たからもの




「高橋くんってさ、走り屋なんだって?」


その台詞に、まるで自分の秘密がばれたかのように、ドキリとした。
学食の片隅のテーブル。
同じ研究グループの仲間が集まって打ち合わせ―――とは名ばかりの無駄話をしていると、私の隣りに座っていた女の子がそう言って来た。
もちろん、それは特別秘密にしていることじゃなくて、知っている人は知ってる。
寧ろ男の子の間では有名な話らしかった。
本人も特に動じることなく、テーブルの上で手を組んだまま彼女に肯定の笑みを向ける。


「ちょっと意外だね。」
「そうかな。」
「うん、イメージと違う。」


秘密にしているわけでもないし、否定もしない。
けど、やっぱりこの話題を出してくるのは、あまり好きではないようだった。
彼女には当たり障りなく答えるし、その話題に乗ってくる他の人たちにも笑って返答する。
でもどこか、つまらなそうな、冷めたような目。
学業と趣味とを同じ場所に置いておくのが、すごく、嫌なのかもしれない。
そんなことに気付いたのは、ほんの数ヶ月前―――彼と付き合うようになって、よく、彼を見るようになってからだけど。


「今度見に行ってみたいなぁ。」
「そんなに面白い所じゃないさ。」


やんわり笑顔で拒絶される。
何だか、彼女を通して自分まで拒絶されているような気がしてしまって、胸がツキリとした。
彼女の台詞は、私も何度か言ったことのあるもの。


「一度、高橋くんが走っているところ見てみたい。」


好きな人がどう言うことに熱中しているのか、知りたいと思うのはおかしいことではないと思う。
特に、まだ彼と付き合っていると言う実感が湧かなくて、自信がなくて、出来るだけ彼の多くを知りたかった。
もちろん走っているところを見ただけでは何も分からないかもしれないけど。
でも―――


「だめ。」


私の時は即答だった。
そのあまりの速さに怯んだけど、頑張って食い下がる。


「何で?」
「危ないから。」
「大丈夫だよ。」
「何を根拠にそう言うんだ?夜の峠なんてガラの悪い連中が多いし、ギャラリーしている場所に車が突っ込んで来るってこともあるんだ。」


まるで母親が子供を諭す口調。
こんな高橋くんに私が敵うはずがない。
子供の私がまだねばれる方法と言えば、駄々をこねるくらいしかなくて、でも、それはしたくなかった。
「じゃあ連れて行って。」と言うのも嫌だった。
そこまですると、何だか彼の世界を土足で踏み付けるような感じがして怖かったから。
それに彼の言うことに嘘はなくて、確かに、私を心配してくれているのも分かったから。


「―――でも、行きたい。」
「だめ。」


彼の答えは、ずっと変わらなかった。






半ば諦めかけていたとき、それは偶然やって来た。
ううん、その場所へ行ったのは決して偶然ではなかったのだけど、まさか、そこに高橋くんがいるとは思わなかった。
だって、そこは、栃木だったから、まさかこんな場所まで来ているなんて思ってもみなかった。


その日は高校時代の友達の何人かと栃木へ観光に出かけていて、皆は旅館に泊まることになっていたんだけど、私は次の日に用事があるから一人で先に帰らなきゃいけなかった。それでも皆といるのが楽しくて、なかなか帰ることが出来なくて、気が付いたらすっかり陽も落ちきって夜になってしまった。


「気をつけて帰りなよ、。」
「大丈夫だよ。」


別に夜道を一人で運転したことがないわけじゃない。
私は暢気にそう返事して、友達と別れた。
そして街中を抜けて山道に差し掛かって―――ちょっと雰囲気が違うことに気が付いた。
何だか普段見慣れないような車が多く止まってる。
車高が低かったり、大きなウィングが付いていたり、派手なステッカーが貼ってあったり。
それにもう夜だって言うのに、外に人がたくさん立っていたりする。


もしかして―――走り屋?


