バレンタインの嘘




カウンターで受け取ったトレーに、注文したコーヒー以外の物が載っている。
おや、と涼介が首を傾げるのと同時に、店員の女性が「サービスです」と元気に笑って言った。
そうか、そう言えば今日はバレンタインだったか。
カウンター脇に飾られている小さなテディベアに掛けられたリボンに、St.Valentine の文字を見つけて納得する。
涼介は、さらっと一瞬外向けの笑みを作り「ありがとう」と一言。
一番奥の空いている席に落ち着いた後、コーヒーカップを手に取った時に再びトレーの上のチョコレートが目に入り、こんな日に呼び出して悪かったかな、とちょっとだけ思った。
しかしそれもほんの一瞬。
都合が悪ければ断っているだろう。断らなかったと言うことは特に予定もなかったと言うことだ。
寂しいヤツだな。
自分のことは棚に上げて、これからここに現れる相手に対して、そんな失礼なことさえ思う。

「――あれ、何ですか、それ?」

待ち合わせしてことも忘れてしまう程に読書に没頭していると、頭上から声が降って来た。
本から声の元へを顔を上げると、カップ片手のの姿。
「待ち合わせの時に入り口に背を向けて座るのやめて下さい」とまず抗議。
待たせてごめんなさいなどと言うしおらしい言葉は出てこないものなのか。
肩を竦めつつ「でも分かっただろ」とささやかな反論。
はまだ何か言いたげな顔をしたが、諦めたのか口を尖らせるだけで涼介の前に座った。
しかし思った以上にソファが深く沈み込み、コーヒーが零れかけ「わっ」と小さく声を上げてしまって結局格好が付かない。
僅かに俯き、くく、と笑う涼介をジトリと睨み、はコーヒーを一口飲んだ。

「サービスらしい。カウンターで貰った」
「サービス?」
「バレンタインだからじゃないのか?」
「一応バレンタインだって知ってたんですね」

失礼な女だな、と非難の目を向ける涼介の前で、は「私、貰いませんでしたけど」と言いながら周囲をきょろきょろと見回す。

「男だけに配ってるんじゃないのか?」
「でもどこのテーブルにもそれらしき物は見当たりませんけど」
「もう食っちまったんだろ」

しれっとそう答える涼介に向かって、思い切り冷たい視線の
どう考えてもこのチョコレートは店のサービスに見せかけた、その店員個人のチョコレートではないか。
とりすました顔でカップを口に運ぶ目の前の男が小憎たらしくて、は一言言わずにはいられない。

「もてる男は大変ですね」
「そうでもないさ」

謙遜するでもなくそう言い、コーヒーを一口。
そして顔を上げると随分と凶悪な表情をしたが目に入り、予想通りの反応に吹き出しそうになる。

「言うほど、俺はもてないぜ?」
「ほほぉ」
「今年だって、これが初めてのチョコレートだ。これを見て初めて今日がバレンタインだと気付いた位だしな」

はしらーっとした気分で黙ってコーヒーを啜る。
バレンタインと言う日を忘れるって言うこと自体が、ガツガツしていない証拠で、余裕ぶって厭味だと言うのだ。
しかし涼介はそのことに気付かず、いかに自分がもてないかと言うことを語る。

「去年も母親と従妹にしかもらっていないし――高校は男子校だったから、そう言うのとは無縁だったしな。中学は持ち物検査でチョコレートを没収する方の立場だったから、特に貰った思い出もない」
「……それは、たくさん没収したんでしょうね」
「ああ。どうせ没収されるって分かっているのに、何故皆学校に持ってくるのか理解に苦しむ」

乙女心に対してここまで無理解な男の方が、理解に苦しむ。
は心の中で舌を出した。

「ってことは、私を呼び出した段階ではまだ今日がバレンタインだと気付いていなかったって訳ですか」
「ああ、悪かったな。こんな日に呼び出して」

ちっとも悪いと思っていない声色での謝罪。
まあ、もうこういうのには慣れましたけど。
肩をすぼめ、ソファの背もたれに思い切り体重をかける

「夜まで掛かるかと思ったレポートが、思ったより早く片付いたんだ」
「へー、高橋涼介ともあろう方が目算を誤ることがあるんですね」
「まぁな。で、飯を作ろうと思ったんだが家に気に入った材料がない。わざわざ店に買いに行く気分でもない」

の精一杯の厭味はあっさりと流され、涼介は淡々と話を続ける。

「ふと思いついた店が、まあ、これから行く所なんだが、一人で行く雰囲気の店じゃなくてね。弟は出かけてて連絡がつかない。次に史浩を誘ってみたんだが、そう言う店にお前と行きたくないと冷たく断られた」
「……どんなお店なんですか」
「別に怪しい店じゃない、ただのカジュアルフレンチの店だ。で、電話を切る直前に貰ったそう言う店には女を誘えと言うアドバイスに従って、お前に連絡を取ったんだ」
「一応、女だと認識して貰えてるみたいで、光栄です」
「ああ。我ながら選択肢の少なさに愕然としたぜ」
「……帰ろうかな」
「まあ、そう言うな。冗談だ」

