ネツ




この学校の子なら誰も知らない人はいない。
この学校の女の子なら、きっと誰も憧れない人はいない。
その行動は常に自信に満ちていて、人一倍注目を浴びて、反発を覚えない人がいないわけじゃないけれど。
彼のことを少しでも知れば、そんな自分こそ下らない人間だって気付かされる。
私もそのうちの一人だった。


私はテニス部に入っていなかったけど「やっぱりテニスくらい出来ないと」とよく分からないことを言う母親に半ば強引にテニスクラブへ入れられていた。
最初はあまり気が進まなかったそこも、一緒にやる友達ができたりすると楽しい場所に変わって行った。
そこが実は跡部くんのお家が持っている多くのテニスクラブのうちの一つだと知ったのは、暫く経ってから。
気まぐれで、敷地の奥の方にあるコートを見に行った日だった。
普段は足を踏み入れることのない場所。
別に立入禁止とかではなかったんだけど、いつも使っているコートとは正反対の位置にあったから特に用がなかったのだ。


綺麗に手入れされた木々に囲まれて、綺麗に手入れされたコートが並ぶ。
そのうちの一面に、跡部くんは立っていた。
まさかこんな所で学校の有名人に会うとは思わなかった私は自分の目を疑ったけど、彼のような容姿の人間が二人といるはずもない。
フェンスの側に寄って、サーブを打ち続ける彼を見る。
一体何球打っているのだろう。
無数のボールがコートを埋め尽くしていた。


汗だくで、疲労の色をにじませながらも厳しい顔でラケットを振り下ろす。
何度も何度も。
その姿は学校でたまに見る彼とはかけ離れているようにも思えたけれど―――すごく綺麗だと、思った。
彼の自信には確たる根拠がある。


「ちょっとカッコいいからって、皆騒ぎ過ぎじゃない?」


単純にそんなことを思っていた自分が、すごく恥ずかしくなった。
そのまま黙って退散しようとした私がクルリとコートに背を向けた瞬間、後ろから私の名前を呼ぶ声。


!」


びっくりした。
クラスも違うし部活も違うし委員会も違うし、何の接点もない私の名前を彼が知っているとは思いもしなかった。
まさか生徒会長だからといって全生徒の名前を知っているはずもないだろう。
私は足を止め、驚いた顔のままコートの方を振り返る。
汗を拭って私の方を見ていた跡部くんは、ちょっと口の端を上げた。


「オーナーの息子に挨拶もなしに帰るのか?」
「え……オーナー?」


そのとき、初めてここが跡部グループのクラブだと知った。
私は何を言っていいのか、何を聞いていいのか分からず、黙って立ち尽くしてしまう。
「そんな所につっ立ってないで入って来いよ」と彼に言われるまま、フェンスの中へと入って行った。


「そろそろ一人の練習に飽きてきてたんだ。ちょっと付き合えよ」
「わ、私!?」
「そのラケットは飾りか?あん?」
「私には無理だよ」
「別に試合しろって言ってるわけじゃないんだ。ラリーの相手くらい出来るだろ」


私は力いっぱい何度も首を横に振ったけれど、跡部くんには一向に諦めてくれる気配がない。
半ばヤケクソな気分でバッグからラケットを取り出した。
コートに立って彼を見る。
名門と言われるうちのテニス部の部長とこんなふうにコートで向かい合うことなんて絶対ないと思ってた。
気を抜くと膝が震えそうだ。
彼はボールを地面に突きながらただこちらを見ているだけなのに、この圧倒される雰囲気は何なのだろう。


あの跡部景吾が私を見ている。
さっきまで誰も寄せ付けないような厳しい目をしていた跡部景吾が、ちょっと笑っている。
どんなふうにボールを打ち返していたのか、全然覚えていない。
とにかく彼から返ってくるボールを夢中で追っていた。
本当に自分でもびっくりするくらい必死で、雨が落ち始めたことにも気付かなかったくらいだ。


「この辺にしとくか」


そう言って、続いていたラリーを終わりにした彼の声に、ようやく私は自分の頬に当たる雨粒に気が付いた。
それと同時に一気に疲労感が押し寄せる。
今まで不足していた酸素を一気に取り戻そうとばかりに、前屈みになってはぁはぁと息をする。
すごく、きつい。
けど気持ちいい。
ああ、テニスって、こんなに楽しいんだ。
不意にそんなことを思った。


なかなか息の整わない私の頭に、バサリと何かが落とされる感触。
それと同時に石鹸のような香水のような香り。
手で触れてみると、それは跡部くんのタオルだった。


「基礎体力がなさ過ぎんじゃねぇのか?」
「ほっといて……」


ありがとう、と言おうと思ったのにそれより先に跡部くんが変なことを言うからタイミングを逃してしまった。
どうせ、跡部くんは全然息が乱れてませんよ。
かけられたタオルで遠慮なく汗を拭う。


