成る可くして   Side K




ああ――馬鹿だな。
そんな顔まともに見たらアウトに決まってんじゃん。
俺は思わず心の中で呟いちまった。




が、うちに来たのは二年前くらいか。
俺やそいつが中学を卒業したとこで、アニキは高校の一年から二年に上がるとこで。

それ以前にも何度か来たことはある。
そいつの親父さんとうちの親が大学の同期だとかで、休みの日にうちに来て飯食ったりとか。
本当に「何度か」って程度で、次の約束がある訳でもなく、忘れた頃にやって来る。
でもその時から、アニキはこいつのこと結構気に入ってんなぁってのは感じてた。
あからさまに馴れ馴れしくするってことはないんだけど、何て言うか、身内だと分かる感覚って言うか。

そいつは人見知りで、年に数回会う程度じゃ、会うたびに緊張しちまってて。
でも、帰る頃には漸くちょっと笑ったりして。
その顔は確かに俺も結構可愛いとは思う。
何となく雰囲気は緒美に似てなくもないから、アニキもあいつに対してみたいに妹みたいな感じで可愛いのかなと思った。
アニキは緒美のこと結構可愛がってるから。
でもまあ、うちに来たその日ぐらいしか、そいつの話題は出て来ない。
その程度。
そんな程度だと思ってたんだけどさ、それって、つまり――アニキのヤツ、「自制」してたんだな。
そいつが、うちに居候するって決まった時、そのことに初めて気が付いた。

の親父さんが、海外の医師団に参加するとかで数年日本を離れることになって。
お袋さんも同じ医者で一緒に行くとか何とかで。
でも、派遣先は決して治安がいい所とは言えないらしくて、娘のは日本に置いていくことになったらしい。

その話を聞いた親父が、それならうちで預かろうって言ったみたいで。
確かに、うちには使ってない部屋とか余ってるし。
でも、おい、年頃の男が二人もいんのに大丈夫かよって、俺の方がちょっと気になったんだけど、親父はそう言う発想が全然なかったみたいで、うちのお袋も全然心配してない風で――それはそれで、ちょっとどうなんだよって思うけど。
相手の両親も「高橋の家なら安心だ」なんて言っちゃったとか何とか。
医者って、そう言う一般常識みたいなトコが欠落すんのかな。
この俺に心配されるなんて、相当なモンだろ。
まあ、俺は別に襲うつもりねぇし――そんな手近なもんに手を出すほど困ってねぇし――余計なことは言わなかった。
他人と暮らすなんて面倒くさいっちゃ面倒くさいけど、でも、あいつくらいならいいかな、とは思った。
その程度には、俺もあいつのこと、気に入ってたんだよな。
アニキも、この話があった時、特に反対はしなかった。
俺よりも寧ろアニキの方が他人に自分の領域へ入って来られるのを嫌がる性質のはずなんだけど、やっぱり、アニキもあいつのこと気に入ってるんだな。
が実際家に来るまでは、そんな風にぼんやり思ってた。


でも、そいつが家に来て、リビングで改めてお互いを紹介し始めた時。
うわ――やばい、って思った。
アニキが、完全に、そいつを堕とすモード。
そんなの今まで見たことないけど、同じ男なら分かる。
いや、俺くらいにしか分かんねぇのかな?


他の野郎みたいに、女を前にガツガツするとか、そんなんじゃない。
でも、その、見たこともないような綺麗で、優しげで、でもどこか怜悧な笑み。
他所向けのただのお綺麗なモノとも違う。
かと言って、史浩とか俺とか、親しい間柄で見せる単に柔らかいものとも、ちょっと違う。
でもさ、たぶん、その辺の女を堕とす時に使うものとも違うんじゃないかな。
その時のアニキなんて、もちろん俺は知らないけど、そんな、安っぽいモンじゃない。
何て言ったらいいか分からない。
狙った獲物を、自分から落ちて来るように仕向けるような――ある種、えげつない。
ちょっと違うけど、これに似たアニキは、たまに見たことある。
峠のバトルで。
相手が強敵であればあるほど、アニキは嬉しそうに、ぞくぞくするような綺麗な笑みを作る。
それに似てる。

