明日にしよう 後篇




たぶん、あそこで気まぐれを起こさなかったら、卒業まで――いや、もしかしたら一生会うことのなかった女。
もちろん世の中にはそんな人間が殆どを占めているんだが、あいつのことは、時折そう思って不思議な気分になる。


ちょうどその頃は生徒会で面倒な仕事の多い時期だった。
とは言っても、昼休みや放課後で片の付かない量じゃなかったが。
しかしその日はふと思い立ち、朝の早い内に誰にも邪魔されず終わらせてしまうかと、朝食を済ませてすぐ学園に向かった。


開門間もない学園内は、まだシンと静まり返っていて、建物全てがひっそりと身を潜めているような雰囲気だった。
夜の敷地内もやはり静かだが、また少し違う空気が広がっている。
俺は当然ながら、すぐに生徒会室に向かうつもりだった。
しかし、廊下を歩いている時、遠くから聞こえて来たボールが床に突く音に、半ば無意識に足が目的地とは違う方向へと向いてしまった。


最初、随分早くから練習しているヤツがいるんだな、その程度にしか思わなかったはずだ。
それなのに、何故その音のする方へ行ってしまったのか。
正直今でも分からない。


すぐ傍まで行くと、ボールの音は全く聞こえなくなってしまって、一瞬気のせいか?とも思った。
体育館の前まで来て、通常の入口を通り過ぎ、朝陽の当たる脇へと回る。
その行動には特に何か意味があったわけじゃない。
ただその柔らかい光に誘われただけだ。
体育館の白い壁に沿って歩いていると、トン、とまた軽くボールの跳ねる音が聞こえて来た。
すぐそこに、一か所扉が少し開いていたので、その隙間をもう少し広げる。


朝陽の当たる明るい場所から暗い体育館の中に視線を移して。
目が慣れた俺の視界に入って来たのは、制服を来た一人の女子生徒だった。
ボールを抱えて、じっとゴールを見上げている女。
まるで、今この世にはその手にしているボールと、数メートル先の小さなゴールしか存在しないかのような。
息が詰まるようなものとは違う、ピンと張り詰めた緊張感。
俺は、そいつが作り出しているそれが、嫌いじゃなかった。


そいつが、すぅっと息を吸い込むのが分かる。
俺も無意識に同じように息を吸い込んでいた。


ボールがそいつの手から離れる。
ああ、そりゃ入らねぇだろ。
軌道を追うまでもなく、それが放られた瞬間に思った。
ガツンとバックボードに当たって跳ね返るボール。
それが床を転がって、俺は息を吐き出した。
馬鹿馬鹿しいことに、どうやら俺は息を止めていたらしい。


ボールが俺の方に転がって来る。
けれど、暫くその女はゴールを見上げたまま動かなかった。


「今日は行けると思ったんだけどな」


そいつが小声で呟いたのが聞こえた。
その台詞の割には、特に残念そうではなかった。
たぶん、そいつにとってゴールに入るかどうかは、大した問題じゃないんだろう。
あのボールを放つ前の緊張感を思い出して、俺はそう感じる。
漸くそいつが動き出し、ボールを追いかけ始めた。
俺の数歩前で速度を落とし始めたボール。
俺は何故かそれを拾い上げようとは思わなかった。
別に意地悪をしたいとか、そう言うことじゃない。
ただ何て言うか――勝手にこの空気の中に割り入ってはいけないような、そんな感覚を抱いたからだ。


ここに誰かがいるなんて思いも寄らなかったんだろう。
そいつは、俺の存在に気付くと、びっくりして立ち止まった。
逆光でよく見えないのか、目をしばたたせる。
そして目が慣れて来て「俺」だと分かると、更にびっくりしたようだった。
大きく見開いた目で俺を見る。
そして落ちついたのか、すぅとさっきまでの表情に戻った後も、俺から目を逸らさなかった。
おどおどするでもなく、恥ずかしがるでもなく、淡々と、静かな目を向けて来る。
俺もつられるように、扉に寄りかかって、じっとそいつを見た。
その時――ああ、悪くないな、とそんな風に思った。
何が、とか、何故とか、その時は分からないまま、ただ漠然と、悪くないと。


そいつの背後、倉庫の辺りでガタンと小さな物音がして、そいつはビクリと肩を揺らした。
今、目を覚ましたかのように。
そいつが倉庫の方を振り返る。
俺も、夢から醒めて現実へと引き戻されたような、どことなく白けた気分でその場を後にした。


