fret




聞き覚えのある声がして慈郎はボンヤリと目を開けた。
言い争い―――にしては、女の声の方が冷静だ。


こんなところで痴話喧嘩?


起き上がるのが億劫で、寝そべったまま大きな欠伸をして二人の会話を聞く。
いや、勝手に耳に入ってくる、と言うのが正しいのかもしれない。
でもすぐに気を使って退散しなかったのは、悪趣味な好奇心というよりもただ単純に動きたくなかったからだ。


「―――もう私の気持ちは変わりません」
「ちょっと待ってくれよ、!」


ああ、やっぱりの声だ。
男が呼んだ名前で慈郎は確信する。
同じクラスの
どちらかと言うと大人しい感じで、でも、実は結構キッパリ言う性格。
マイペース同士の二人はクラスが同じと言う以外に殆ど接点がなかったけれど、ついこの間、隣りの席の男子が「ってちょっと可愛いよな」と言っていたので何となく頭の片隅にその存在が居座っていた。


相手は誰だろ?あいつじゃないし。


その男子の声じゃない。
もっと低くて大人っぽい声に、こんな奴いたかなぁと目を瞑る。


「先生には感謝しています」
、卒業まであとちょっとじゃないか・・・・・・!」


先生?
慈郎はピクリと反応し、目を開ける。
植木の隙間から声のするほうを覗き込むと、そこにはと化学教師の男がいた。
確か大学を出て今年から赴任してきたばかりのはずだ。
それですぐに生徒に手を出したのかよ?
慈郎は僅かな嫌悪に眉を顰める。


「さよなら」


が差し出した手の上で、何かが光る。
男の方は彼女の顔を見たまま暫く動かなかったけれど、全く手を引っ込める様子のない彼女に漸く諦めてその光る物を受け取った。
チラと見えた形は鍵らしきもの。


・・・・・・っ」


尚も未練がましく自分の名前を呼ぶ男を振り返りもせず、は教室棟の方へと消えていく。
そのとき、一瞬慈郎の方を見たような気がした。








午後の授業の予鈴が鳴り慈郎が教室に戻ると、自分の席につき机の上の教科書に視線を落としているが目に入った。


女は見かけによらないよな・・・・・・


心の中で呟いた台詞に、若干の侮蔑が含まれてしまう。
女子同士の恋愛話に積極的に参加する感じではなかったし、普段あまり男子に興味があるように見えなかったし、そういう方面には疎いのかと思っていた。
それが実は、自分の学校の教師と付き合っていて、家にまで行くような関係だった―――らしい。
そして別れ話の直後に、平然とした顔で授業を受けている。


午後一の授業なんて、慈郎にとっていつもは絶好の昼寝タイムなのに、何故か今日は全然眠気が襲ってこなかった。
うつ伏せる代わりに頬杖を突いて、少し離れた席にいるを見る。
その視線は結構あからさまだったはずなのに、彼女の方は不自然なくらいに彼の方を振り返ることはしなかった。


「ジロー、今日は寝てなかったねー」


休み時間、いつもノートを取ってくれる女子の一人がそう笑って言いながら慈郎の方にやって来る。
同じように笑って「うん、まーねー」なんて適当に返事をする彼は、確かに授業中起きていたけれど内容なんて聞いていやしない。
ノートはありがたく受け取った。
慈郎の傍から離れずに話しかけてくる彼女が、今日は何となく鬱陶しく感じる。
そんな自分を勝手だなぁと思いながら、彼女の後ろにいるに目が行く。
しかし授業中と同じように、彼女の方は慈郎を全く気にする様子なく、同じクラスの女子と何か喋っていた。
その表情は、笑顔こそなかったけれど、いつもとそれ程変わることはない。


何故か無性にイライラして仕方なかった。








翌日、慈郎は珍しく早く目が覚めてしまって、仕方なく―――と言った感じで学校に向かった。
ベッドでゴロゴロしていても、全然眠れる気がしない。
昨日の昼から調子がおかしい。
きっかけは分かっているけど原因は分からない。
それがさらに彼をイライラさせて、何だか寝られなくて、さらにイライラする。
悪循環なのは慈郎本人にも分かっていたけれどどうしようもなかった。


校門をくぐり、何となく裏庭へ向かおうとする。
けれど、途中少し前を歩いている女子の背中に、慈郎はゴクリ、と唾を飲み込んだ。


―――だ。


こんな時間になぜ学校にいるんだろう?
もう3年はみな部活を引退しているから朝練ということはない。
まっすぐ教室棟へと入って行く。
たとえば昨日の休み時間に話しかけてきた子が歩いていたら、駆けて行って「おはよう、早いじゃん!」などと声をかけていただろう。
なのに、今の慈郎はうまくとの距離を縮められない。
が階段を昇り、教室のドアを開けて中に入って行く。
そして静かに閉められる。
慈郎はもう一度だけ唾を飲んだ。