少し悪ふざけが過ぎたかと反省し、涼介は苦笑い。
しかし、男を前にしてソファに思い切り凭れ掛かり天井を仰ぐ姿が、果たして女のものと言えるのか。
まあ、そんなことを言ったら更に機嫌を損ねて本当に帰ってしまいかねない。
苦笑を口元に残したまま、「悪かったよ」と一言。

「でもそんなお洒落っぽいお店、こんな日に行ったらカップルで混んでそうですけど」
「少し辺鄙な所にあるから、あまり混まないんだ。まあ、一応さっき電話は入れておいたが」
「そう言うお店って、どうやって見つけるんですか?」
「そうだな……大体友人の紹介とか、親の仕事の関係とかだ」
「そう言うモンですか」
「そう言うもんだ」

涼介が腕時計に視線を落とす。
そろそろ行こうかと立ち上がり、手に取ったトレーには包みにくるまれたチョコレートが載ったまま。
返却口の前まで来て、貰う時に礼を言っておきながらさすがにこのまま返すのはまずいかと、ひょいと掴む。
が、自分の服のポケットに入れることはせず、隣りに立ったの持っていた鞄に放り込んだ。

「わっ、ちょっと!」
「嫌いじゃないだろ」

悪びれもせずにそう言った涼介は、隣りのの妙な慌てぶりと、一瞬目に飛び込んで来た茶色い包みに、若干の違和感。
そして店の外へと歩き出した足を止め、もう一度彼女の鞄の中をのぞき込んだ。

「わーっ」

が鞄を抱え込むので、つい反射的にそれを掴んで広げる。
みるみる真っ赤になって行く彼女の顔には敢えて気付かないふりをして首を傾げた。

「何だ、もう誰かに貰ったのか」
「違うでしょ!何で女の私がバレンタインにチョコレートを貰うんですか」
「最近はそう言うのも流行ってるんだろ?」
「違いますっ」

思い切り二度も否定しておいてから、そう言うことにしておいた方がよかったのかもしれないと気が付いた。
しかしここまで来てしまっては引っ込みも付かない。
は鞄から小さな茶色い包みを取り出し、涼介に押しつけるように渡した。

「……ここに来る途中、コンビニで買ったんです!」
「俺にか?」
「それ以外ないでしょっ」
「そうか。サンキュ」
「えっ」

絶対、憎まれ口の一つや二つ覚悟していたと言うのに、あっさりとお礼などを言って来た男に、はびっくりして動きが止まる。
目をまん丸くして立ち尽くす彼女に、涼介はわざとらしく怪訝な顔。

「どうかしたか?」
「べ、別に。……素直過ぎて気持ち悪いと言うか」
「俺はいつも素直だろ」
「ああそうですよね」

は騙されないぞ、とばかりにもう一言。

「さっきみたいに、これから行くお店の女の子に上げたりしないで下さいよ」
「そんなこと、するわけないだろ」

しかしまた予想もしない返事をされて、動揺した。
そのうろたえぶりは、涼介にとっては予想通りな訳なのだが。
そんなに真っ赤な顔をされると、更にからかいたくなるだろ。
声を殺して笑う涼介。
駐車場に着き、FCの助手席のドアを開いて言う。

「今日は遅くなっても構わないのか?」
「え、ええっ!?」
「カジュアルとは言っても一応フレンチだからな。あまり忙しなく食うのもなんだろ?」

さすがにからかわれていると気付いたらしい。
は顔を赤くしたまま精一杯涼介を睨み付け、その手からチョコレートを奪い返そうとした。
が、当然のごとく、ひょいとかわされる。

「やっぱり返して下さい!」
「一度貰った物は返せないな」
「返せーっ」
「そんなに焦らなくても一ヶ月後に返してやるよ。コンビニののど飴買い占めて」
「まさかコンビニチョコってところに怒ってるんですか!」
「コンビニじゃないだろ」
「――えっ」
「こういうブランドも、従妹とか友人のせいで無駄に詳しくなっちまうものでね」

嘘はもっと上手くつけよ、とニヤリと笑ってを助手席に押し込む。
俺みたいに、とドアを閉める時に付け足した独り言のような言葉をは聞き逃さなかった。

「やっぱり、もてないって言うのは嘘なんですね」
「……そこじゃねぇよ」

運転席に乗り込んだ自分へ向けられた、あまりに的外れな彼女の台詞に、思わず言葉が粗暴になる涼介。
「じゃあ、バレンタインって知らなかったって言う話?」と聞いてくる彼女に、何も答える気になれず、涼介は黙ってエンジンのセルを回した。

レポートなんか初めからない。
弟が出かけているのはいつものこと。
史浩は昨日から旅行に出かけているのは前から知っている。
以前、叔父のつてで一度行ったことがあるレストランを思い出した。
そんなに身構えない、けれど落ち着いた雰囲気の店。
すぐにの顔が頭に浮かんだ。

だが本人に言う気はない。
まだもう少し――この関係を壊したくはない。

「――まあ、言ったところで信じないだろうけどな」
「え?」
「何でもない。シートベルト締めろよ」

ヘッドライトを点したFCは、ゆっくりと待ちの流れに合流した。