いったんその場から離れると、ついさっきまでの風景は夢だったんじゃないか――なんて、くだらない錯覚に陥る。
風が吹く。
誘われるように後ろを振り返る。
やはり幻のような気がして、一瞬後には、そんな訳ないだろうと自嘲の笑みが漏れた。








翌朝も、食事を済ませてすぐに学校へ向かった。
部活の朝練がある日でも、こんなに早い時間には出掛けたりしない。
「生徒会のお仕事は大変なのね」と言う母親の言葉に苦笑を返した。


何故またそこに向かったのかと聞かれれば、ただ、昨日と同じ感覚を味わいたかったのだと言う他ない。
しかし、それがどんな感覚なのかと問われると――うまく説明できない。
何故味わいたいのだと聞かれても、やはり同様だった。
体育館の脇、昨日と同じ扉の方へと回る。
ボールのバウンドする音が聞こえてきたとき、僅かに気分が高揚するのを自覚した。


昨日と同じようにゴール前に立つ女。
同じように緊張した空気を纏ってボールを抱える。
その姿を見て、俺は無意識に深く息を吸い込んでいた。
ボールを構える前――恐らく、そのフォームはそいつにとって「構える」姿勢なんだろうと言う程度の曖昧なもんだが――そいつは周囲の空気の変化に気付いたのか、ふと緊張感を解いた。
そしてこちらに視線を向けて、またビックリした顔をする。
まさか今日も来ているとは思わなかったんだろう。
そりゃあそうだよな。自分でも驚きだ。
思わず笑いを漏らすと一瞬だけ緊張したようだが、すぐにそいつも表情を緩めたように思えた。


ほんの僅かな時間互いに視線を交わしただけで、そいつはゴールの方へ向き直り、俺もつられるように一瞬ゴールを見上げて、またそいつを見る。
昨日と同じように、すうと息を吸い込み、そいつの世界から俺が消える。
どこまでも透明な湖の水面に、木の葉から零れた朝露が落ちる直前の静けさ。
何となく、そんなものを想像させた。


放たれたボールは、緩やかな弧を描く。
入るのか入らないのか最後まではっきりしなかったそれは、かろうじてネットを通過した。
ふう、と息を吐き出してそいつを見れば、小さくガッツポーズをしていて、俺は目を細める。
床に落ち、大きな音を響かせて弾むボール。
おかしなくらいに安堵した表情を浮かべていたそいつが、それを拾いに動き出すのと同時に、俺はその場を後にした。


次の日の朝も同じようにそこへ行く。
たぶん、今日もあいつはいるだろう。
その予測どおり昨日と同じようにボールを倉庫から取り出してゴールの前に立っていた。
その姿を見て、言いようもない感覚にとらわれる。
そいつは俺を見てももう驚いた顔をしなかった。


その次の日も見に行けば、そいつは2日連続でゴールを外した。
そりゃあ、そんな当てずっぽうじゃ入らねぇだろうよ。
落胆と言うよりは、何故入らないのか不思議そうな表情を浮かべているそいつに、心の中で突っ込んだ。


次の日も見当違いな方向へ飛ばすそいつ。
その外しっぷりが見事で、俺は思わず笑っちまいそうだった。
バウンドしたボールが、俺の方へと向かって来る。
俺はほんの少し気まぐれを起こし、それを拾い上げた。
そしてそれを手の上でクルリと回して、視線はゴールの方へ。
別に見本を見せようとか、そんなことを思ったわけじゃない。
ただ、自分も狙ってみたかっただけだったんだろう。
この朝の静寂の中で。


息を吸い込み、集中する。
――なるほど、気持ちのいいもんだな。
もちろん部活や色々な場面で神経を集中させることはままある。
が、そいつだけがいるこの広い体育館で、一つの小さな的を狙って神経を研ぎ澄ませる感覚は、普段のそれとは近いようで、少し違った。


軽く勢いをつけてボールを放つと、それはイメージ通りの場所へと飛んで行く。
ネットを通過したのを見届けた後、俺は不思議な感覚を抱いて。
それをどう説明したらいいのか分からないまま、ゴールを見上げていたそいつをそのままに、すぐにその場を去った。