私は怖くなって咄嗟に車を脇に寄せる。
どうしよう、他の道なんて知らない。
でも、物凄い速さで飛び出していく車と一緒に山道を下っていく度胸はない。
まさか一晩中走ってるのかな?
そう不安になりながらも、ちょっと様子を見ようとすぐ近くにあった大きな駐車場に車を滑り込ませた。


暫く車の中で周りの様子を窺う。
普段は滅多に聞かないようなタイヤのスキール音が響き、同じ車とは思えないようなエンジン音が轟く。
まるで異世界のような感覚。
ほんの数時間前にはここを通ってきたはずなのに、夜の闇と一緒に全く別の世界がやって来たようだった。
ふわふわとした感じ。
少しの恐怖と、少しの好奇心。
確かに、ここは、昼間の高橋くんの姿とはあまり結びつかなかった。
あの車をここに並べても何の違和感もないけれど、彼自身がここにいると言うのは―――想像しづらい。


本当に走り屋なのかな。
そんな風に思ってしまうくらいに。






でも、彼は確かにこの世界の人間で。
否がおうにも認めざるを得なくなるような状況が、僅か数十分後に目の前で起きた。
聞きなれたような、聞きなれないような車の音が近づいてきて、駐車場の入口付近で止まる。


「―――えっ?」


その白い車を見て、私は目を疑った。
会いたい会いたいって思っていたから幻でも見ちゃった?
それとも、ただ単に同じ車種って言うだけ?
私はガラス越しにじっとその車を見つめる。
ゆっくりとドアが開けられて、少し窮屈そうな車内から足が伸び、現れたのは―――やっぱり、高橋くんだった。
実物を目の前にしても自分の目が信じられなくて、びっくりして。
隠れなきゃとか、怒られるとか、そのときはそんなこと全然思いつきもせずにドアガラスに張り付いた。


一瞬、こちらを見たような気もする。
けれど、高橋くんは近くに立っていた人とすぐに話を始めてしまったから、私も別に気にしなかった。
そう、私を見たとか、私に気付いたとか、そんなことはどうでもよかった。
だって―――高橋くんは、すごく、すごく楽しそうに見えたから。


隣りにいたちょっと強面な感じの男の人と話をしている高橋くんの顔は、すごく楽しそうだった。
別に笑顔ってわけじゃないんだけど。
寧ろ、ちょっと怖い感じの表情なんだけど。
何て言うか―――興奮、しているような。
おもちゃを前にしてワクワクしている子供のような、そんな顔だった。


ここにいる人たちは、高橋くんのこんな顔をいつも見ているんだ。
そう思うと、周りにいる見ず知らずの人たち一人一人に嫉妬してしまう。
でも、それと同時に、私も彼のこんな顔を見ることが出来たことが嬉しくて、何か宝物を見つけたようで、すごくドキドキした。


話は終わったのか、高橋くんは車の中に戻る。
一緒に話をしていた相手の人も、自分の車に乗り込む。
何か始まる?
全くの無知な私でも感じ取ることが出来るくらい、その場の空気が緊張に包まれていくのが分かった。


高橋くんの白い車と、もう一台の車が縦に並べられる。
アクセルを吹かす音。
あの車があんな音を出すところなんて、初めて見た。
どうしても我慢できず、私は外に出てその二台の側へと駆け寄っていく。
見つかったらどうしようとか、そんなことを考える余裕なんかなくて、ただ、とにかく、その白い車をもっと近くで見たかった。
周囲の人が怖いのかどうかなんて、考えてる暇はない。
でも、逃げて行くかのように二台の車は猛然とダッシュして、あっと言う間に見えなくなってしまった。
本当に、あまりに一瞬のことで、実は幻だったんじゃないかなんてこの期に及んでまだ考えてしまうくらい。
ただそこに残った多くの人たちの歓声が、それが現実なんだって教えてくれる。


何度も乗せてもらったことのあるはずの車なのに、全く違う車に見えた。
あんなふうに走る車だったんだ。
興奮と、嬉しさと、寂しさと、色んなものがゴチャ混ぜになって湧き上がってきて、足が震える。
その車の姿はすっかり見えなくなって、やっぱり、いつもと全然違う音だけが響いて。
高橋くんの方が先にゴールしたと言う情報が、近くにいた人の携帯に入っても、私は暫くそこから動けなかった。








