ネツ 2




「朝から跡部様の声が聞けるなんて、今日はラッキーだね〜」


朝礼が終わって講堂から教室に戻る途中、一緒に歩いていた友達がキャーキャーとはしゃぐ。
今朝の朝礼では、生徒会長である跡部景吾が挨拶に立った。
彼が壇上に上がっただけで、女生徒たちの小さい悲鳴が上がるのは、いつものことだった。


「あの人の声が聞けるだけでラッキーなんて言ってたら、ラッキーな日だらけで有り難味なさそう」


なんだかんだ言って、この学校で彼を一方的にでも目にする機会は多い。
―――望むと望まざるとにかかわらず。
ちょっと冷たい声で言う私に、また始まったとでも言いたげな友達の苦笑い。


「またそんなこと言うー」
はアンチ跡部様だもんねー」


跡部くんのことで一緒に騒げない私は、周りからこんな風に呼ばれていた。
私以外にも何人かはこう呼ばれる子がいるけれど、実はそういう子に限って彼を意識していたりするものだ。
たぶん―――私も例外じゃないんだろう。


「……別に、そんなんじゃないよ」


友達は私のそんな小声の反論なんか耳に入らず、また彼の話をし始めた。






あれからも、特に何かが変わったわけじゃなかった。
本当に、見事なくらいに。
もともと彼とは接点など全くなかったんだから、当然と言えば当然。


あの意味を聞きたいと、ちょっとは思った。
けど、彼に近づく機会なんて、そうそうあるもんじゃない。
今までだって彼に用事があったことなんてないんだから、急に今になって何か絶好のチャンスが到来するわけもない。
あの日以来、テニスクラブで会うこともなかった。
行くたびに、つい、あの奥のコートへ足が向いてしまうけど、そこはいつもガランとしていて、過剰なくらいに綺麗に整備されているその場所は余計寂しい気分にさせる。


「あの程度」のことは彼にとって取るに足らないことなんじゃないだろうか。
勘違いするな。
そう言われておしまいな気がする。
そして、そう言われたら、たぶん―――傷つく。
1時間にも満たないたったあれだけの時間で、私の心は全てあの男に奪われてしまった。
急に臆病になってしまった自分に呆れる。


きっと、全部夢だったんだ。
彼が私の名前を呼んだことも、私を見たことも、このコートで打ち合ったことも―――キスしたことも何もかも。








、ちょっといいかな?」


何となく気分の晴れない毎日。
どうにかしなくてはと自分でも思うけれど、なかなかそこから抜け出せない。
そんなときに学校の廊下で、ドイツ語の先生に声をかけられた。
いつもと変わらずニコニコと微笑んでいる先生に、私はちょっと気まずさを感じる。
ここ数日、本は手に取るけれど活字が全く頭に入ってこない状態が続いていて、翻訳の勉強をしていなかった。


「君に是非読んでほしい本があるんだ」


特別教室棟にある先生の部屋。
ここは、本当はドイツ語の「教科準備室」と言う名前だけれど、ドイツ語の先生は一人なので実質この先生の個室になっていた。
先生は机の上に置いてあった1冊の本を取り、私に差し出す。
黒の表紙の、当たり前だけどドイツ語の本。
ほんの少し前に本屋さんで見て面白そうだなとは思ったんだけど、普段読んでいる本よりも少し厚めで、しかもこの著者は独特の言い回しが多い。
読みきれるか不安だったし、実は金銭的にもちょっと思い切れなかった。


「急がなくていい。ゆっくり読みなさい」


そんな私の躊躇いを感じ取ったのか、先生は優しく笑って言う。
これはチャンスなのかもしれない。
ふと、そんなことを思う。
「何か」を変えることができる、チャンス。


「―――私、頑張ってみます」
「そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ」


そう言ってまた優しげに笑う先生。
その笑顔に励まされて私は決心し、部屋を出た。








ゆっくりでいいと言われたのに、結局私はその本を一気に読み切ってしまった。
この前まで1フレーズも頭に入ってこなかったというのが嘘のようだ。
確かに独特の文体は最初難しく感じたけれど、読み進めて行くと逆にそれが不思議なくらいに「嵌って」くる。
翻訳を始めると、それをどう伝えたらこの著者らしくなるのか、色々考えるとすごく楽しかった。


孤高の青年。
裏切られた恋。
普遍の友情。


どうしたらこの世界観を壊さずに日本語で伝えることができるんだろう。
そんなことを一生懸命に考えながら―――私はこの主人公の青年を、何となく跡部くんと重ねてしまっていた。


友達とどんな話をして笑いあうのだろうか。
彼でも叶わない恋などすることがあるのだろうか。
恋人を信じることが出来ずに苦しむ主人公。
跡部くんも、女の子のことで悩むことなんてあるんだろうか?


