wave




松本の働くショップに預けていたFC。
いつもなら家まで届けてもらうのだが、その日はたまたま時間があったので涼介が直接ショップに引き取りに行った。
階段を上り事務所のある2階へ。
そこにいたのは、いつものツナギを着た松本と―――涼介の方に背を向けるような形で松本と何かを話している女性の姿。


松本が涼介に気づいて軽く頭を下げる。
すると、その女性も彼の方を振り返り、ニコリと微笑んで会釈をした。
ここでそんな優しげな笑顔を見るとは思いもよらなかった涼介は内心躊躇いを覚えたが、一呼吸置いて同じように会釈を返す。


「もしかして、さんは涼介さんに会うの初めて?」


二人のどことなくぎこちない挨拶を見て、松本が思い出したようにそんなことを問う。
と呼ばれた女性はコクリと頷き、涼介は少しだけ訝しげな表情。
そうだったのか、と意外そうな声で言う松本は、彼女を涼介の傍へと促した。


「名前はよく聞いてると思うんだけど―――プロジェクトDのリーダーの涼介さん。彼女は藤原さんです、藤原のお姉さんですよ」
「―――藤原の?」
「初めまして。拓海がお世話になってます」


深々と頭を下げるに、彼らしくもなく動揺を隠せない。
拓海に母親がいない話は聞いたことがあったが、姉がいるなんて話は本人からも聞いたことがなく、ずっと父親と二人暮らしだと思っていた。
けれど、確かに目元などが拓海と似ている気がする。
初対面の涼介に対してにっこりと笑いかけるところは、無愛想な弟とは少し違うようだが。


「涼介さん、FCの方なら仕上がってますよ」
「ああ……」
さん、ちょっと待ってて貰っていいかな?」
「はい、私はそんなに急いでないので、お先にどうぞ」


その彼女の返事に「すまないね」と目を細め、ガレージに降りて行こうとする松本。
いつもなら涼介も言葉に甘えて先に車を引き取っただろう。
そして早々にショップを後にしたに違いない。
けれど、そのときの涼介は咄嗟に松本を引きとめるような台詞。


「―――いや、今日は入っていた予定がキャンセルになって時間はあるから、そんなに急がなくても構わないんだ」


彼女とかわしたのが挨拶だけ。
それだけでこの場を去るのが―――少し、物足りなく感じた。
そんなふうに感じる自分が意外で、微かに苦笑いを浮かべる涼介。
「藤原の姉」である彼女と話がしてみたいというよりも、むしろただ単にもう少し彼女の笑顔を見たいという気持ちの方が強い。


「そうですか―――?じゃあコーヒーでも淹れますよ」


松本は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな笑み。
さんも座ってて。
そう言って、並んでいた二つの椅子を引いて、二人をそこに促した。






「―――松本のところには、よく来るんですか?」


簡素なコーヒーカップを二つ置いて「ごゆっくり」などと言って松本がガレージへ戻った後、涼介はそのカップを口に運びながら質問を投げる。
は小さく首を横に振りながら、同じようにカップを口元へ。


「ここにお邪魔したのは二度目です。先月車を買ったんですけど、その時に拓海と一緒にアドバイスを聞きに。あと、今日は点検で」
「そうですか」


「ここに来たのは」と条件付きなのが、少し引っ掛かる。
けれど、何でそんなことが引っ掛かってしまうのか。
後でそんなことを思って苦笑い。


「何だか、私の車の点検なんかを忙しい松本さんにお願いするのは申し訳ない気がするんですけど……。でも松本さんにお任せした方が安心だと思って」


そう言いながら首を少し傾げ、微笑う
その表情に焦燥に似た何かを感じながら、涼介は静かにカップをテーブルに置く。


「あの―――」


今度はが質問をする番だ。
顔から笑みを消して、少し緊張したように背筋を伸ばし、涼介を見る。


「拓海は、ご迷惑おかけしてませんか?」


その表情を見てまた何かを感じた涼介は、姉弟にまで嫉妬する気かと自らを嘲笑う。


「心配、ですか?」


当たり前のことを聞く。
自分でも分かっていたけれど、身体の奥の方に現れた棘のようなものに抗うことが出来ない。
すぐに頷く


「拓海は、あまりその―――社交的と言うわけでもないし、チームの中で上手くやって行けてるのかな、と思って」
「……ああ、そちらの心配ですか」
「え?」
「いや、何でもありません」