が顔を上げて、アニキのそんな笑みを見て――一瞬呼吸を忘れたような目をする。
あーあ。そんな顔、まともに見るなよ。
15年も一緒に暮らしてる肉親でしかも同性の俺でも引き込まれちまいそうな顔だ。
ろくに男自体への免疫もなさそうなお前じゃ瞬殺だろ。
慌てて視線を逸らしたの顔は真っ赤。
何だか気の毒になって来た。

どうかした?って白々しいアニキの顔。
微笑ましいなんて思っちゃってる平和なお袋と親父。
でもさ、アニキ、俺なら気付いてるって分かってやってるんだろ?
これは俺の獲物だから手を出すなって――ほんと、えげつない。




けど、あいつがなかなか自分の手に堕ちなかったのは、アニキもちょっと予定外だったんじゃないかな。
予想以上の奥手。
人見知りする方だってのは知ってたから、まあ、奥手だってのは分からないこともないけど。

あのアニキがもう全身で、完璧に、陥落させようとしてるんだ。
これがまた絶妙って言うか何て言うか――
微笑が凄絶なのは言うまでもなくって、細められた切れ長の目は、一見天使か何かみたいに一切の曇りがないように見えて、相手に警戒心なんか全く抱かせないようにして。
けど、端から見てると、やばい。
よく昔の言葉で、視線だけで女妊娠させるとか言う例えがあったような気がするけど、そんな感じか?
いや、もっとひどい。
そんなあからさまな視線じゃないから、知らないうちに、無自覚に妊んじまうんじゃないの?って言うような。
欲情なんて、そんな可愛いもんじゃない。

そのくせ、スキンシップは殆どなくて、寧ろ俺の方が多いくらい。
だけど、ごくごくたまにそいつに触れる指先が――怖い。
いやらしいとか、そう言うのを突き抜けて、近くで見てると怖くなって来る。
俺がだったら、もうとっくに堕ちてる。
だって、あんな本気のアニキに抗うなんて精神が持たねぇよ。
つーか、見てるこっちも持たねぇ。

「お前さ、アニキのことどう思ってんの」

がうちに来て半年くらい経った時、俺の方が耐えきれなくてそう聞いたことがある。
そうしたら、ちょっと顔を赤くしながらも目を伏せて、はっきりしない答えを返して来た。

「どうって……別に、そんな……」
「好きなんじゃねぇのかよ」
「す、好きって……っ!」

慌てて手を横に振って、顔はさっきの数倍真っ赤。
何なんだろう、アニキとのこのテンションの違い。
あのバリバリの雄の視線を向けられておきながら、まだこんな乙女チックな反応出来るって、ある種すげぇ。
涼介さんが私を相手にするはずないし、って本気で言ってんのかよ。

「涼介さん、誰にでも優しいし」

健気に明るく笑って、そんなことを言う。
まあ、そうだよな、アニキは外面はすげぇいいから。
でもホントに自分とそいつらは同じだって思ってんのかよ?
確かに、逆にあからさまじゃないアニキの態度は、お子様にはちょっと伝わらなかったってことか?
それって、アニキの誤算?
――でも、それくらいのこと、アニキなら最初から気付かない訳ないような気がする。

「ホントにそう思ってる?」

訝しんでそう言って、目の前に座るを見て。
初めて、を見て――やばいって思った。俺が。
こいつ、こんな風に笑うヤツだったっけ?
いや、ついさっき乙女みたいに顔真っ赤にしてたじゃん。
それが何で、こんなに、キレイに微笑っちゃうワケ?
身体の奥の方が、ぞくりとする。
もしかして、アニキの狙いって――これ?
俺は危うくそいつが欲しくなりそうになって、慌てて首を振った。




それからまた数ヶ月して、そろそろアニキの受験って話になった頃、漸く事態が動いた。
まあ、アニキは言わずもがな、学校内では超優秀で。
医学部に行くってのは、かなり前から決めていたみたいだけど、大学をどこにするかって言うのは、確かにはっきりしていなかった。
東京の大学でも、どこでも選び放題。
どうせなら東京の一流って言われる大学を狙ったらどうかって親が言い出して。
俺は絶対断るだろうって思ってたのに――アニキが、そうですね、とか言いやがった。
アニキは絶対、群大に行くんだろうって思ってたから、寝耳に水って言うか、こう言うの、青天の霹靂って言うんだっけ?
あんだけのことしておきながら、あっさりを置いて東京行っちまうわけ?
より俺の方が慌てた。
て言うか、はショックで何も考えられないって感じだった。

