明日にしよう 前篇




昔から朝のピンと張り詰めた空気は好きだった。


まだ人の少ない電車も、自分の靴の音しかしない学校の廊下も、閉め切りで少し空気の籠った教室の窓を開ける瞬間も、どれも好きだけど、最近、一番好きなのは誰もいない体育館。
朝陽が窓から差し込んで。
自分が床につくボールの音だけが広い空間に響いて。
神経を集中させて、そのボールを遠く離れたゴールへと放つ。
このボールが世界で最後に残されたただ一つのボールで、あのゴールは世界に残されたただ一つのゴールで。
馬鹿馬鹿しくて、大げさかもしれないけど、それ位の気持ちで自分の全神経をぎゅっとそこに集める。


――とは言っても、私は別にバスケ部員じゃない。
スポーツ全般、可もなく不可もなくどころか、どちらかと言えば不可の方が多くって、そんなオーバーな表現をするほど集中してもゴールに入るのは一週間に一回程度。
最近は三、四回に一回位には上達したかもしれない。
数ヶ月前にたまたま体育館に足を踏み入れて、たまたま、ボールが入れられている場所は鍵が掛かっていないことを知って。
たまたまそのゴールを狙ったら――その時は当然のことながらゴールに掠りもしなかったのだけど――思いのほか気持ちが良くって。
気が付いたら毎朝の習慣になっていた。


部活の朝練が始まる前の、ごくごく短い時間だから他の生徒に見つかったことはない。
あ、一度だけ、バスケ部の顧問に見つかったことがある。
でも別に怒られることはなくて、寧ろ公認になってしまって堂々と出来るようになった。








その日も、私は教室に鞄を置いて体育館に向かった。
静かな渡り廊下を通る。
そこを抜ける風が昨日より少し暖かい。
体育館の扉の前に立ち、小鳥の鳴き声が聞こえる脇の木々の方に一瞬だけ視線を向けて、それからゆっくりと扉を開けた。


奥の倉庫から、いつものようにボールを一つ取り出す。
体育の時間、クラスメイトはよくボールを吟味しているけれど、私はどんなボールがいいのかなんて全然分からないから、いつも一番上に乗っている物を手に取る。
いい加減なものだ。
そのくせ、その場でポンポンと二三回床について、「うん」なんて頷いてしまうのだ。


倉庫の扉を閉め、ゴールの前まで進む。
キュッキュッと上履きの音が響く。
たまにボールをバウンドさせながら行くこともあったけれど、大概失敗してそのボールを体育館の端まで追い掛けることになった。
今日はボールを腕の中に抱えたまま、まっすぐに向かう。
そこに直立し、いつものように遠くのゴールを見る。
――遠くの、って言っても、所謂フリースローの時にボールを投げる位置なんだけど。


いつものように、目を閉じて深呼吸する。
この瞬間が一番好きだ。
たまに体育館がピシッと軋む音がしたり、鳥の声がしたり。
そしてその後に、奇妙な位の静寂がやって来て。
ゆっくりと目を開けて、本当に、馬鹿馬鹿しい位真剣に、ゴールを見つめて、ボールを投げる。


最近は、「入るかもしれない」ボールと「入らない」ボールの見分けは投げた瞬間に分かるようになった。
ボールが手を離れた瞬間、ああ、しまったって、心の中で呟く。
でも、私はその場から動かずにボールの行く末を見守る。
これはいつもの習慣だった。
何となくの。
ボールは美しい――とは言い難い弧を描いて、ゴールへと向かって行く。
けれど予想通り、それはガツンとバックボードの端に当たって、私とは全く違う方向へと転がって行った。


今日は行けると思ったんだけどなぁ。
そんなことを呟き、私は漸くコロコロと転がって行くボールを小走りで追いかけた。
ボールが転がって行く床ばかりを見て俯いて走って――と言うよりは歩いていたんだけど、そこに、普段見ない影があって私は思わず立ち止まった。
いつの間にか、脇の扉が開いていて、長い、一つの影。
ボールは壁に当たり、鈍い小さな音を立てた後また違う方向へと転がって行って、暫くして、止まった。


