最初で最後の我侭




?」


涼介さんがちょっとびっくりした顔をして振り返る。
私も、自分自身に少し驚く。
何で涼介さんの裾を掴んじゃったんだろう。
「待って」って言いかけたけど、自分が何をしようとしたのか分からず、黙り込んでしまう。
でも俯くことは出来なかった。
今、涼介さんから目を逸らしちゃいけない。
そんな気がした。






涼介さんは、私の幼なじみ、緒美の従兄だった。
初めて会ったのはいつだっただろう?
私が緒美の家に遊びに行ったとき、「自慢の従兄だ」と紹介されたのが最初。
確かに、緒美がそう紹介するのももっともで、彼は今まで会ったことのある男の子の誰とも違った。
人見知りして満足に話も出来なかった私にも、お兄さんのように優しくて、たくさん笑顔を見せてくれた。


おうちは大病院を経営していて、頭がよくて、スポーツも出来て、かっこよくて。
でも、普通のおうちで、成績も普通で、見た目も、そんなにかっこよくなければよかった。
そうしたら、もしかしたらずっと見ていられたかもしれないのに。


私は高校を卒業して、大学は東京へ出てきてしまっていた。
緒美には引き止められて冗談半分に裏切り者呼ばわりもされたけど、勉強したい学科が地元の大学にはなかった。


「帰って来たら涼兄いなくなっちゃってるかもよ!」


私が涼介さんを好きなことを知ってる緒美はそう言ったけど、涼介さんから離れちゃうからって志望校を変えるのは間違ってる気がした。
もしそれを知ったら、きっと涼介さんだって怒ると思う。
―――なんて、私の気持ちを伝えることなんて出来っこないけど。
「従妹の幼なじみ」と言う場所から、私は抜け出せない。


「新幹線使えば一時間ちょっとで帰って来れるんだよ?それに、今までだってそんな頻繁に会ってたわけじゃないし・・・」
「そんな暢気なこと言って!後でどうなっても知らないからねー!」


おっとりした外見とは裏腹に、実は何事にも行動的な緒美は、いつも私の行動を「信じらんない!」と呆れる。
そうやって頬を膨らませて怒ることで私を応援してくれてるのは知ってる。
緒美は大好き。
涼介さんと仲良くしているところを見るとちょっと嫉妬してしまうけど、でも、すごく可愛いし性格もいいし、涼介さんの恋人が緒美なら、諦められるかもしれない。
ちょっと―――ううん、かなり、時間はかかるかもしれないけど。


大学に入ってからも私は毎月のように高崎に帰って緒美と会い、そんな彼女も気を使ってくれて涼介さんに連絡を取ってくれた。
私自身も涼介さんの連絡先は知っていたし、「いつでも電話しておいで」って言ってくれてたけど、「会いたい」とか「声が聞きたい」とか、そんな理由で忙しい涼介さんに電話することが出来なかった。
分かってるけど。
そんなの、優柔不断な私の勝手な言い訳だって。
でも、毎月のように涼介さんに会ってお話をして、そんな状況が当たり前になっていて、気付かないふりをしてた。
ずっと今の状態が続くって―――涼介さんの笑顔を近い場所で見ていられるって錯覚してたから、言い訳をして甘えていられた。
そんなはず、ないのに。






大学4年になって卒論の準備が忙しくなってきたとき、私は何回か高崎に帰る機会を逸してしまった。
私が行けないときは緒美の方がよく東京に出てきてくれたのだけど、彼女も忙しくなってしまって、なかなか予定が合わない。


「こんなに会わないなんて初めてじゃない?」


電話でそう言いながら二人で笑った。
ちょっと寂しい笑いだったけど。
来月の夏休みには絶対帰るから、と話をした数日後に慌てた様子で緒美から電話があって驚いた。


「もう!ノンビリしてるからだよ!?」


いつもは励まされる緒美の叱咤。
でも、さすがにその日は耳に入ってこなかった。
その前の台詞があまりにもショックで。


「涼兄、婚約したんだって。」


大学を卒業してもう3年。
早いと言えば早いけど、別に不自然なことじゃなかった。
大病院の跡継ぎだし、お見合い話も結構あるらしいって聞いていた。
でも、何となく、「それ」はもっとずっとずっと先―――ううん、永遠に起こらないことのように思い込んでしまっていた。
お見合いのことも、遠い世界の話のようにボンヤリと聞いてしまっていた。


涼介さんが結婚。
涼介さんが結婚?