ついさっき音もなく閉められたドアを、今度は慈郎が開ける。
鞄から教科書を取り出していたは驚いた顔もせず後ろを振り返った。


「―――おはよう、早いね」
だって早いじゃん」
「誰もいない朝の教室って好きなんだよね」
「ふーん。変わってるね」


静かな教室に彼女の声が響くと何となくちょっと落ち着かなくて、慈郎は少しだけ乱暴に鞄を置いた。


「あ、もしかして、俺ジャマ?」
「別に。そんなことないよ」


嘘か本当か分からないような平坦な調子でそう答えたは、椅子を引く。
けれどそこには座らず、暫く前の黒板を見つめていたかと思ったら、ゆっくりと慈郎の方を振りかえった。


「芥川くん、昨日、あそこに―――いたよね」


手のひらにジワリと汗が染み出てきたのが分かる。
自分でそれを誤魔化すように、「えっ?何のこと?」とわざとらしく明るく笑う。


「とぼけるなら、それでもいいけど」


そう言って投げやりな感じで前髪をかき上げる
何だかいつも教室で見ている彼女とは別人に見えて、更に手のひらが冷たくなる。


「いたって言ったら、はどうするの?……口止めでもする?」
「そうだね……。あんまり人には言って欲しくない」
「なんで?」
「私のせいでクビになられると困るし」


自嘲気味に口元を歪める。
その表情は妙に大人びて見えて、自分とは違うんだと言われている気がして、喉がどんどん渇いていく。
立場が弱いのは彼女の方なのに、慈郎の方が追い詰められているような錯覚。
何とか形勢を逆転したくて、彼の方も負けず意地悪い笑みを作った。


「それって偽善者っぽくない?」
「そうだけど。でも本当のことだし」
「なら、最初から付き合ったりしなきゃいいじゃん」
「そうだよね」


一向に二人の関係は変わらない。
どことなく投げやりな
あの教師と付き合っていたという事実を本人の口から聞いて、少なからず衝撃を受ける慈郎。
手はどんどん冷たくなって感覚までなくなって来て、喉はカラカラで―――頭は妙に冴えて来る。


「バラされたくないんだ?」
「そりゃぁね……」
「ふーん。……じゃあ、ヤラせてって言ったら、どうする?」


まるでそんな要求くらい予想出来ていた、とばかりのの落ち着いた顔。
慈郎はムッとした表情を隠そうともせずに彼女を睨んだ。


「別に、いいよ」
「へー。さすが大人なは違うね。好きじゃないヤツとも出来ちゃうんだ?」
「―――好きじゃないから出来るんだよ」


その「好きじゃない」という言葉が、「嫌い」に近いものだということは慈郎の直感で分かった。


「なにそれ」


何かを抑え込もうとして、声が低くなる。
たぶん、クラスの誰も知らないような声。
でもは全く動じる様子も見せずに、じっと慈郎を見た。


「俺のどこがイヤなの?」


慈郎のその問いに、は視線を逸らすことなく迷いなく答える。


「皆に甘やかされてるところ。……それに甘えてるところ」


かぁ……と慈郎の顔が熱くなるのが分かる。
自分がにそんな風に思われているなんて思ってもみなかった。
反射的に彼女の方へ駆け寄り、その肩に手をかける。


「お前に何が分かるんだよ……!」


そのまま彼女を壁際へと追いつめる。
普段見せることのない顔。
男の力。
さすがのも、一瞬恐怖で視線が揺れる。
けれどすぐに負けじと慈郎を睨んだ。


「じゃあ、芥川くんは私の何が分かるの?」
「な……に?」
「芥川くんは昨日のあの場面を見て何を考えたの?その後何であんな目で私を見てたの?……何でそんなにイライラしてるの?」
「うるさいっ!」


両肩を手で掴むと、の背中がドンと壁に打ち付けられた。
華奢な肩。
細い首。
赤い、唇。
それらがあの男のものだったのだと想像して、イライラして―――欲しくなって。


欲しくて欲しくてたまらなくて。
眠ることも出来なくて。


「別に―――お前のことなんて知りたくない!」


彼女を傷つけるかもしれない。
そんなことを思う余裕もなく、叫ぶ。
自分を守るように。


「知ってるよ、そんなこと」


そして次の瞬間には、彼女のその悲しそうな微笑いに、全身が痛くなる。


「どうする?芥川くん。他の人が来るまで30分しかないよ」


まるで挑発するかのような発言。
はわざと自分を逆なですることを言っている。
そして自分自身を傷つけている。
何故だか急に、慈郎はそう思った。


「―――、何であいつと付き合ってたの」


そして無意識にそんな問いが口から零れる。


「……好きだったからだよ」
「ほんとに?」


変な、自惚れに近い直感のようなもの。


「好きだったからだよ」
「好きだって言われたからじゃないの?」
「好きだったからだよ」


他の言葉を忘れたように繰り返す。
それで自分の直感が正しいと確信した。


「他に好きなヤツいたんじゃないの?」
「……好きじゃない人と付き合ったりしない」
「好きじゃないヤツとはヤレるのに?」


少しずつ校内に人の気配が入り込んでくる。
その気配から身を潜めるようにの耳元に顔を寄せる。
彼女の呼吸をする音。


「芥川くんは―――嫌い、だよ」


ついさっき、あれだけショックを受けた言葉が全く違った響きを持って耳に届く。


「俺も、嫌いだよ」


ビクリ、との肩が揺れる。
唇は震えている。
すぐ隣りの教室のドアが開く音がした。
タイムリミット。


慈郎は彼女の腕を掴み、廊下へと駈け出した。