高橋くんのことは、入学当時から知っていた。
彼は色々と有名だったから、知らない人の方が少ないと思う。
例に漏れず私も彼に憧れたけど、遠くから見てると本当に遠い存在に思えて、たぶん、こうやって憧れのまま終わるんだと思ってた。
けれど今年になって、たまたま実験グループで一緒になって。
思っていたより、ずっと、普通の男の子だと言うことを知った。


って、頭はいいのに要領は悪いね。」


そして、思っていたよりグサグサと物を言う人だと知った。
―――確かに、要領はいい方じゃなかったけど。
よく当番で一緒になって迷惑をかけていたのも事実だけど。


「これが終わったら夕飯奢れよ。」
「う・・・い、いいよ。」
「一緒なのがじゃなかったら、さっさと帰ってるよ。」
「確かに私じゃなかったら、もうとっくに終わってるかも。」
「・・・そうじゃなくてさ。」






あれから、ちょっとは高橋くんのことが分かってきたつもりになってたけど、まだ全然だったみたい。
こんな―――高橋くんがいたなんて。
木々の間から少し冷たい風が流れてくる。
その気持ちよさに、自分の顔がすごく紅潮しているのだと言うことに気が付いた。


「―――ずるい。」


何で今まで見せてくれなかったの?
そんな不満をポソリと漏らしてみても、何故か顔の筋肉が締まらなくて、口の端が緩んでいく。
まるで、今初めて高橋くんに恋したみたいだ。
心の中で呟いた自分の台詞に、さらに恥ずかしくなって顔が熱くなる。


周りにいた人たちも暫くは興奮冷めやらない様子でそこに佇んでいたけれど、夜の闇が深まるにつれて一人二人と消えて行く。
多くの車で埋め尽くされていたその駐車場も僅か数台を残すだけになって、ぼーっと立ち尽くしていた私ものろのろと自分の車へと戻った。
それでもまだ走り出す気にはなれない。
もう、別にそこを走っている車が怖いとか、そう言うことを考えていたのではなくて―――寧ろこの時間を共有できた彼らに親近感さえ覚えてしまっていたくらいだけど―――ただ、名残惜しいと言うだけだった。
きっと、この山道を下って家に帰って、明日高橋くんに会っても、もうあんな顔を見ることは出来ない。
そう思うとちょっと寂しい。
エンジンもかけずにシートに座り、暫くじっとしていると、突然携帯が鳴った。


こんな夜に誰?
―――あ、さっき別れた子たちが心配で電話してきたのかな。
そう思って携帯と手にとってディスプレイと見ると、それは、ついさっき目の前を走り抜けて行ってしまったあの人だった。
何だかうまく頭の中の線が繋がらないまま、反射的に出る。


「―――はい。」
?今、どこにいる?」


私が出るなり彼の口から飛び出してきたその質問の口調は、まるで答えを知っているかのような確信に満ちていた。
いつものように優しさは残しているんだけど、少し、怒っているような、呆れているような。
その声を聞いて、私は漸く現実に戻される。


「えっ、と・・・。」


今さら嘘をつくことなんか出来ないけれど、素直に答えるのも怖い。
私が口ごもっていると、高橋くんの小さな溜息。


「まだ上の駐車場にいるんだろ。」
「・・・・・・うん。」
「待ってろ、すぐ行くから。」


そう言って携帯が切れ、数十分後には目の前にあの白い車が現れた。
さっきのあの姿とはちょっと違って、少し落ち着いたような感じで。
一度駐車場の入口近くに止まり、すぐ近くに止まっていた車のドライバーに何か話をしてからこちらに近づいてきた。
私の車のすぐ前に止め中から現れたのは、まだ少し興奮を残したような表情の高橋くん。
その顔を見て、私はまた少し足が震えた。


「―――危ないって言っただろ。」


そう言う高橋くんの声は、いつもより幾分乱暴な感じがした。
私を見る目も、少しだけ鋭い気がする。
でも、怯えさせるような、威圧的なものじゃない。
普段大学では穏やかで優しい彼のその表情に、怖さよりも、興奮みたいなものを覚えた。


「不可抗力だよ、旅行に来ててたまたま通りかかったんだもん。」
「こんな時間にこんな場所にいるのが駄目だって言ってるんだ。しかも一人で。」
「・・・ごめんなさい。」