次の日、そいつはまた変な方向にボールを飛ばしやがった。
本当にわざとやってんじゃねぇのかと思う位、いつも一定しない場所へ投げる。
まあ、別にそいつはゴールに入れる練習をしている訳じゃねぇんだから、それでいいんだろう。
俺は呆れつつ、自分の方にボールが転がって来るとそれをゴールに向かって投げるようになっちまった。
俺だって完璧じゃない。
たまにそれを外すことはある。
そうするとつい無意識に舌打ちが出ちまって、そいつに笑われた。
これもまた反射的にそいつを睨むけど、別にむかついた訳じゃない。
何て言うか――変な感覚を誤魔化すために思わず睨んだ、って言うのが正解のような気がする。


そんな日々が続いて、朝早く出掛ける俺に家の人間も違和感を感じなくなって来た頃、俺は初めて昼にそいつを学園内で見かけた。
同じ学校に通っているって言うのに、見事な位会わないもんだ。
クラスが離れているのか、そもそも学年も違うのか。
そう言えば、名前も知らねぇんだな。
移動教室なのか、テキストを抱えて友人と喋りながら廊下を歩くそいつを遠くから眺めながら、今更ながらそんなことに気が付いた。
いつの間にか、そいつは自分の近い場所に居るような気がしていたのかもしれない。
俺が自分で自分が可笑しくなって、少し、笑った。


一度、昼間のそいつを見たら、俺はもっとそいつの声が聞いてみたくなった。
体育館の中と外。
その微妙な距離を、縮めてみたくなった。
でも、朝、そいつの居る場所に行くと、その空気を壊してはいけないような気分になる。
ジレンマを感じつつ、俺は結局いつも話しかけたりせずにその場を後にするしかなかった。


朝の陽射しが強くなり、少し汗ばむ季節になって。
いつものようにそこへ向かうと、男が一人、その中へ入って行くのが見えた。
そいつは何度か話したことがある――とは言っても、事務的な内容だけだが。
バスケ部の部長で、部活の予算とか生徒会の仕事関係で多少言葉を交わしたことがある程度だ。
そろそろ地区大会が近いから、早くに来て練習をしようと思ったのかもしれない。
俺は何故だか落ち着かないような、靄の掛かったような、はっきりしない気分になる。
後で思えば、一人の人間にその空間を侵されるのが不快に感じたんだろう。
どちらかと言えば俺たちの方が部外者なのに、勝手なもんだ。


脇の扉に寄りかかり、照明の点いていない薄暗い館内に目を向ける。
そいつは最近、俺と目が合うとふわりと表情を緩ませる。
けれどそれは一瞬で、すぐに集中力を取り戻す。
静かに、張り詰めた空気。
いつも心地よく感じているそれが、今日は少し違うことに気付いていたのは俺の方だけだったらしい。
体育館の入口でこちらを――正確には、こいつだけを――窺っている男。


次の日の朝、今いちすっきりしない気分のまま同じように体育館へ向かうと、また、その男が中へ入って行くのが見えて。
俺は苛立ちを隠そうともせず、その場で舌打ちして踵を返した。
その後、その男があいつの前に現れたのか、それともただ、昨日と同じようにあいつの後ろから見ているだけなのかは知らない。
知ろうとも思わなかった。
早朝、その場所へ行くのは、その日が最後だった。


朝早くに学校へ行く俺を珍しがっていた母親が、今度は早くに出掛けない俺を珍しがる。
朝食を済ませ、お茶を飲み、読書をしたり音楽を聴いたりと、つい数ヶ月前の習慣に戻る。
それはそれで好きな時間だったが――何故だか、落ち着かない気分になった。
何かを忘れているような、体の一部を、どこかに置きっぱなしにしているような。


いつかの放課後、そいつが友人と一緒に帰って行く姿を偶然見つけた。
ついこの間までは全然会ったこともなかったのに、すぐにまたこうやってそいつを見つけられるもんなのか?
時折楽しそうに笑いながら、校門の方へと歩いて行くそいつ。
その笑顔を見て、俺は今更になって漸く気が付いた。
ああ――もうあの空気を二度と味わうことが出来ないのかと。








夏休みも間近になったある日。
俺はまた、気まぐれを起こして早くに家を出た。
本を読む気にもなれず、音楽を聴く気分でもなく。
裏庭にあるコートへ向かいかけたが、それなら学校のコートで打ってもいいか、と言う気になったからだ。