「まさか、こんな所で会うとは思わなかったぜ、
「何で私の名前……」


私は最初に思った疑問を口にする。
けど彼は「同じ学校なんだから知ってても不思議じゃねぇだろ」と素っ気なく言うだけだった。
そう言われればそうかもしれないけど……そう言うもんかな……。
何となく納得いかないまま、とりあえず急いでラケットをしまい、すでにコートの入口に立っていた跡部くんに慌てて駆け寄る。


「ご、ごめん、待たせちゃって」
「謝んのは俺の方だろ。こんなに濡れるまで付き合わせちまって」


まさか彼が謝るなんて思ってもみなかった私は、思わず彼をじっと見る。
「何だよ?」と訝しげな目をする彼に、私は思ったままのことを口にした。


「いや……まさか跡部くんが謝るなんて……」
「おいおい、俺は一体どんなヤツなんだ?」
「ご、ごめん」
「別にそこも謝るところじゃねぇけどな」


苦笑しながら、今度は私の頭にやや乱暴に彼の上着が掛けられた。
雨の匂いと、汗の匂いと、彼の匂い。
そして体温がじわりと伝わってくる。
その上着によって少しだけ狭められた視界が、他の感覚を鋭くさせてるのだろうか。
今さらながのこの信じられないようなシチュエーションに、私の顔は一気に熱くなった。


「何赤くなってんだよ?」


デリカシーのない発言をする。
きっとわざとだ。
目が笑ってる。


「別に、赤くなんてなってないよ!」
「その顔で説得力ねぇな」
「……今日の跡部くんに混乱してるだけだよっ」
「混乱?」
「だって、何だか変」
「普段の俺なんてろくに知らねぇんだから、変かどうかなんて分かんねぇだろ?」


もっともなことを言う跡部くん。
私は言葉に詰まって更に顔が熱くなる。


「俺は結構お前のこと知ってるけどな」
「―――私のこと?」
「そうだな……この前のLHRのドッジボールで顔面にボールぶつけられて病院に運ばれたとか、中間考査の化学の試験で答案用紙に名前を書き忘れて危うく赤点食らいそうになったとか」
「なっ、なんでそんなこと知ってるの!?」
「飽きない女だよな」


私の問いには答えずに、意地悪くニヤリと笑う。
確かにどちらも事実だけど―――そんな、誰でも知っているんだろうか。
だとすると、ちょっと……これから学校行きづらい……。
唸る私を見て、今度はちょっと優しげな笑みを浮かべる。


「―――翻訳家になりたいって、毎月一冊はドイツ語の本を読んでいることとか」
「え?」
「それでドイツ語の先生に和訳した原稿を添削してもらってるとか。で、その本の内容に感情移入し過ぎて意訳し過ぎるとか」
「ええぇっ?」
「悪いな。たまに読ませてもらってる」


そ、そんな……っ。
それは、確かに、誰にも見せないで下さいとは言ってなかったけど、よりによってこの跡部くんに見せるなんて。


「安心しろ。先生と俺しか読んでない」
「な、何で……」
「たまに俺が添削手伝ってたんだよ。気付かなかったか?」
「き、気付くわけないよっ!」


いや……気付かなかったわけじゃない、かも。
もちろんそれが跡部くんだったとは知らなかったけど、たまにやたらキツイコメントが書かれていることがあった。
あれがきっと跡部くんだったんだ……。


「でも、お前の翻訳、嫌いじゃないぜ」
「……それ、フォロー?」
「たまに文法的にも変なところがあるけどな」
「……じゃ、ないね……」


分かってる。分かってるけど……直接言われると、ちょっとダメージが。
がくりと項垂れる私の前で、跡部くんの小さく笑う声。
そして容赦なく私の顔を上げようと顎に手をかける。
抗議の目を向けようと思ったけれど、その、やわらかい笑みを目の前にして一瞬何も考えられなくなった。


「―――お前自身も、嫌いじゃない」


学校で見る跡部くんとは違う顔に見えるのは、この雨のせい。
きっと、そうだ。
私は彼から目を逸らせないまま、心の中でそんな言葉を繰り返す。
そうやって言い聞かせなければ―――吸い込まれてしまいそうだから。
でも、もう手遅れだったのかもしれない。


私の顎にかけていた手が、頬へとゆっくりとすべっていく。
そして、雨に濡れて少し冷たくなった唇に、跡部くんの息がかかる。


私はその熱を求めるように唇を開いた。