kittle
恐らくその携帯で一番多く呼び出している名前。
それが液に表示されたのを確認して通話ボタンを押す。
ワンコール終わるか終わらないかのうちに、の返事が聞こえてきた。
その声が少し元気がなかったように思えたが、とりあえず気にせずに渉は話す。
「今、家出たから。あと10分位でお前の家に着くからな。」
信号待ちの僅かな時間。
そんな用件のみを言ってさっさと切ろうと思っていたのに、の意外な言葉のせいでそれが出来なくなった。
「・・・渉、今日は、やめにしない?」
「はぁ!?何言ってんだお前!」
信号が変わろうとする。
渉は小さく舌打ちして、携帯を持ち替えシフトを1速に入れた。
「とにかくもう家出ちまったんだから、お前んち行くからな!電話切るぜ!」
「え!わー!来ないでー!!」
「お前、何つー言い草だよ!!」
ブツリと切って、助手席側のシートに放り投げられる携帯。
いつもより少し荒いアクセル操作に、それはシート内を転がった。
先週末から地元の映画館で公開されている邦画が見たい、と言い出したのはの方だった。
渉はそんな映画があることも知らなかった―――と言うより、そもそも渉は映画自体興味がない。
たまに見たいものがあったとしても、後でDVDになってから見ればいいやと思う程度。
「私がチケット買っておくからさ、たまには行こうよ。」
楽しそうに言うの誘いを断る理由はなかった。
最近あまり構ってやることが出来なかったから、寧ろ積極的にその誘いに乗ろうと思った。
久しぶりのデートらしいデートだし、今日着てきた白地にブルーのチェックのシャツは、彼の持っている服の中では一応「勝負服」の部類に入る。
妹の和美にからかわれながらも早めに家を出て、いつになく緊張しながら信号待ちの車の中から彼女に電話してみれば、あの言い草。
最初は沈んでいるようにも聞こえたが、最後の方の声からは、とても病気とは思えない。
「ったく、何だってんだよ!?」
いつもの場所に車を止めて、マンションの階段を駆け上る。
エレベーターもあるが、3階の彼女までの部屋なら階段で走って行った方が早い。
いつもよりペースが速かったのか、腹が立っていたせいなのか、運動不足なのか、彼女の部屋の前に辿り着く頃にはゼーゼーと息が切れてしまった。
が、構わずインターホンを押す。
1回押せば分かるのに、つい3回押してしまうのは、何となく落ち着かないからだ。
「わーん!来ないでって言ったのにー!」
「てめぇ、まだそんなこと言ってんのかよ!!」
インターホン越しの彼女の惨い台詞に、渉はドアノブを必要以上にガチャガチャと回す。
まさか本当に入れない気じゃねぇだろうな!?
そのGパンのポケットにこの部屋の鍵が入っていることなどすっかり忘れて、そんなことを思う。
「とにかく、映画はまた今度にしてー!」
「何なんだよそれ!!理由言えよ、理由っ!!」
休日の朝から騒がしくドンドンとドアを叩く。
すると漸く観念したらしい彼女が、ガチャリと鍵を開けて、そーっとドアを開ける。
渉はそんな動作がもどかしく、ドアを掴んで自分側に一気に引いた。
「お前なぁ・・・!」
内側からドアノブを握ったままよろけた彼女に詰め寄ろうとする渉。
肩を掴んで顔を上げさせようとすると、すかさず彼女は頭を押さえた。
いや―――頭、と言うよりは、もっと前の方と言うか下の方と言うか。
「・・・お前、何してんの?」
怪しい仕草に、渉は訝しげな顔。
怒るのはとりあえず保留にして、その彼女の両手をベリッと頭から剥がした。
と同時に、怒りを忘れて呆ける渉。
かける言葉も見つからない。
「何よその顔はー!!」
涙目になりながら、体当たりジャンプしてくる。
その前髪は―――どこへ行ってしまったのか?
「だから来るなって言ったのにっ。」
「何だと!?そんなことで来んなって言ったのかよ!?」
「そんなことって何よーっ!今、渉だって絶句してたじゃないの!!」
久々のデートっぽいデート。
そう思って張り切ってたのは、もちろん渉だけじゃない。
も気合いを入れて、前日の夜は念入りに体を洗って、物凄く時間をかけて歯を磨いて。
そして今日の朝一番に予約を入れた美容院へ行った。
「『もうちょっと切って下さい』って言ったら、2センチぐらい切ったんだよ。信じられる!?」
それはきっと大げさだろうが、しかし、彼女にはそれ位切られたような衝撃だったのだろう。
結局前髪を切り過ぎて、泣きながら帰ってきたと言う。
「わーん!こんなんじゃ渉の髪型笑ってられないよー!」
「んだと!?てめぇ笑ってたのかよっ!」
デコピンしやすくなった彼女の額に、ビシッと指を当てる。
何事かと思えば、こんなこと。
渉は力が抜けて、思わず笑ってしまった。
「あ!笑った!」
「そうじゃねぇよ!ほらっ、出かけるぞ!」
「えっやだっ!!今日はダメ!!」
「じゃあいつ映画行くんだよ?」
「・・・前髪が伸びたら。」
「んなこと言ってたら映画終わっちまうぞ。」
髪は女の命なのよー!などと叫ぶ。
アホか、との頭をはたく渉。
「じゃあ今日はどうすんだよ?」
「・・・うちで遊ぶ。」
「・・・帰る。」
「何よー!いじわるー!!」
「お前、最初は来んなっつってたじゃねぇかよ!」
こんな攻防(?)が玄関で延々と繰り返され、果たして映画に行けたかどうかは―――?