contradiction




送別会を開いてくれたお店の前で、今日まで同僚だった皆に別れを告げる。
最後に上司に挨拶をして、皆に手を振って、一人、駅とは反対方向へと歩き出した。


手には、大きな花束。


私をイメージして作ってもらったと後輩の女の子が言っていたけど、自分にはちょっと綺麗過ぎると、照れくささを含んだ苦笑い。
横を通り過ぎる車に時折視線を向けながら、のんびりと歩く。
オフィスの近くのこの通りは、今まであんまり余所見をしながら歩くことなんてなかったかもしれない。
空を見上げることも、なかった気がする。
ボンヤリとそんなことを思いながら顔を上げ、何となく可笑しくて笑ってしまった。


少し奥まった道に入って、車の通りも殆どなくなって来たところに、今日の第二の送別会会場。
道路に面した壁に掛けられた、古びた木製の看板。
地下へと続く、薄汚れた狭い階段。


最初に、このお店を見つけて入ってみようと言ったのは、あの男の方だった。
凡そ、こんな「場末の酒場」みたいな場所が似合わないような男。
でも何故か一回で気に入って、何度もここを待ち合わせの場所に使ってた。
彼にとっては、ここは「非日常」の場所だったのかもしれない。


軋むドアを開けて、すぐ目の前のカウンターに目を遣る。
二人のいつもの定位置。


「――もう終わったのか」


跡部がこちらを見て口角を上げ、持っていたグラスを傾ける。
中に入っていた大きな氷が、カランと軽い音を立てた。


「あまり酔ってねぇな」
「お酌に回って、何とかくぐり抜けてきた」
「いいじゃねーか。最後ぐらい酔っ払っちまっても」
「酔ったら何するか分かんないよ」


肩を竦めつつ跡部の後ろから奥のスペースに回り、テーブルにバサリと花束を置く。
椅子に腰掛けると、お酒は注文する前に目の前に差し出された。
結局、二人共常連になってしまったんだな。
マスターに向かってちょっとだけ笑みを浮かべて、そのグラスを手に取った。


「じゃあ、二日後に人生の墓場へ旅立つを祝して」
「最低」


二人で、嫌味な位のにこやかな笑みを交わして、大きさの違うグラスの縁を軽くぶつけた。
そんなに強いお酒でもないのに、一口飲むと一気に全身へ回る気がしてクラリとする。
煙草と埃のせいもあるんだろうか。
ここで跡部と飲むときは、よく、こんな感覚に襲われた。


「随分ぎりぎりまで仕事だったんだな」
「引き継ぎがなかなか終わらなくて。マリッジブルーになる暇もなかったよ」
「てめぇがマリッジブルーなんてタマかよ」


既に緩めてあったネクタイに手を掛け、更に襟元を寛げながら、跡部はそう言って笑う。
失礼なって睨むと、また笑って、鼻をつままれた。
そうすると私の機嫌が直るとでも思っているんだろうか、私が怒ったり睨んだりすると、跡部はよく私の鼻をつまんだ。
たぶん、初めて高校で会ってすぐくらいから。


「もう式の準備は出来てんのか」
「うん、大体」
「終わったらすぐにハネムーンなんだろ。パスポート忘れんなよ」
「分かってるってば」


意地悪く笑う跡部。
今度は私がその鼻をつまんだ。






私は明後日結婚する。
相手は、すごくすごく優しくて、いつも私の意見を聞いてくれて、いつも私のことを考えてくれてる人。
目が優しくて、笑うと可愛くて。
跡部とは、全然違う人。


「式にはミキたちも来てくれることになったんだ。何だか高校の同窓会みたいになりそう」
「ま、結婚式なんてそんなもんだろ」
「跡部が来ないって言ったら、皆残念がってたよ」
「しょうがねぇだろ、その日から出張なんだから」


ふん、と鼻を鳴らして、空になったグラスをテーブルに置く。
頬杖をついて、目の前にズラリと並んでいるボトルへと視線を向ける跡部。
私は、マスターが液体の満たされた新しいグラスを静かに置く様子を何も言わずぼんやりと眺めた。






跡部とは氷帝の高等部で初めて会った。
中等部からの持ちあがりが大半で、外部入学の私は最初戸惑ったけど、気が付くと跡部がいつも近くにいてくれた。
ムチャクチャするな、と思うことも多々あったけど、でも、私の中ではいつも彼は「跡部様」じゃなくて「跡部」だった。
跡部の隣りは安心出来た。
居心地がよかった。
だから、失うのが怖かった。


「――付き合うか」


二年の終わり頃、たまたま放課後に教室で二人きりになることがあって。
跡部はまるで「ご飯でも食べるか」みたいな、いつもと変わらない口調でそう言って来た。
私はすぐに頷こうと思って――頷けなかった。
変なの。
あの人のプロポーズには、すぐに頷けたのに。


その時、代わりに零れたのは涙だけだった。
それを嬉し涙と勘違いしてくれなかった跡部は、私の頭をぽんぽんと撫でた。






「まあ、空港向かう途中に寄って、てめぇをかっさらうってのも、おもしれーかもな」
「よくあるベタなドラマみたいに?」


あはは、と言う私の空笑いと、跡部の手の中にあるグラスの氷がカランと鳴る音が重なる。


「地位も名誉も捨てて――」


でも、跡部は笑わない。


「かっさらったら、お前は手に入るのか?」


低い声でそう言って。
一瞬の間の後、冗談だと言って小さく笑った。
そうだよね。
私も笑おうと思ったのに、何故か涙が出そうになって、誤魔化すためにグラスに口をつけた。
お店に流れている音楽が途切れて、マスターがCDを入れ替える。
ここのBGMはいつもマスターのお気に入りのジャズを流していた。
新しいCDをかけると、いつも跡部とマスターはその曲について色々言い合っていたっけ。


「この俺様をふって他の男と結婚するんだ。幸せにならねーと承知しねーからな」


また、私の鼻をつまむ。


「もう!」


その腕を掴んで睨んだけど、その目が優しくて、まっすぐに見ることが出来なかった。


でも、何でだろう。
後悔はしてない。


この男を失うのが怖くて、他の人のものになるなんて――おかしいのかな。
でも――跡部は、何となく、それを理解してくれている。
そう思うのは、単なる驕りなんだろうか。


「言われなくても――なるよ」


頷けないのを誤魔化して、目を伏せる私。
跡部はいつかの時のように、黙って私の頭を撫でた。