逆光になって、その姿がよく分からない。
バスケ部の人?バレー部の人かな。それとも先生?
私は目を凝らしながら――ちょっとおかしいな、なんて思った。
だって、その影は全く動こうとしなかったから。
部活でここを使う人ならすぐに中に入って来るはずだし、先生ならただ黙ってそこで見てることはないだろう。


いつから見てたんだろう。
何で見てるんだろう。
何で黙ってるんだろう。
色々な疑問は湧き上がったけど、恥ずかしさとか、怖さとか腹立ちとかも、不思議と感じなかった。
何でだろう?
その時はよく分からなかった。


だんだん、その顔がはっきりして来る。
そして数秒後に漸く認識して――私はびっくりして危うく呼吸をするのも忘れてしまうところだった。
それは、あの、跡部くんだったからだ。


私と跡部くんの接点は、皆無に等しい。
同じ学校の生徒って言うだけで、自分とはまったく別世界の人間のように思えた。
私は体育だけじゃなく全般的に可もなく不可もなく、と言った感じで突出した何かを持っているわけじゃない。
でも跡部くんは言わずもがなの凄い人で、周りにも凄い人ばかりが集まって。
羨ましいとかそういうのも超越してしまって、ただただ離れた所からぼーっと眺めるような存在。
そんな彼が、こんな所で静かに一人で立って、じっとしているなんて信じられなかった。


跡部くんは、少しけだるそうな感じでそこに立って。
確かに、私の方をじっと見ていて。
あの跡部くんなんかの前に立ったら、私だったらきっとすごく緊張して全然話なんか出来ないだろうな。
彼の傍でお喋りをしている女の子たちを眺めながら、よくそんなことを思ったものだったけど――何でだろう、不思議と緊張はしなかった。
私だったら、きっとどぎまぎしてすぐに目を逸らしちゃう。
そんな風に想像していたけど、私は今、じっと跡部くんを見つめ返していた。


たぶん、時間にしたらほんの数秒だったんだと思う。
でも、その時の私にはすごくすごく長い時間のような気がした。
すごくすごく長い時間、朝の静寂の中、跡部くんと向かい合って、じっと立っていたような気がした。
もしその時、何かの物音が奥からしなかったら、ずーっとそのままだったかもしれない。


奥の入口の方でガタンという音に、私は大げさな位にビクリと反応してそちらに視線を移す。
でも、結局誰かが入って来る気配もなくて――それは倉庫の中のボールが転がり落ちた音だったみたい――また視線を扉の方に戻したら、もうそこには跡部くんの姿はなかった。
え?もしかして、幻か何か?
そう思ってしまうのは仕方ないと思う。
だって、早朝の体育館に跡部くんがいるなんて、全然現実感がないんだから。






その日の昼間に、チラリと廊下で見た跡部くんは、やっぱりいつもの跡部くんだった。
華やかで、きらきらしてて、周りにも何だかきらきらした人たちがいる。
朝に会った跡部くんも朝陽に髪がきらきらしていたけど。
うん、これが跡部くんだよね。
遠くからそんなことを思ってちょっとほっとして、それと同時に、何となくちょっと寂しい気もする。


次の日の朝も私は体育館に向かった。
扉の脇に立つ跡部くんのことが一瞬頭の隅には浮かんだけど、まさか今日も会えるとは思ってなかった。
昨日はたまたま通りかかっただけだろう。
私はいつもと同じようにボールを一つ取り出し、ゴール前に立つ。
そして目を閉じようとしたとき、ふと、違和感を感じて。
まさか、と思って昨日と同じ扉の方を振り返ると――そこに、跡部くんが立っていた。
昨日と全く同じように、扉に寄りかかって、腕を組んで。ちょっとだるそうに。
私が驚きに目を大きく開くと、少しだけ、ふっと笑ったように見えた。


