オペラグラス




「ふふふ……買っちゃった」


朝、教室に入ってくるなりが鞄から取り出したのはオペラグラス。
自慢げにそれを見せられた友人たちは一様に怪訝な顔つきをした。
そんな彼女らの表情など全く気にすることなく、はニコニコと嬉しそうにそれを掲げる。


「ほら、来週、希望者だけ募ってオペラ鑑賞会があるでしょ?夏にあったヤツでは全然歌手の顔とか見れなかったから今度はシッカリ用意したんだ!」
「えー?、あの鑑賞会申し込んだんだ」
「うわ、物好き」
「私は7月の強制参加のでグッタリ。感想文も書かされるしさー」


嬉しそうに話す自分とは対照的な彼女たちに一瞬キョトンとする
そして直後、「えーっ!?」と抗議の声を上げた。
まさか来週の鑑賞会に自分しか申し込んでいないとは思ってもみなかったのだ。


「そんなぁ……終わった後皆で『よかったねー』とか言ってたじゃん!また観たいね〜って!!」
「ああ……それはだって……ねぇ」
「あの時は近くに跡部様が立ってたから……」
「そんな理由だったのー!?」


確かに、夏に行われた鑑賞会の後、ホールを出たら偶然跡部が近くに立っていた。
こんな反応をしているだって、一応彼のファンだ。
その時は思いがけない偶然に喜んだりもした。
けれど、まさか、自分の周りで嘘の感想が飛び交っていたなんて。


跡部はオペラ愛好家で有名だ。
そんな彼の前で欠伸を堪えるのに必死だったのは言えなかったのだろう。
それは分かる。
分かるが―――はガクリと肩を落とした。
別に彼女もそんなにクラシックをよく聞くわけじゃない。音楽の時間に聴かされて眠くなることだって間々ある。
けれど、あの時の生のオペラ歌手の声は本当に迫力があって、ドキドキしたのだ。


「そっかー、はホントの感想言ってたんだね」
「元気出しなよ!あ、ほら、そろそろ跡部様の登校時間だよ!」
「うう……」


いつもはこの時間になると嬉しそうに皆と一緒に窓際へ駆け寄るだが、今日は落胆の方が大きくて足取りが重い。
友達の一人に腕を引っ張られ、何とか窓から顔を出す。
背後にいる男子たちの呆れ顔など視界に入らないふり。
何故たちが早めに学校へ来ているのかと言えば、跡部の登校シーンを見るため以外に目的はない。
昔はテニス部の朝練がない曜日だけを選んで来ていたが、部活を引退してしまった今では毎朝見放題だ。


彼が校門の前でリムジンから降りると、ファンクラブの女の子たちが忽ちのうちに取り囲む。
だから近くに行こうとしてもその姿を見ることは殆ど出来ないので、こうやって少し遠いけれど教室の窓から眺めるのだ。
決して本人と触れることはない。
けれどよく見えることは見える。
ファンクラブに入ればお近づきになるチャンスもあるのかもしれないけれど、そこまでしようとも思わない。
単純なあこがれ。
中途半端な好意。


「あーん、今日も素敵!跡部様ー!」


隣りの女の子のテンションが少し上がる。
校門の方へ目を向ければ、いつもと同じく車から降りて颯爽と歩く跡部の姿。
彼がとぼとぼと背中を丸めて歩く姿など見たことがない。
いつも背筋が伸び、自信があるように見せている。
きっと、自分からは想像のつかないような精神力の持ち主なんだろう。
はその彼の姿を見て、いつも、少しだけ、自分も頑張らなくては、と言う気にさせられる。


「黒のロングコートがあそこまで似合う男なんて、滅多にいないよね!」
「はは……」


友人たちの歓声が大きくなればなるほど、のテンションが下がってしまうのはいつものこと。
そんなとき、自分は結局彼のことをそんなに好きじゃないのかもなぁなんて思ってしまう。
でも、皆と一緒になって騒いだ方が楽しい。
も何とか遅れを取るまいと、オペラグラスを掲げる。


「ふふふ……こう言うときこそ、この威力が発揮されるわけよね!」
「あ、ちょっと!ずるい!」
「私にも貸しなさいよー!」
「おー、アップで見ると一層高級そうなコート」


