イタズラ




生徒会室のある特別教室棟から出て渡り廊下を歩いていると、本館からもの凄い必死な形相で走ってくる女がいた。


なんだ、こいつは。


俺の存在に気が付いて、一瞬「しまった」と言うような表情をして速度を落とし優雅に歩こうとしたが、その後ろからこれまたもの凄い勢いの足音が聞こえてきて、ビクリと肩を揺らす。
このまま特別教室棟まで行く余裕はないと判断したのか、慌てて廊下脇の木の影に逃げ込んだ。
まだ小学生気分が抜けきらねぇガキか。
一瞥してそのまま通り過ぎようとしたら、本館から女同様に壮絶な形相をした日吉が現れた。


「―――あっ、跡部さん!」


何か紙切れを握っていた手を下ろし、頭を下げる日吉。
俺はポケットに手を突っこんだまま、息を切らしているヤツを見た。


「お前、何してんだ?あん?」
「跡部さん、見ませんでしたか!?」
?」
「……って言っても知らないですよね。ここ走ってきた女、いませんでしたか?」


あの女か。
低い木の前で身を屈め、日吉の様子を窺っている女を一瞥する。
目が合った女は青ざめながら口の前に人差し指を当て、「しーっ!」という仕草をする。
興味のない俺は鼻で笑い、ポケットから右手を出した。


「あれか?」


俺が指を差すと、天敵に見つかった猫みたいな顔をする女。
そしてその女の方をグルリと向き、獲物を見つけたハンターのような表情をする日吉。
捕まえようと動き出すヤツと、すかさず逃げようと走り出す女と。
後者の方が一瞬早く、中庭へと駈け出した。


「てめぇ、、待ちやがれ!」
「さっきからごめんって言ってるじゃんよー!」
「今まで『ごめん』って言って何度同じことやりやがったっ!!」


女を追いかけるとは思えない程の本気走り。
同じように女の方も、じゃれあいと言うにはあまりにも色気のない走り。
日吉は部活ではもちろんクソが付く位真面目な方で、どちらかというと硬派な印象が強いが、そんなアイツがあれだけマジになるなんて一体あの女は何をやらかしたんだ?
呆れてため息を吐くのを待ちかねたように、予鈴が鳴った。








放課後、コートへ行くと日吉はすでに準備運動を始めていた。
黙々とストレッチをするその様子はいつもと変わらない。
が、俺が入ってきたことに気が付いて、どことなくバツの悪そうな挨拶。
俺は特に気にすることなく練習を開始する。
軽い打ち合いの後、ベンチに腰かけてタオルで汗を拭っていると、すぐ近くで同じく休憩を取っていた日吉と目が合った。


「昼休みは、すいませんでした」
「女と追いかけっこか?」


笑って言う俺に、ちょっとムッとした表情。
でもそのとおりだから何も言えないんだろう。黙ったまま目を逸らす。


「もしかして日吉、またさんにやられたの?」
「……うるせえよ、鳳」


観戦スタンド側にいた鳳がこちらに乗り出して来て可笑しそうに笑っていた。
舌打ちする日吉に構わず、鳳の方が続ける。


「今日は何されたの?また背中に『下剋上』とか張り紙されたの?」
「うるせぇっつってんだろ、鳳!」
「図星なんだ。日吉って武術もやってて普段隙って見せないのに、あの子の前では隙だらけだよね」
「そんなんじゃねぇよ!」


不愉快そうにタオルを放り、コートへ戻る。
その様子を見て鳳はまたくすくすと可笑しそうに笑った。
俺が訝しげな眼を向けると、その笑いが苦笑いに変わる。


「何なんだ、そのってのは。日吉に気でもあるのか?」
「さあ、それは分かりませんけど、あの子は近くの席になった人には男女構わずイタズラをしかけるみたいですよ。ほら、俺達がまだ1年のとき、樺地が頭にリボン付けて練習に来たことあったでしょう?あれもさんの仕業です。1年では樺地とさんは同じクラスだったから」
「……あれか」


そう言えば去年、2日続けてピンクのリボンと青のリボンを頭に付けて来たことがあった。
部員たちは大笑いで、樺地が珍しく顔を赤くしていたのを覚えている。
一体誰がどうやってあの樺地にリボンなんか付けやがったのか―――しかも2回も―――そのガキくさい悪戯に呆れると同時に少し感心したもんだ。


「いつも誰かに追いかけられて、昼休みは毎日走ってますよ」
「……誰か止めるヤツはいねぇのか」
「結構みんな楽しんでる感じですねー」
「しかし、2年にもなってそんな下らねぇことばっかして、そいつは馬鹿か?」
「あはは。でもこの前全国のスピーチコンテストで入賞してましたし、中間考査でも5位以内に入ってたはずです」
「お前は同じクラスでもねぇのに、随分詳しいんだな」


スラスラと返事が返ってくる鳳にそう言うと、突然あたふたと慌てて練習へ戻る。
物好きな野郎だな。あんな女に。
あからさまなその態度に内心呆れながら、俺はベンチから立ち上がった。








翌日。
確かにそいつはまた廊下を走っていた。
だから廊下を走るなっての。
俺は教室の窓から、また廊下を出て中庭を走りまわるその女を見下ろす。
昨日までは全然気にならなかったが、一度その姿を見ると、またすぐに見つけちまうらしい。
今日の相手は日吉じゃなく女だった。
今度は一体何をしでかしたのか。
追いかけていた女の方がスタミナ切れで、前屈みで肩を揺らしている。
その体力を他に生かせよ。
遥か遠くをひた走る「」という女の姿を追いながら、俺は思わず心の中で突っ込みを入れちまう。