迷惑をかけていないかと言う言葉に、チームのエースとしてやって行けているのかを気にしているのだと思った涼介は、彼女の言葉にちょっと面食らう。
いや、姉としてはそう言うことを心配する方が自然なのかもしれない。
チームの中で皆と上手く付き合っているのかどうか。
―――危ないことはしてないかどうか。


さんは、反対しなかったんですか?」
「え?」
「藤原がチームに入ることを」


涼介の問いに、今度は即座に首を横に振った。


「私が反対したところで、拓海が諦めるわけないですもん!私の言うことなんか何も聞いてくれないんだから!」


そう言いながら膝の上でぎゅっと拳を握り口を尖らせる
きっと本気で弟を心配しているであろう彼女に対して不謹慎だと分かりながらも、涼介は笑みを漏らすことを堪えられない。
そんな彼に、の方はちょっと恥ずかしくなって俯いた。
そして、はあ、と大きなため息。


「……でも、いいんです。今の拓海、すごく楽しそうだから」
「楽しそう、ですか」
「私としては一緒に遊んでくれなくて、つまらないんですけどね。家にいるときはいつも山道の映っているビデオばっかり見ているんだもん」


今度は天を仰いでため息。
彼女のその様子を目を細めて見ていると、外から聞きなれたエンジン音が聞こえてきた。
その音にいち早く反応したのはの方。
ガタンと椅子から立ち上がる彼女に、涼介は再び胸に微かな痛みを覚える。


「―――姉貴!」


バタバタと騒がしい足音が近付いてきたと思ったら、涼介が見たこともないような慌てた表情をした拓海がドアを勢いよく開けて入って来た。
何をそんなに慌てているのだろうか。
内心首を傾げながら、のもとへ駆け寄ってくる拓海を眺める涼介。
しかし、次の瞬間、いつもと違って自分を牽制するような彼の強い視線に、涼介は合点が行き苦笑い。
確かに―――その牽制はあながち的外れではない。


「姉貴、何で一人で来てるんだよ。今日来るなんて言ってたっけ?」
「急に決まったんだよ。朝電話したら今日でも大丈夫って松本さんが言ってくれたから」
「それなら俺にも言っといてくれよ」


普段プロジェクトDの活動では聞いたことのない、拓海の怒ったような心配そうな強い口調。
どちらかと言えば、姉に対する態度と言うよりも妹に対するそれのように見える。
それだけ彼女が大切なのだろう。
微笑を浮かべながらコーヒーを飲む涼介。
今度は拓海が彼の方を見る。


「涼介さんも……来てたんですか」
「ああ。藤原にお姉さんがいたなんて知らなかったよ」
「……」


微笑って見上げて来る涼介からフイと顔を背ける拓海の顔は、気まずそうな、いじけたような。


「今、拓海の話をしてたの。最近は私の相手をしてくれなくてつまらないって」
「な……余計なこと言うなよ!」
「じゃあ、代わりに俺がお相手しますよ」
「涼介さんまで、変なこと言わないで下さい!」


口を尖らせながら、でも笑顔を浮かべたまま話す
冗談めかした涼介の口調ではあったけれど、まるきりの冗談でもない。
それを知ってか知らずか慌てた様子で顔を赤くする拓海。


「そうそう。拓海ったら、運転を教えてくれるって言いながら全然教えてくれないの」
「しょうがないだろ、最近はずっと忙しかったんだから」
「俺でよければ教えますよ?」
「涼介さんの方が忙しいじゃないですか!」


にっこりと微笑んで来る涼介に、はつい頬を赤く染めてしまう。
その様子を拓海が見逃すはずもない。


「……これだから、嫌だったんだ」


二人の周りの空気に拓海は何となく入り込めず、ボソリと呟くが二人の耳には届かない。
階段の脇で楽しそうに傍観していた松本は、そんな拓海の様子を見ながらクスクスと笑っていた。