私が素直に謝ると、高橋くんは仕方ないなと言う感じで優しくぽんぽんと頭を撫でる。
そんないつもと変わらない彼にさえも、何だか緊張してしまう。


「とりあえず、場所を変わろう。」


そう言う高橋くんの先導で道を下って行き、途中の脇道に入る。
どこに行くんだろう。
彼の車のテールランプを見ながら首を傾げていると、脇にちょっと広くなったスペースが現れ、そこに車を止めた。
私も何が何だか分からないままに彼の車の横に車を止め、外に出る。
外灯も何もなくて、高々と生い茂っている木々の間から見える月だけが唯一の明かりのような場所。
でもそんな所でも怖いと感じないのは、一緒にいるのが高橋くんだからだろうか。


「―――この辺に旅行で来るって言ってたけど、まさか、本当に会うとはな。」


高橋くんはそう呟くように言って、少し自嘲的に目を細める。


「私だって、いくら何でもまさかこんな場所で高橋くんに会うなんて思ってなかったよ。いつも赤城の方で走ってるって言ってたから。」
「ああ、いつもはな。でも赤城じゃバトルは―――今日みたいなことはしないんだ。」


一旦言葉を切って、俯き気味だったその顔を上げて私を見る。
まだその目には「バトル」の余韻が残っているように見えた。
そして、それが、私にもさっきの興奮を思い出させる。


「もしかしたら、会えるかな―――とも、思ったけどね。」
「え、でも・・・来て欲しくないんだよ、ね?」


ちょっと意外な彼の台詞に私は戸惑う。
とにかく来て欲しくなくて、もし来てしまったら怒られるか嫌われるかのどちらかだろうと思っていたから。
口元を微かに緩めて私に向ける高橋くんの視線。
何だか―――やっぱり、いつもと違って見える。


「何で来て欲しくなかったか、分かる?」
「・・・危ないから、じゃなくて?あと・・・」
「あと?」
「自分の世界を邪魔されたくないから、とか。」


戸惑い気味にそう言うと、今度は高橋くんの方が意外そうな目で私を見た。
そして、可笑しそうに、小さく笑う。


「まあ、確かに、ただの興味本位な女に来て欲しくはないけど。」
「違うの?」
「本当の理由は違う。」


じゃあ、何?
そう聞く前に高橋くんの手が伸びてきて、私の両腕を掴む。
その力の強さに反射的に抵抗してしまったけれど、彼はそんなもの気にもせずにぐいと私を引き寄せた。
そして、片方の手の指に唇を落として、何かを抑えるかのような低い、でも微かに熱っぽい声で言う。


「優しく出来ないから。」
「―――え?」


それがどういう意味なのか、聞くまでもなかった。
彼はさっきと同じように強い力で私の腰を引き寄せて、そして今度は抵抗する間もなく唇に唇が重ねられる。
その強引さに私はびっくりして、思わず目を閉じるのを忘れてしまったくらい。
いつもは、すごく優しくてゆっくりで。
でも今日はいきなり舌が入ってきて、受け止める余裕もないまま息が上がってしまう。
苦しくて、でも放してくれなくて、漸く唇が離れたときにはもう何も考えられなくなってしまっていた。


にはずっと優しくして行きたいと思ってたのに。」
「なんで?」
「何となく―――壊れそう、だから、かな。」


今度はいつものように優しくキスをする。
けれど、私の方がそれでは足りなくなって、自分から唇を重ねた。


「そんな簡単に、壊れないよ。」
「―――そんなこと言うと、調子に乗るよ?」


私も高橋くんに負けないように力いっぱい彼のことを抱きしめる。
もちろん、いつもの彼も好きだ。
でも―――今の高橋くんも好き。


「もっと、今日みたいな高橋くんを見たい。」
「でももう一人では来ないでくれ。見張り頼むのが大変だから。」
「え?」
「何でもない。―――俺も、今みたいなをもっと見てみたい。」


今みたいってどんな?
聞いてみたいけどちょっと怖い。
視線が絡まる。
たぶん、私の目も高橋くんと同じように、熱い。


木々の葉をすり抜けて風が吹く。
でもその冷たい風も、私の頬の熱を冷ましてはくれなかった。