sweet




やかんから立ち上る湯気の行方を、意味もなく見守る。
彼がそこにいるというだけで、自分の部屋がいつもとまったく違う場所に感じてしまうのは、まだまだ彼との付き合いが浅いせいだけなんだろうか。いつかは慣れるんだろうか?そんなことを考えながら、ふうと息を小さく吐くと、目の前の湯気が左に右にと揺れた。
この緊張感は、心地よいと思えるくらいに好きだけど、でもやっぱりずっと続くと心臓に悪い気がする。
火を止め、ポットにお湯を注ぎ、カップにお茶を満たす。
その二つのカップをトレーにのせて後ろを振り返ると、パチリと涼介さんと目が合った。


「・・・どうかした?」
「いや、ただ見てただけだよ。」


そう言って、まるで緊張した様子もなく目を細めて微笑む。
そんな顔を見ると、いつも何故か「ずるい」って思ってしまう。
自分の顔が赤くなっていくのを感じてそれを隠すように俯き、本当にいつかは慣れるんだろうか?と、また同じことを考える。
私の心の中を見透かしたように、目の前でクスクスと笑う人。
気にしないふりをして、カチャカチャとカップをテーブルに置いた。






もしかしたら行けなくなるかもしれないけど、夜は家にいてくれ、と電話をくれたのは確か2日前。
涼介さんは忙しい人だし、となるべく期待しすぎないように自分を抑えつつも、バイトから帰るときの足取りは軽かった。
いつもメールはくれるし電話もくれる。会う回数だって、お互いのスケジュールから考えれば十分すぎるくらいだ。
だから今日一日くらいダメになっても構わない。
けどやっぱりホワイトデーだし、つい期待してしまった。
そういうイベントにかこつけて、ただ一緒にいたい、と言うことなのだけど。


紅茶を一口飲んだ後、涼介さんは脇においてあった白い小さな紙袋を私に差し出した。
市内では有名な洋菓子屋さんの名前が印刷されている。
このお店が美味しいっていう情報を、彼は一体どこから仕入れてくるんだろう?
やっぱり「ずるい」なんて思いながら、私はそれを受け取る。


「ありがとう。」
「ありがとうのちゅうは?」


小さく笑いながらそう聞いてくる声は聞こえないふりをして、私はその紙袋の中に入っていた箱を取り出す。
普段は表情も仕草もクールで、冗談なんか絶対言わなそうに見えるのに、どうしてそう言う言葉が出てくるんだろう?
俯きながら、黙々とその箱の包みを開ける。
―――と、中には美味しそうなトリュフチョコレート。
その甘い香りに、私は嬉しさよりも先に一ヶ月前のことを思い出して、慌てて目を逸らしてしまった。
けど、それが逆効果だったのかもしれない。


「美味しそうだね。」


そういう私の声は、いつもより少しトーンが高かった。
隣りに座っていた涼介さんのクスクスと言う笑い声がこちらに近づいてくる。


「バレンタインに貰ったチョコレートがすごく美味しかっただろ。だから今日も『同じ』にしようと思って。」


「同じ」と言うところを強調したように聞こえたのは気のせいではないと思う。
でも気のせいだって思いたい。
何のこと?ととぼけるタイミングも逃して、じゃあ同じことしようかと明るく笑って言う度胸もなくて、私は顔が上げられなくなった。
普段はクールに見えて、私が言うのもなんだけど、女にも興味ありませんって顔をしているくせに、どうして―――そう言う冗談を言ってしまえるんだろう?


「真面目にそう思ったんだけど?」


また私の思っていることが聞こえたかのような台詞。
それと共に、床についていた手がこちらに伸びてきて、耳と頬に触れる。


「俺にはチョコレート分けてくれないの?」
「・・・そうじゃないけど。」


笑みと本気と両方を含んだ目は、一ヶ月前と同じ。
彼の頑固さは、見た目に違わない。
あのときも私は嫌だと言い張ったけど、彼は折れてくれなくて、結局一時間近い格闘の末に私が言うことを聞くことになった。
今日も絶対折れてくれないだろう。
私は力が抜けつつも、最初で最後の抵抗とばかりに、すぐ前にある彼の顔を睨みつけた。
そんなもの、この人の前では何の効果もないだろうけど。


