屋を飛び出してしまいそうな彼女の腕を掴み、涼介は自分の脇に座らせる。


「今すぐ欲しいんだけど。」
「え・・・。」


さっきまでとは違う、ちょっと意地悪そうな笑み。
まっすぐ見下ろしてくる目には、何やら艶めいたものを滲ませる。
こう言うとき、これからどんな展開になって行くのかと言うことは、経験上よく知っている。
は僅かに後ずさりするが、涼介の手はもちろん放してはくれない。


プレゼントが私・・・とか、言うんじゃないよね?


我ながら、真面目に考えるには随分と恥ずかしい台詞を心の中で呟くけれど、あながち外れてもいないような雰囲気。
涼介はゆっくりとの前髪をかき上げ、その指を耳の方へと滑らせて行く。
普段はただただ優しい手つきのそれも、こう言う時になると忽ち相手をおかしな気分にさせてしまうのだから、すごい。
そんなことを冷静に考える振りをしながら、流されないようにと悪あがきする。
さっきよりも、さらに絡みつくような視線で、を覗き込んでくる涼介。


からキスしてくれ。」
「え・・・」


はさっきからまともな言葉を発することが出来ず、じっと涼介を見つめるだけ。
キスくらい、もちろん今までだってしたことはある。
確かに触れてくるのは涼介からの方が多いけれど、の方からしたことだってないわけじゃない。
そんなことでいいの?
そう聞き返しそうになったけれど、迂闊にそんなことを言ってもっと無理難題を突きつけられたら怖い。
動き出せずにじっと自分を見上げてくるに、「そんなに深く考えるなよ。」と涼介は可笑しそうに笑った。


「普通に、いつものようにしれくれればいいだけだよ。」


そう言って僅かに口端を上げてじっとを待つ。
けれど敢えて目を閉じないところは相変わらず意地悪だ。
意を決してソファに膝を立て、涼介の肩に手をかける。
どんな顔をしていいのか分からずにやたらと口元を強張らせてしまう。


「・・・もうそろそろ目を閉じてくれてもいいと思う。」
「ちゃんと唇が触れたらな。」


そんな意地悪を言いながら、声のトーンが下がってくる。
強情にも開いたままの漆黒の瞳には、すでに誤魔化しようもないほどの情欲が浮かぶ。


こうやって明るい部屋であらたまってキスをするのは、異様に恥ずかしい。
昼間の、暖かくて明るいリビング。
普段と変わらないコーヒーの香り。
母親の手書きのカード。
健全な空気。
けれど、二人の中にはそれとは全く違ったものが湧き出し、今にも溢れそうになっている。


「―――はやく。」


そう言いながらも涼介はじっとを見上げるだけで、自分からは動かない。
は緊張を和らげようとちょっと俯いて唾を飲み下し、もう一度、彼の肩にかけた手に力を入れた。
いつもはあまり気にしない自分の呼吸が気になって、息を止める。
そーっと顔を近付けて、本当にぎりぎりまで目を閉じない涼介に心の中で抗議しながらも、唇を重ねた。
ただ触れるだけのキス。
けれど、今までの過程で感覚が敏感になってしまっているのだろうか、それだけでは頭の芯が痺れそうになる。


が、ゆっくりと顔を離せば、不満そうな涼介の顔。


、俺を焦らしてるのか?」
「そう言うわけじゃないよ・・・。」
「そんなので、満足出来るのか?」


出来るわけないよな―――?
見透かすような目を向け、口を開いて僅かに覗かせる赤い舌が、に様々な欲望や罪悪感を湧き上がらせる。


―――。」


促すように耳元で名を呼ばれ、熱い息がかかる。
それだけで背筋に何かが走り、涼介に触れていた手がビクリと動いてしまうのが恥ずかしい。
はそれを誤魔化すようにやや乱暴に涼介の唇に触れ、そろりとそれを舐めて吸う。
その感覚に焦れて、結局涼介の方から舌を絡めてしまう。


は誘い上手だよな。」
「・・・人聞きの悪いこと言わないで。」


意地悪く笑う涼介に頬を膨らませて抗議してみるけれど、だんだん思考する力は麻痺してくる。
この黒い目が悪い―――と彼の目を片手で隠し、自分から舌を差し入れて絡ませる。
どちらの熱なのか、どちらの息なのかわからなくなる。
服越しに触れてくる涼介の手に、今度はの方が焦らされる。


でも、そこに聞こえてきたのは大きな車のエンジン音。


ほんの僅かな時間の間に、ここが明るい昼のリビングであることを忘れてしまったは、初めその音が何なのか認識できなかったが、「ゲームオーバーみたいだな。」と名残惜しげに言う涼介の声にやっと我に返り、慌てて涼介から体を離した。


「あいつ、今日は帰り遅いって言ってたのに。」


そう言いながらの髪を撫で、服装を整える。
そしてまだ熱が取れきらない彼女の顔を覗き込んで、また意地悪を言う。


「残念?」
「べ、べつに・・・。」


ちょっとだけ・・・。
目を逸らしてポソリと言った彼女の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
涼介は最後に、ぽんぽんと彼女の頭を撫でた。


「来月にはちゃんと考えておくから。」
「来月?」
の誕生日だろ。」
「え!何で知ってるの?」
「この前免許証を見せてもらったときにチェックした。」


さすがに抜かりがないな。
さっきまでの顔つきはどこへやら、楽しそうにクスクスと笑う涼介を前に、は感心して目を丸くする。


「やっぱり、3倍返しくらいは当たり前なのかな。」
「え・・・?」


3倍?
3倍って何の3倍?
意味ありげな笑みを残し、弟を出迎えようとリビングのドアを開ける涼介。
はちょっと怖いような楽しみなような複雑な気分で、目の前の冷めてしまったコーヒーに口をつけた。