次の日も、そのまた次の日も、またまた次の日も、そいつの逃げ回る姿か、そいつの名前を呼んで追いかけてる人間の姿か、どちらかが目に入った。
クラスの連中もよく飽きねぇな。
相手にしなきゃいいのによ。
そんなことを思いながら追いかけてるやつの顔を見たら、何だか随分と楽しそうだった。
そう言えばあの日吉のマジ走り。
もしかしたら、あいつもああやって本気で追いかけて楽しんでたのかもしれない。


ま、俺様には関係ねぇけど。


俺は遠くの方で女の名前が叫ばれているのを聞きながら、教科書とノートを肩に担ぐようにして持ち、さっさと特別教室へと移動した。








暫くしてまた日吉が不機嫌な顔をしていたと思ったら、放課後にパソコンルームで本人に会った。
殆ど人のいない教室で、そいつのキーボードを叩く音がリズミカルに響く。
別に他にもたくさん席は空いていたんだが、何となく気まぐれで、一つ席を空けてそいつの隣りの椅子を引いた。
俺を気にかける様子もなく、ディスプレイを見つめる女。
何となく面白くなくてそいつの横顔を睨み椅子に腰掛ける。
パソコンの電源を入れると、ふとそいつがこちらを向いた。
しかし何事もなかったように自分の前のパソコンに向き直ろうとして―――グルンとまたこちらを見た。


いちいちリアクションが大げさなんだよ。
この俺様にそんな顔するなんて、どういうつもりだ。


ジトリと恨めしげな顔をする女に向って、俺はわざとらしく鼻でせせら笑う。
そして額にかかった髪を払い、ディスプレイに向かう。


「……この前は、どうも」


キーパンチを再開しながら、そいつの方から俺に話しかけてきた。
俺はわざと「何のことだ?」としらばくれる。
けれどそいつは気にせず続けてきた。


「おかげであの後、殺人的なデコピンを食らいました」
「そんなの、俺の知ったこっちゃねぇな。下らねーことする自分が悪いんだろ」


この前の日吉と同じく、図星をさされた女は黙りこみ、ものすごい勢いでキーボードを叩く。
おい、そのキータッチの方が殺人的だっつーの。
その気迫に押されつつ、俺もキーボードを叩く。
さっさとこれを片付けて部活の方に顔を出さなきゃならねぇ。


「跡部さんて、せーかく悪いんですね」
「あーん?てめぇがガキなんだろうが。他人のせいにしてんじゃねぇよ」
「か弱い女の子を庇ってやろうとか思わないんですか」
「か弱い女が、あんな男みたいな走り方するかよ」


憎々しげな顔を向けてくる女に、俺は「ばーか」と言う言葉を顔全面で表現した。


「む、むかつく……」
「この俺様にむかつくなんて100年早いんだよ」
「さらにむかつく……っ」


その怒りをぶつけるかのように、さらにキータッチの速度を上げたかと思ったら椅子から立ち上がり、プリンタの方へと向かった。
どうやらこいつの用事は終わったらしい。
パソコンの電源を落とし、鞄を肩にかける。
最後にこっちを見たから、俺は口の端だけ上げて笑った。


「お、さ、き、に。先輩」
「フン」


かなりの負けず嫌いらしい女は、頬にかかった髪をサラリと払ってニーッコリと意地悪そうな笑みを浮かべる。
普通にしてれば、それなりに可愛いのになぁ。
大股で部屋を出て行くそいつの怒りを背に感じながら、俺はまたパソコンに集中した。
何だか、妙な爽快感みたいなものを残して。








仕事を済ませて部室に向かうと、同じく委員会で遅れたという忍足と宍戸もちょうど来たばかりのところだった。
着替えているそいつらの後ろを通り過ぎ、自分のロッカーの前に立つ。
と、隣りの忍足が口を押さえて「ぷっ」と吹き出した。


「あーん?何だ忍足」


ジロリと忍足を睨むと、その隣りにいた宍戸まで笑いを堪えている。


「跡部、自分、むっつりなんか?」
「はぁ?何言ってやがる」
「でも背中に貼ってあるで?ほら、『むっつりあとべ』て」


片手で口を押さえながら、俺の背中から何かをベリッと剥がす。
「ほれ、見ぃ」と差し出されたその紙には確かに「むっつりあとべ」と書かれていた。
しかも丁寧に特大フォントでの印刷で。


あの女……っ!何を印刷してんのかと思ったら!!


「激ダサだな」
「ぶはははっ!確かにダサいなっ!」


我慢できず腹を抱えて笑いだす忍足。
何もなかったように着替えようとする宍戸の口元もヒクヒクと震えていた。
てめぇら……


「しっかし、誰や?跡部にこないなことするのは」
「こんなことやるガキが氷帝に2人もいてたまるか……!」


紙をぐしゃりと握りしめる手が震える。
あいつ……どうしてやろうか。


「日吉は、確かF組だったな」
「なんや、日吉が関係あるんか?」


明日の朝、覚えてやがれ。
そんなことを考えながら、ふと、あいつを追いかけ回す連中の気持ちはこんな感じなのかと思った。


「今日の跡部、何か機嫌よくない?」


んなワケねぇだろ。
練習中、訳分かんねぇこと言う向日と、それを聞いてまた腹を抱えている忍足に必殺技をお見舞いしてやった。