忘れようと思っているはずの人なのに、結局、この本を開くたびに思い出している。
でも何故だろう、数日前までの苦しみみたいなものは薄らいでいた。
ほろ苦さ―――のようなものは残るのだけど。


「……でも、珍しいな」


最後のページを訳しながら、今さらのように独り言。
先生がたまに貸してくれる本は、どちらかと言うとやさしい感じの恋愛小説とか話題になっている推理小説が多かった。
こういう本をが自分で選ぶことはないだろうから、と言って。
でもこの本はどちらかというと古めかしくて、ちょっと暗くて、私好みのものだ。


「ま、いいか」


私は辞書を閉じる。
そんな疑問よりも、この本を訳し切れたことに対する満足の方が大きくて、深くは考えなかった。
自信がある、とは言い切れないけれど、納得いく訳が出来た気がする。






次の日の放課後、私は本とCDを持って先生の部屋に向かった。
早く見せたくて、お礼を言いたくて、つい早足になる。
だから、ドアの横にある小さなプレートなど全く気にせずにトントンとノックした。


「どうぞ」


その声が先生のものとちょっと違う気はしたのだけど、昨夜抱いた疑問と同様に深く考えずドアを開ける。
そしてその直後、目を見開いたまま体が動かなくなった。


「どうした、早く入れよ」


正面にある机に寄りかかり、腕組みしてこちらを見ている。
今まであんなに近づきたいと思っても近づけなかった人が。
忘れようと思っても―――忘れられなかった人が。


「―――どうして……」


一瞬にしてカラカラに渇いた喉から漸く絞り出した台詞。
「話は中に入ってからだ」と言う彼の声に、半ば反射的に部屋に入ってドアを閉じた。


「どうしてって言うのは、どうして俺がここにいるかってことか?」


ふん、と小さく笑って言う彼に、やっぱりまた反射的に頷く。
どうして。
その中に、もっといろいろなものが入っていたような気はしたけれど。


「今日は部活が休みで時間が出来たから、この部屋にある本を借りに来たんだ」


淡々としたその答えに、何となく落胆している自分。
偶然。
それは当たり前だ。
私が今日ここに来ることなんて、分かるはずがない。
恥ずかしくて、つい、誤魔化すような笑みを浮かべてしまう。


「お前は?」
「私は……借りた本を返しに」
「終わったのか」
「え?」


跡部くんの台詞に、私は首を傾げる。
でも私のそんな疑問など無視して続ける彼。


「今日はもう先生は帰っちまったぜ」
「えっ、もう?」
「部屋の前のプレート、『帰宅』になってただろ。気付かなかったか?」


そんなの、全然確認しなかった。
ドアをノックして返事がなければ見たかもしれないけど、すぐに返事があったから疑いもしなかったのだ。
第一、先生がもう帰っていたら部屋の鍵は開いていないはずなのに。
私の疑問が顔に出ていたのか、跡部くんが続ける。


「鍵は俺が預かったんだ。自分は早く帰らなきゃいけないけど、本はゆっくり選んでいいってさ」


さすが、と言うべきなんだろうか。
信頼が厚いんだなと感心する。
そんな私の前で、机の上に置いてあった1冊の本を手に取る跡部くん。


「―――本はもう選び終わったんだけどな」


そう言って、私の持っている本を指差す。
少しだけ口の端を上げて。


「窓からその本を抱えてこっちに向かって来るお前が見えたから、ここで待っていた」


一瞬、心臓が跳ねた気がしたのは、その台詞になのか、向けられた視線になのか、よく分からない。
ただそれを隠すように本をぎゅっと胸の前で抱える。


「……どうして」
「また、どうして、か」


呆れたような彼の笑いに、私の頬は熱くなる。
俯くのと同時に、彼の足音が近づいて来る。
そして、私に抵抗する隙を与えずに、私の手からヒョイと本とCDを取り上げてしまった。


「訳し終わったんだろ?」
「―――っ、返してっ!」
「いいじゃねぇか、どうせ俺が見るんだぜ?」


まるでいじめっ子のように、CDを持った手を高く掲げる。
私はまるでいじめられっ子のように、必死にそれを取り返そうと手を伸ばす。
悔しくて、恥ずかしくて、必死に。
でも、全然届かない。
ただ彼は手を上げているだけなのに、僅かにでも触れることが出来ないなんて。
何だか涙が出そうになる。


「返して!」


もう一度訴えるけど、彼は黙ったまま。
私は半分自棄になって、手を下ろす。
そしてそれと一緒に視線も上に掲げられたCDから下ろして―――跡部くんと、目が合う。


「あの日」と同じ目。


私はそれをどこかで求めていたはずなのに、不意に怖くなって彼から離れようとする。
けれど、彼の手が私を拘束する方が早かった。


「―――冷てぇじゃねーの」


腰に手が回される。
私はびっくりして彼の胸に手をついて抗おうと逃げようとしたけれど、逆に腰の方はさらに彼へと引き寄せられてしまった。
触れた部分から、侵食するように伝わってくる彼の熱。
それを感じることを拒みたくて私は目を逸らす。