四方から伸びて来る手をくぐり抜け、はオペラグラスを覗き込む。


「やっぱりカシミヤ100%とかなのかなぁ」
!せっかくアップが見れるんだから、コートばっかり見てないで顔とか見たらどうなのよ!」


友人のツッコミに、は「ああ、そうだった」と暢気に言ってもう一度覗く。
目に入って来たのは、全然痛んでいなさそうな、綺麗な栗色の髪。
もう少し下に視線を移すと、今度は整った眉。
そして、深く青い瞳。
相手からは自分のことなど近くに見えるわけでもないのに、今までに経験したことのない至近距離で、妙に緊張する。
でも、つい、マジマジと見てしまう。


「うわ……本当に青いんだ……」


呟くようなの台詞が、まるで聞こえたかのように、跡部の視線がふいと上がった。
まさかこちらに気づくわけはない。
そんなことを根拠なく思ってオペラグラスを向けていると、彼の目が徐々にの方へ上がって来て―――バチリと、目が合った。


いや、レンズ越しでは目が合うなんて、ただの錯覚かもしれない。
けれど、彼女の存在に気付いたのは間違いなかった。
なぜなら、跡部はの方を見上げたまま―――少しだけ口の端を上げて意地悪く笑ったから。


予想もしなかった展開に気が動転し、は一瞬にして顔が真っ赤になる。


「何だったんだ……今の」


彼女の小さな独り言は、周囲の女子の声にかき消される。


「きゃー!今、跡部様、こっちの方見なかった!?」
「うそ!どうしよう!」


きゃあきゃあと興奮気味の彼女たちは、もちろん彼の細かい表情までは見えていないだろう。
あんな笑みを見たら、一体どんな反応をするんだろうか。


!使わないなら貸して!」


友人の一人がからオペラグラスを奪う。
呆然としていたは、もう一度外へ視線を向ける。
けれど、跡部はもうこちらには一切顔を上げず、いつもと変わらない足取りで校舎の入口へと向かっていた。








とりあえず落ち着こうと、は教室の外に出る。
中庭へ向かう廊下を歩いていると、その脇の階段を跡部が昇って来るのが見えた。
さっきまで周りを取り囲んでいたファンクラブの女の子たちの姿は見えず、いつも連れている樺地のみが後ろを歩いている。
彼の姿を見つけて、は咄嗟に隠れようとキョロキョロ辺りを見渡してしまった。
ついさっきまで皆と一緒になってその姿を見ようと窓から乗り出していたというのに、急に距離が近くなるとどうしていいか分からず動揺する。
とりあえず隠れられる場所は見当たらなかったので、早歩きで退散しようとする。
が、それより一瞬早くの姿を認めた跡部の呼びとめる声。


「―――てめぇは、あんなもんまで持ち出して、ストーカーか?」


背後から聞こえる呆れ声。
逃げようと思ったけれど、その声が少しだけ柔らかく感じて、思わずは立ち止まり、振り返ってしまう。
ほんの少し離れた所に、さっきと同じような意地悪い笑みを湛えた跡部。
こんな至近距離で接することなどもちろん、今までまともに口を聞いた覚えもない。
心臓はやたらドキドキ煩くなるし、喉がカラカラ。
でもここは一言訂正しておかねば。
はスカートをギュッと掴み、何とか口を開く。


「べ、別に跡部……様を見るために買ったわけじゃないし―――っ」
「ふん、じゃあ、来週の鑑賞会に備えてか?」


がコクンと頷くと、跡部は「やっぱりお前も参加するのか」と呟くように言った。
その言葉に今度は首を傾げると、「7月の鑑賞会では、てめぇ一人興奮してたもんな」と笑った。
さっきと同じく呆れたように。でも少しだけ優しく。
でも忽ち、その笑みが妙に挑戦的なものに変わって行く。


「―――あんな場所で眺めてるだけじゃ、俺は手に入らないぜ?」


跡部のその台詞に、ただ目を大きくする
そんな彼女を見て小さく笑い、「行くぞ、樺地」と後ろの男を促す。


「―――っ、私でも……手に入れられるの?」


その跡部の背中に向かって、咄嗟に叫ぶ
一体何を言ってるんだろう?
自分の発した台詞に気が動転して、また顔が真っ赤っか。
けれど、跡部の方はそんな彼女の言葉に驚いた様子もなく、顔だけの方に向けて目を細めた。


「せいぜい、頑張りな」


ポケットに手を突っこみ、コートを翻す。
それに触れることはまだまだ叶わない。
―――でも、その日はそんなに遠くないのかもしれない。


単純なあこがれ。
それが、少しだけ違うものに変わった。