truce




明日までに仕上げなければならないレポートも大方目処が付いた。
空になったコーヒーカップを手に自室を出てキッチンへと向かう。
両親も啓介もいない家の中はとても静かで、自分の足元で鳴るスリッパの音ばかりが廊下に響く。


コーヒーメーカーをセットし窓の外に目をやると、木々の葉が陽の光を浴びて輝いている。
絵に描いたような、平和な休日。
目を閉じて深呼吸すれば、コーヒーの香りと共に、暖かく穏やかな空気が肺を満たす。


何故か、自分一人がこの世界に存在して、この陽の光を受けているような錯覚。
疲れてるのかな、と呟き笑いながらも、暫くその非現実的な感覚の中に漂っていたいと思う。
コポコポと音を立てて琥珀色の液体がポットに満たされていく。
その色もやはり陽に照らされて透き通り、いつもとは違うもののように見える。
その滴る様を眺めながら、久しぶりに自分の中に血が流れていくような気がした。


「―――そうは言っても、もうじきあいつが戻ってくるな。」


母親に頼まれてリビングに飾る花を買いに行った啓介の、出かける直前の渋い顔を思い出して笑う。
いつもは花屋が直接家に配達してくれるのだが、今日は何か手違いがあったらしい。
そしてそんな日に限って夜に来客の予定があったりするものだ。
仕事中の母からの電話を受けたのは俺だったが、暇そうに俺のベッドでゴロゴロしていたあいつに行かせた。一緒に行こうと執拗に誘われたが、レポートがあったので断った。


コーヒーをカップに注ぎ、リビングへ移動する。
やはりそこもとても静かで、そして、陽の光に溢れている。
ソファに腰掛け、テーブルにカップを置き、傍にあった新聞を広げる。
カサリと言う紙の音が部屋中に響くが、どことなく、柔らかく聞こえる。
まだ半分幻想の中にでもいるかのようで、新聞に書かれている内容は頭の中に入ってこない。


目を瞑る。
ソファの背もたれに寄りかかる。
普段こんな場所ではうたた寝などしないのだが、今日は何故か目を開けるのが億劫になる。
寄りかかるだけでは足りず、肘掛を枕に体を横たえた。
ロータリー音が近づいてくる。
けれど体を起こす気にはならなかった。


玄関の鍵の開く音、ドアの開く音。
おかしいな、とは思った。
あいつはもっと乱暴にドアを開いて、「ああ疲れた!」と一言ぐらい言いながら入ってくるだろう。
スリッパの鳴る音、カサカサと花束らしきものの立てる音。
リビングのドアが開く。
けれど、体を起こす気にはならない。


花の香り。
それとまじって―――あいつの、香り。


入口で躊躇っている様子が、目を閉じていても分かる。
こんな場所で寝転がっている俺を見ることなんて初めてだから、きっと戸惑っているんだろう。
しかし、俺の名は呼ばない。起きているか、なんて確かめない。
再び花束の包みの音が控えめに聞こえて来て、こちらに、近づいてくる。
強い、花の香り。
母親が好きな花で、よく来客があると注文するものだ。
けれど、お前にはちょっと強すぎる気がするな。
そんなことを思いながら、俺は相変わらず狸寝入りを続ける。


「りょうすけ―――さん?」


すぐ傍で、聞こえるか聞こえないか位の掠れるような声で、漸く俺の名を口にする。
その声が、俺のさっきまでの静かで穏やかな気分を、何か違うものに変えてしまう。
けれどまだ、体は起こせない。
起こせば―――現実が待っている。


花束を、テーブルか床の上か、近くに置く音。
一瞬、自分の前が暗くなった気がして、少しだけ、緊張する。
けれど、結局何も起こらない、何も触れない、聞こえない。


俺は、何かを「期待」しているって言うのか?
まさか―――そうじゃない。


不意に、何かが、頬に触れる。
それがそいつの指だと気付いて―――少し、何か腹立たしさのようなものを感じた。


「涼介さん?」


さっきよりも、もっと耳に近い場所で、声がする。
けれど、俺は目を開かない。
ただ単に後に引けないだけだったのか。




それとも―――?




「―――涼介さんがこんな所で寝るなんて、珍しいね。」


同じ、そいつの声。
けれど今度は俺とは反対側に向かって発せられた。
トーンは抑えているが、さっきよりも幾分はっきりした声で。


「え、あ、ああ。そうだな。」


慌てたような啓介の声。
大方、部屋の外で様子を窺っていたんだろう。悪趣味なヤツだ。
そんなことを思う俺の前で、ふわりと空気が動いた。


「じゃあ、私は帰るね。」
「え?まだいいじゃん、コーヒーでも飲んで行けよ。」
「ううん、やめとく。」
「何でだよ?」
「うん・・・現実に、戻っちゃうから、かな。」


あいつの、あの、曖昧な笑みが眼に浮かぶ。
それに僅かに苛立たしさを感じながらも、同時に、安堵したりする。
リビングを出て行く二人。
今さら寝たふりも何もないだろう、俺は体を起こす。
現実に引き戻されそうになるが、足元にある花束と、微かに頬に残る体温が、それを阻む。
テーブルの上の冷めたコーヒーは、やけに黒い。


「―――惜しかった、かな。」


さあ、どうだろう?
そんなことを考えるなんて、やはりまだ幻覚の中にでもいるのか?
俺はもう一度目を閉じた。