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HRを終えてが生徒会室へ行くと、正面の会長席には既に跡部が座っていた。
今日は一人で仕事を片付けようと思っていたは入口で一瞬足を止めたが、静かにドアを閉めて彼の机に一番近い自分の定位置に向かう。


「会長も今日仕事があったんですね」


返事を期待せず、そう言いながら机の上に鞄を置き、パソコンの電源を入れる。
すると意外にも跡部は視線を上げてキーボードの上の指を止めた。


「お前は、何か仕事が残ってたのか?」
「大したモンじゃないんですけど、今日中に片付けたい用事があったんで」


が椅子に腰を下ろす頃には、もう彼はパソコンに向き直っていて仕事を再開していた。
無駄な会話のない張りつめた空気。
去年、書記をやっていた女の子は息が詰まりそうだとよくこぼしていたけれど、は結構この雰囲気を気に入っていた。
だからこそ二期続けて生徒会の役員など面倒な仕事をやっているのだが。


書類を捲る音と、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。
重厚な扉に阻まれて、廊下の騒音は殆ど聞こえてこない。
外の天気も穏やかなもので、大きな窓からは少し傾きかけた太陽のオレンジ色の光が差し込む。
パソコンのディスプレイから視線を上げると、窓越しの柔らかい光が目に飛び込んでくる。
はこの静寂と光が好きだった。


―――この人は、どうなんだろう?


相変わらず淡々とした表情でパソコンに向かったままの跡部に何気なく視線を移し、頬杖をついた。
気まぐれでじっと見つめる。
けれど全くこちらに目を向けようとしない。


―――向けられても困るんだけどさ。


は伸びをして立ちあがった。
そして端にあるコーヒーメーカーに豆をセットする。
彼女の独断と偏見で、思い切り苦い豆を。
他の生徒がいるときでも、コーヒーを淹れるのはの役目だった。
初めのうちは誰の役目とも決まっていなかったのだが、一度が入れてから跡部に「お前が淹れろ」と指名されるようになってしまい、それ以来、がいるときは彼女が淹れることになっていた。


書類の音と、キーボードの音と―――それにコーヒーメーカーのコポコポと言う音が加わる。
小さな棚から跡部と自分の分のカップを取り出すと、陶器のぶつかる音も重なった。


「―――ああ、悪い」


邪魔にならないようにと、コーヒーを注いだカップを静かに跡部の机の上に置く。
視線を向けず短く礼を言う彼に、も彼の方を特に見ずに「いえ」と短く返して自分の席に戻る。
カップを口もとに運び、ふうと息を吐くと、湯気とともにコーヒーの香りが広がった。


跡部の視線が今度は手元の書類に移る。
そして片方の手でカップを持ち、ゆっくりと口もとへと運んだ。


「―――お前、来てただろう」


カップを置いてパソコンに向き直っていたは、その跡部の台詞に小さく首を傾げ、彼の方を見る。
跡部の方は書類に視線を落したまま。


「全国大会」
「ああ……」


相変わらず淡々とした表情で淡々とした口調の跡部に、今度は小さく頷き、パソコンの方に視線を戻す
素っ気ない返事。
でも、そんな素っ気ない返事しか出来ない。
再びカップを手に取る。


「―――気付いてたんですか」
「お前は目立つんだよ」
「会長ほどじゃないと思いますけどね」


肩を竦めると、跡部がフンと鼻で笑うのが聞こえてきた。






正直、生徒会以外での跡部には興味はなかった。
―――今となっては、それは自己防衛の一種だったのではないか、などと思う。
友達が彼を見てキャアキャアと騒ぎ、会話を交わす機会の多い彼女はよく羨ましがられた。
テニスの練習や試合を一緒に見に行こうと誘われたこともあったけれど、興味がないと言ってずっと断って来た。


「これからは生徒会の方に専念できる」


けれど、関東大会が終わった後。
そう言った彼の顔は今と同じく無表情に近い淡々としたものだったけど―――その声がの耳にずっと残って。
ああ、もう会長がテニスする姿は見ることが出来ないのか。
その時になってようやくそんなことを思って、胸に何かがズシリと沈み込んだ。


「ここ暫くずっとお前に任せきりだったからな」
「―――別に、私は言われたことをやっただけですよ」


いつもよりどことなく柔らかい口調。
その声に、彼にとってテニスがどれ程大きな位置を占めているかを気付かされた。
夏休みにたまたま学校へ来て、氷帝が推薦枠で全国大会に出られると知ったとき、密かにも喜んだ。
だから彼の出る全国大会の試合は全て見に行った。
一人でコートの端でひっそりと応援しているつもりだったのだが―――そんなに目立っていたのだろうか?


コトンとカップを机に置く音が小さく響く。
も手に持っていたカップを静かに置く。
窓に視線を移すと、陽の光はさっきよりも橙色を深くしていた。
ゆっくりと目を瞑る。
目の裏に浮かんだのは、コートの中の跡部。


紙がパラパラと捲れる音。
そしてファイルがパタンと閉じる音。
椅子が軋む音。


の目の前が一瞬暗くなる。
瞼を上げると、跡部の顔がすぐそばにあって、また、目を閉じた。


唇にそっと触れるだけのキス。


躊躇いがちにも思えるそのキスを意外に思うと同時に―――何故だろう?彼らしいとも思う
ゆっくりと目を開くと、跡部は机に寄りかかり彼女に背を向けて窓の方を見ていた。


「お前には―――あんな所は見せたくなかった」


も、また窓の外を眺める。
跡部と自分がいま、同じ空を見ている。
当たり前のことを今さらながら思い、実感する。


「私は、見てよかったです」
「……性格わりぃな。あんな負け試合をか?」


背を向けたまま自嘲的に笑う跡部。
も彼の顔を見ず、ただまっすぐ前を見つめる。


「会長は、負けてません」


別に慰める気などないし、気休めを口にする気など、さらさらない。
けれど、そう思ってしまったのだから仕方がない。
小さく肩を竦めつつ、再びパソコンに向かおうとして―――跡部の手に阻まれた。


やや強引に顎を上げられたは、跡部の深く青い瞳を見つめる。
クッ、と喉の奥で小さく笑う声。


「ばーか。負けは負けだ」


囁くように吐き出されたその言葉に、胸に僅かな痛みを感じながら。
また目の前のオレンジ色の光が遮られて―――は目を閉じた。