「お前は全然変わらねぇんだな」
「変わらないって……それは、お互い様……でしょ」
「俺はあれからお前のこと見てたぜ?―――いや、あれからじゃなくて、それよりもっと前からだけどな。でもお前すぐ目を逸らすだろ」
「そんなこと―――」
「そんなことなくねーだろ。今だってそうやって目ぇ逸らしてるじゃねぇか」


呆れたような、怒ったような声が上から降ってくる。
そんなことない。
そう言おうと思ったけれど顔を上げることができなくて、説得力がない。


「お前にはあの程度のことは、何てことないってわけか」
「―――っ」


何度も自分が跡部くんに対して思った言葉を、声に出して返される。
見透かされたような気分になって、かっとなって、彼の胸についたままだった手に力を込める。


「それは、跡部くんの方でしょ」
「は?何言ってんだよ」
「跡部くんはもてるし、あれくらいのこと、よくあるんじゃないの?」
「お前、俺のことろくに知らねぇくせにいい加減なこと言うなよ」


この前、テニスコートでも同じようなことを言われた気はする。
けれどあの時とは違って、その声は明らかに苛立っていた。
さっきまでいくら伸ばしても届かなかった跡部くんの手が、今度は私の腕を掴む。
その手首からも彼の熱が襲って来て、意味もなく怖くなって、私はぎゅっと目を閉じる。


「俺をちゃんと見ろ、。逃げるんじゃねぇ」
「やだっ」
「嫌じゃねぇよ」
「やっと進めると思ったのに……やっと、この本で変われると思ったのにっ」
「何だよ、それ?……第一この本、俺のだぜ?」
「―――え?」


彼の台詞に、目を開く。
途端、机の上に乱暴に置かれた黒い表紙の本が視界に飛び込んでくる。
この本が―――跡部くんの?


「お前もこう言うの好きだろうと思ったから、先生に勧めてやって欲しいって頼んだんだ」
「なんでそんな、回りくどいこと……」
「直接何度かお前のクラスに行ったぜ?でもお前いなかったんだよ」
「うそ」
「嘘じゃねぇよ。戻ってきたら俺の所に来るようにその辺にいた女に頼んだんだが―――伝わってなかったんだな」


そんな話は全然知らなかった。
困惑して顔を上げると、跡部くんのどこか責めるような視線とぶつかった。


「それにお前、朝礼とかで俺と目があってもあからさまに顔背けるだろ」
「そんな―――気のせい……」


いや、「気のせい」と私が思い込んでいたのは彼の視線の方だったのかもしれない。
弱々しい反論に、跡部くんの呆れたようなため息。
そしてそのため息と共に、和らぐ視線。


「そこまでして別に貸すことねーかとは思ったんだが……」


俺は結構、往生際が悪いんだよ。
そう言って、私の腕を解放した彼の手が、今度は私の髪を撫でた。
どことなく、躊躇うように、確かめるように、ゆっくりと。
その緩慢とも思われる動きが逆に私の鼓動を早まらせて、それを隠すようにと私はまた俯いてしまう。


「また逸らす」


そう言ったと思ったら髪に触れていた手で、ぐいと私の顔を上げさせる。
どこか挑発的な笑み。


「前に進むなら、俺と一緒に進めよ」


その表情とは対照的なくらいの、やわらかい声。
勘違い―――していいんだろうか。
俯くことも目を逸らすことも、頷くことも出来ず、私はただ、下唇を噛んで見つめ返す。
跡部くんはまた、ため息を一つ。
そしてその直後、浮かべていた笑みが少し意地悪いものへと変化した。


「『あの程度』のことじゃ分からねぇって言うなら、もっとちゃんと分からせてやろうか?」
「え……?」


怪訝な顔をする間もなく、彼の唇が私の耳元へと移る。


「この部屋の外にはもう帰宅のプレートがかかってる。内側から鍵をかければ、誰も中に人がいるなんて思わねぇだろうな」


―――どうする?
囁くような、低い声が、直接耳に注ぎこまれる。
それと同時に、何かが体の中を駆け巡る。
こんな、何も考えられないような状況で、今さら私に何を選択させようと言うんだろう?


「どういう……意味?」
「そんな顔しておいて、今さらしらばっくれるのか?」


そんな顔って、一体どんな顔?
戸惑う私を、跡部くんは不意に解放する。
そして、私の体の向きをドアの方へと変えさせて軽く背中を押した。


「お前に選択権をやるよ。―――ドアを開けてそのまま帰るか、鍵をかけるか」


私は茶色いドアをぼんやりと見る。
震えそうになる手を、必死に抑えながら。


「ちゃんと自分で選べ。


俺は選んでる。
そう聞こえたのは、気のせいだろうか。


目を閉じて、ゆっくりと開ける。
まだ震えている手。
私はその手にぎゅっと力を込め、一歩、足を踏み出した。