相変わらず静かな校庭を横切る。
無意識にボールの音が聞こえて来やしないか耳を澄ませていることに気付き、次の瞬間には馬鹿じゃねぇのと自分で自分に呆れる。
一番呆れたことは、そのボールの音が聞こえて来なくて――ほっとしたことだ。
俺の場所が、あいつに取って変わられることはなかったのだと、そんな勝手なことを思って、俺は安堵していた。


じゃあ、あいつは他の場所にいるんだろうか。
それとも、もう朝早くに学校に来たりはしていないんだろうか。
頭に浮かんだ疑問。
俺にはどうでもいいことだろうと、すぐに打ち消して、まっすぐ部室へ向かった。
そして、着替えを済ませてコートへと向かう。
今日は朝練は休みの日だ。
熱心な奴は休みでも練習に来たりするが、それでも登校してくるのは最低でも30分は後だろう。
俺はアップを済ませ、サーブの練習を始めた。
何だろう、さっき、あいつを思い出したせいだろうか、俺は手に取ったボールがこの世界で最後の一球であるような感覚を抱く。
このグリーンのコートが自分に唯一残された空間のようで、このボールが最後に自分に託された物のようで。
あの体育館での緊張感とは少し違う。
しかし、あの時の心地よさに、少し近い気もする。


反対側のコートに打ちつけられたボールが転がって行くのを少しの間見届けた後、俺はまた「この世で最後の一球」をカゴから掴む。
そしてまた「唯一残された空間」へと打ちつける。
それを何度か繰り返した後、ふと、人の気配を感じた。
どうせうちの部員の誰かだろう。
今日は朝練休みなのに熱心な奴だなと、後ろを振り返ると、そこに居たのは制服姿のあいつだった。
俺は驚くのと同時に、なるほど、最初に会ったときに俺を見た時のそいつの心境はこんな感じかと、冷静に考えていた。


そいつは、俺が急に振り返るとは思っていなかったのかもしれない。
びっくりして肩を揺らし、それから慌てて頭をぺこりと下げた。
その後はただ俺の方をじっと見ているだけ。
逃げるわけでもなければ、話しかけるわけでもない。
俺は何となく可笑しくなって、小さく笑った。


「――どうした」


俺が声を掛けて来るとも、思わなかったんだろう。
そいつはまたびっくりした表情を浮かべる。
それから少し戸惑ったような目をした。
話し掛けていいのかどうか、迷っているのかもしれない。
もしかしたら、あの体育館でも、こいつは俺と似たような感じだったのかもしれない。
そう思うと、また笑いが漏れた。
カゴからボールを拾い上げる。
そいつはぐるりとコートを見渡すと、少し眩しそうに目を細めた。


「何か探してんのか」


後から思えば、奇妙な問いだな、と自分でも可笑しかった。
しかしその時は自然と口をついて出てしまった。
そいつは、小さく首を振る。
また少しの間戸惑ったような表情をした後、恐る恐る、と言った感じで口を開いた。


「――ボールの音が、聞こえたから」
「そうか」


短い言葉を交わすと、僅かに、空気が融け合ったように感じた。
壊してはいけないと思った空間。
壊したいと思った空間。


「お前もやってみるか」
「無理だよ」
「バスケはやってたじゃねぇか」
「バスケットは……体育でやるから」
「変な基準だな」


俺が笑うと、そいつは別に変じゃない、とでも言いたげに口を小さく尖らせた。
ラケットの上でボールを弾ませる。
そいつはそのボールの様子をじっと見下ろした後、またコートを見渡した。


「テニスコートって、綺麗、だね」


そう言って、また目を細める。
その表情を見て――悪くない、とまた漠然と思った。


「まあ、そうだな」


俺は着ていたジャージの上着を脱ぐ。
そしてそれをそいつに向かって投げると、そいつも訳が分からず慌てながらもそれを受け取った。


「でも照り返しもキツイからな、そんな格好でいると日焼けして真っ黒になっちまうぜ」
「えっ」
「それ、被ってな」
「えっ……」
「ま、好きなだけ俺様でもコートでも見てるんだな」


冗談めかしてそう言い、コートに向き直る。
後ろで小さなそいつの笑い声が聞こえた。


たぶん、俺はまた明日もここに来ちまうんだろうな。
早々にそんな予感がして、俺も微笑った。