「この前とは逆だよな。」


嬉しそうに無邪気な笑いを浮かべながら、私の手の中にあった箱からチョコレートを一つつまむ涼介さん。
何で普段は―――って、何度思ってもこの状況からは抜け出せない。
私は覚悟を決めて口を開き、そのチョコレートが放り込まれるのを待った。


目を瞑ってしまうと、時間の流れがすごくゆっくりに感じられてしまう。
涼介さんが微かに動く音も、ふわりと香る彼の匂いも、妙に焦れったく感じる。
でも目を開けて待つのはもっと恥ずかしいから、自分の感覚が少しでも鈍るようにと、ぎゅっと目を閉じる。


暫くして口の中にチョコレートとリキュールの香りが広がると、何だか急に体温が上がる気がした。
お酒のせい?
それともこの先起こることへの緊張と、期待?
チョコレートが溶けてくる。
けど、うまく飲み込めない。


「美味しい?」


急に耳の傍で響いた彼の声にビクリとしながらも、金縛りにでもあったかのように上手く動けなくて、私は小さく頷くだけ。
何てことないように、さらりと続けてくれればいいのに、彼の香りが一瞬遠くなる。
口の中はどんどん熱くなるのに、なかなかチョコレートは溶けきってくれない。
苦しくなって口を少し開くと、また、彼の香りが近づいてくる。
唇をゆっくりとなぞられると、恥ずかしさ以上に、何か本能的なもので期待のようなものが満ちてきて、さらに口を開いてしまう。


「―――まだ飲み込んじゃだめだよ?」


その声と一緒に耳に触れた彼の息は、さっきより熱くなっていたような気もするけれど、それよりも私の耳の方が熱くなってしまってよく分からない。頷くことも出来なくなって、でもじっとしていることに耐えられなくて恐る恐る目を開けば、やっぱり、楽しそうに笑っている彼の顔。でも、さっきの無邪気さとは別のものがそこには浮かんでいて、私は怖くて緊張してどきどきして、すぐ目を閉じてしまった。


彼の吐息が耳から離れて、代わりに頬や瞼に唇がそっと触れる。
チョコレートを噛み砕いてしまいたくて、飲み込んでしまいたくて。
でも何故かそれとは逆に本能はその唇を待ち望んでしまい、その焦れったさに彼の服を掴む。


上唇と下唇をそろりと舐められて、チョコレートの甘い香りと彼の香りが混じる。
おでこに微かに触れた彼の髪。
耳に伸ばされた彼の指。
私をからかうようにもったいぶって触れる彼の冷たい鼻先。
下唇を甘噛みされ、私はさらに彼の服を掴む手に力が入ってしまうけれど、自分からは何かをすることが許されない気がして、ただ、口を開いて待つことしか出来ない。


体の全ての感覚も、理性も、何もかもが麻痺してきて、僅かに身を乗り出すようにすれば漸く唇が重ねられて。
でも、もう何が何だか分からなくなって、その熱さもうまく感じ取れない。
舌を吸われて解放されて、ようやく溶けてしまったチョコレートを飲み込んだけれど、涼介さんは意地悪く言った。


「誰が飲み込んでいいって言ったの?」


でも絶対涼介さんだって、ここで私が飲み込んでしまうことぐらい分かっていたはずなのに。
ずるい。
何もかもが目の前の人のペースで、私は何も出来ない。


「―――ホワイトデーって、普通は飴とかじゃないの?」
「ああ、飴なら飲み込まなかったかな。」


精一杯の抵抗に、ぽそりと言い返したけど、そんなのもちろん何の効果もない。
「じゃあ来年は飴にするよ」って更に意地悪く笑われて、結局私の頭はぼーっと痺れたまま。


「もう一回やり直す?」


涼介さんがまたチョコレートの箱の蓋を開ける。
そして私を見て、綺麗に微笑む。


「それとも―――どうする?」


これからの長い長い夜を思って出るため息に矛盾して、鼓動は今までよりも高鳴ってくる。
でも余裕でクスクスと笑っている人がとても憎らしくて、彼のペースに抗いたくなる。


私は自分でチョコレートを取り出し、彼の膝に手をついた。