アニキが「本命」と定めた東京の私立大学の入試を数日後に迫って来る。
でも、は何もしない。
前日からホテルに泊まるからって、宿泊の準備なんかしてる。
それでも、は何もしない。

アニキ、のヤツがなかなか堕ちないから、もう、諦めたのかな。

一瞬、そうも思った。
でも、それは本当に一瞬だった。
あのアニキがそんなアッサリしてる訳ないじゃん。
これは「賭け」だったんだって、後から気が付いた。



その日の朝は、すごくさっぱりしてた。
そりゃあ、ただ試験を受けに行くだけなんだから、さっぱりもクソもねぇけど。

朝飯はいつもと同じく一緒に食って、俺たちは学校へ。アニキは駅へ。
で、まあ、俺は途中でふけちまって。
夜遅くに家に戻ったら、まだが帰ってなかった。
玄関にあいつの靴がなくて、部屋も真っ暗で、一瞬、ホントに心配した。
何かに巻き込まれちまったんじゃないかって。
親は二人とも帰って来ていない。
アニキに電話していいのか、ちょっとだけ迷った。
何せ次の日に受験控えてたし。
あいつが行方不明なんて言ったら、迷わずそんなモノ取りやめて帰って来ちまうだろう。
――それが、の狙いなのか?
いや、あいつがそんな計算出来るとは思えねぇ。
単純にショックで、家に戻りたくないとか、そう言う程度だろう。
どうしたもんかと、ため息を吐き出した時、家の電話が鳴って。
のヤツだったら小言の一つでも――なんて思ったら、それはアニキで。
しかも、すっごく、満たされた感じの、アニキの声で。
は今自分と一緒にいるから、心配するなって。

あまりに、あからさまな声で、思わず呆気に取られちまった。
え?アニキって、そんな分かりやすい性格だったっけ?
次の日の夜に戻って来たアニキは、更に分かりやすかった。
うちの親は、試験の方が上手く行ったんだなって勘違いして喜んでたみたいだけど、そんな訳ない。
ハナっから東京の大学になんか行く気ないんだから。
の傍を離れる気なんて、さらさらなかったんだから。

試験の結果は不合格。
おおかた、答案を全部白紙で出したとか、途中で帰って来たとか、そんなトコだろう。
アニキがちゃんと受けて合格しない訳がない。
でもなまじ受かっちまったりすると行かない理由作るのが面倒だから、わざと落ちた。
別にこの程度の「黒星」なんて、アニキにとって痛くもかゆくもないだろう。
それで、「滑り止め」の群大には、あっさり合格して、めでたし、めでたし。

つーかさ、親父たちも親父たちだよ。
いや、俺も最初騙されたけどさ。
本当にアニキが東京で医学部行きたいって言うんなら、東大とか狙うんじゃねぇの?
でもさ、東大受けちまうと、群大受けられねぇんだよな。
だから、私立の大学にしたんだろ。
何だかんだともっともらしい理由を付けて。そう言う理由を付けるのは得意だから。
結局、最初っから群大しか眼中になかったんだよ、あの人は。
何もかも全部、を手に入れるための、シナリオ。

は素直だから、自分のせいでアニキの進学の選択肢を減らしちまったとか思ってる。
馬鹿なやつ。
そんな罪悪感を持つことこそアニキの思うつぼなのに。

アニキの、そいつに向ける笑顔は、以前の心臓に悪いヤツからちょっと変わった。
満ち足りていて――でも、どこか渇いていて。
けど、それよりも、その触れ方の方が、やばい。
触れる頻度も、触れる場所も、人前では昔と変わってないはずなのに――明らかに、それは既に自分のモノだと主張する。

「――なあ、アニキ。あの時、がアニキの所に行かなかったらどうしてた?」

そんな可能性があったのか、ありえたのか、今となっちゃサッパリ分かんねぇ。
ただ、ちょっと気になって聞いてみた。
アニキがちょっと思案した風に首を傾げる。
そして、ふと、微笑って言った。

「長期戦は嫌いじゃないぜ」

この前までのような、あの怖い笑み。
久々に、背筋を震わせる。
俺の方が勘弁。

――しっかし、の方が持つのかね?
こんなアニキを前にして。
いや、案外奥手っつうか、鈍感っつーか、そんな感じだから、平気なもんなのか?

まあ、どちらにしろ、ご愁傷様。
屍んなったら、骨くらい拾ってやるよ、なんてな。