嘘―――って言葉が、思わず呟くように口から漏れる。
そんな私に「それなら直接会って確かめてみなよ」って緒美が言った。


「ちゃんと『おめでとう』って言わなきゃいけないんだよ?」


その電話での緒美の最後の台詞が胸に刺さった。
そうだ。
今の私には涼介さんを祝福することしか許されない。
何もしなかった私には嘆く資格なんかない。


怖い。


その日の夜は眠れなかった。
悲しいと言うよりも、何だか、怖かった。
強がりを言っている訳じゃなくて。
こうやっているうちに、私の知らないところで涼介さんとの関係は変わっていく。
―――ううん、違う、関係は変わらない。
だって、今の私は彼の「従妹の幼なじみ」だもの。
昔からずっと変わらず。
そこまで辿り着いて、気が付いたら私は携帯を手に取ってた。








も今度の春には大学卒業か。」


涼介さんは忙しい合間を縫って私と会ってくれた。
そして、昔と同じように私に優しく笑いかけてくれる。


「俺も老けるわけだよな。」
「もう。そんなに年変わらないじゃない。」


高崎に来るまでの新幹線の中で、何を話そうか何をどう言おうか必死に考えてたけど、涼介さん本人を目の前にしてしまったら全部が頭から吹き飛んでしまった。
私は何を言おうとしたんだろう。
やっぱり緒美の言ったことは嘘なのかもしれない。
だって、ほら、涼介さんは何一つ変わらない。


でも、急に、何も言わない涼介さんを見ていて不安になった。


さっきとは逆に、まったく変わらない涼介さんが分からなくなる。
何で変わらないでいられるの?
どうして何も話してくれないの?
自分で呼び出しておきながらそんな勝手なことを思って、勝手にどんどん不安が大きくなっていく。


ご飯を食べてレストランを出て、私を駅まで送ってくれるって車の方へ歩き始める。
私はそんな涼介さんのシャツの裾を掴んでしまった。


「どうした?」


驚いた顔も、だんだんいつもの優しい顔に戻っていく。
ほっとするはずのその表情が、何故かそのときは私の心臓の辺りをチリチリとさせた。


何か言わなきゃ。
何か言わなきゃ。


そう思って、漸く口から出てきた台詞は―――お祝いの言葉とは程遠いものだった。


「―――けっこん、しないで。」


自分で自分の台詞にびっくりした。
でも、もう、それしか言葉を知らないオウムか何かみたいに、裾をギュッと掴んだまま繰り返すしかなかった。


「結婚しないで。」


私は自分の言葉に驚いたのに、涼介さんは表情を変えなかった。
服を握ってた私の手に、涼介さんの手が触れる。


「―――どうして?」


優しい笑みを浮かべたままの涼介さんが少し顔を傾ける。
どうして。
そんな風に返してくる涼介さんの言葉も、思ってもみないもので戸惑った。
でも、私の声が詰まったのは、そんな意外な台詞のせいじゃない。
本当のことを言って―――どうしようもない我侭を言って、この関係が崩れるのが怖いせいだ。
呆れられる。
今さら何を言ってるのって、笑われる?


―――どうして、俺に結婚して欲しくないの。」


涼介さんが、まるで一音一音確かめるように、ゆっくりと発音する。
優しい表情のまま。
でも、もう逃げることを許してくれない。
そんな目。
私は服を掴む手に更に力を込めた。


「すき、だから。涼介さんが好きだから。」


一旦声が出ると、今さっきまで喉に石が詰まっていたみたいだったのが嘘のように、するすると次の言葉が出てきた。
余計なことに涙まで出てきた。
泣きたくないのに。そんなずるいことしたくないのに。
今さらそんなことを言うこと自体思い切りずるいのに、往生際悪くそんなことを思って、慌てて俯く。
そして涙を拭こうと思ったら―――涼介さんの手が先に拭ってしまった。


「やっと言ったな。」


そう言ってちょっと微笑いながら。








結局、その結婚話は緒美の嘘だった。


「何だかイライラして来たから『涼兄結婚する』って言っちゃった。」


緒美が電話でそんなことを言って来て、何馬鹿なことを―――と涼介さんは呆れたらしいけれど、その後私から電話が来て不意に意地悪をしたくなったのだと言った。
自分は嘘は言わない。
けど、本当のことも言わない。


「俺も、のことは責められないんだけどね。」


このままの関係を続けていた方が私にとっては、いいのかもしれない。
普段は怖ろしいくらい決断力のある涼介さんが、このことに関してだけは10年以上も優柔不断なままだったと小さく笑った。


「でも、緒美、直接確かめてみればって言ってたのに。私がすぐ電話で涼介さんに確認したらどうしてたんだろ。」
「その可能性はないと思ったんだろうな。はすぐに俺に聞けないって。」


やっぱり幼なじみって怖い。
怖いのは緒美か。
私は一気に力が抜けて、思わず涼介さんに寄りかかってしまった。
そんな私に、涼介さんが意地悪く微笑んで言う。


「駅まで送る?それとも―――今日は帰らなくていいの?」


今まで聞いたことのないような、ちょっと低い艶っぽい声で。
反射的にピクリと身体を震わせてしまった私は、戸惑い気味に涼介さんを見上げた。
すると、そこにはやっぱり見たことのないような表情。


「帰らなくて―――いいよね。」


ふわりと漂ってきた香りも、さっきまでのものと違うように感じてしまうのは何でなんだろう?
頬に触れた指先が、冷たい。


「俺は誰にでも『優しいお兄さん』じゃないし―――いつまでも『優しいお兄さん』じゃないよ。」