ドキリと心臓が跳ねる。
でも緊張したのは一瞬で、不思議とその後はすぅっと静かな気持ちになった。
何でだろう?
本当に自分でもよく分からない。
だって、あの跡部くんを前にして、こんなに落ち着いた気分になれるなんて。


跡部くんはその場から動かない。
ただ黙ってそこに立っているだけ。
私はまた目を閉じる。
跡部くんの前でバスケットの真似事なんて恥ずかしいって思っちゃうのが普通なんじゃないだろうか。
後でそんなことを考えたけど、その時の私はいつもと同じ気持ちで、ううん、何となくいつもよりも静かな気持ちでボールを放つことが出来た。
あ、入るかも。
今日はそんなボールだった。
無意識に唾を呑み込んで、その行方を見守る。
それは予想した通り、綺麗にストンと、ネットを通過した。
これまた無意識に小さくガッツポーズ。
別にゴールに入ったからって、今日一日何かいいことがあるとか期待してるわけじゃないけど――ほぅって息が抜ける。
世界が救われた、みたいな。
すごく、大げさな表現だけど。
一息ついたところで、ボンボンと音を立てて床を転がって行くボールを慌てて取りに行く。
そのとき、扉の方を見たら、もう跡部くんの姿はなかった。






次の日の朝は「まさか、いないよね?」と、ちょっとだけ思った。
そしてまた扉の所に立っている姿を見つけて――もう驚いたりはしなかった。
残念ながら、ボールは全く的外れな場所に飛ばしてしまった。


その次の日の朝は「もしかして、いるかもしれない」と思った。
そして実際にその姿を見て、驚くどころか、何故かちょっとほっとしてしまった。


そしてまた次の日、三日連続でゴールを外した私を見ていられなかったのかもしれない。
相変わらず黙ったままだったけれど、跡部くんはコロコロと自分の方に転がって来たボールを手に取った。
何となくつまらなそうに手元のそれを見た後、顔を上げて遠くのゴールに向かって――跡部くんの所からは本当に遠かった――それを放った。
ネットへ吸い込まれるように、綺麗な弧を描いて飛んで行くボール。
当然のようにそれはネットを通過して、ポンポンと小気味よい音をさせながら床を跳ねた。
やっぱり、跡部くんってスポーツ万能なんだ。
暫くぼんやりとそのボールの行方を目で追っている内に、また跡部くんはいなくなっていた。


その日から、ボールが跡部くんの方に転がって行くと、彼もそれをゴールへ入れるようになった。
百発百中――かと思いきや、実はそんなことはなくて。
やっぱりフォームはすごく綺麗で、そのボールは殆どネットを通過するのだけど、時々、ほんっとうに時々、外すことがあった。
そんな時、彼は小さく舌打ちする。
静かだからそれが聞こえて来て、私は思わず笑ってしまう。
ああ、あの跡部くんでも失敗して舌打ちすることなんてあるんだ、なんて。
可笑しいっていうより、安堵の笑い、だった。
何となく睨まれた気もしたけど、逆光でよく見えなかったせいもあってか、あんまり怖いと感じなかった。


言葉は全く交わさなくて、私がボールを投げた後、時々跡部くんもボールを投げ入れる。
時間にすると、たぶん五分にも満たないんじゃないだろうか。
私はその僅かな時間が、今まで以上に気に入っていた。
じっとそこに佇む跡部くんの影も、深呼吸してゴールを狙う緊張感も、彼の綺麗なフォームも。
私にとっては特別な時間で、特別な空間。


跡部くんは毎日現れる。
流石にもう幻だなんて思わない。
幻どころか、私にとってそこにいる跡部くんは――跡部くんで。
ああ、何て表現していいのか分からないけど。


挨拶位なら、してもいいのかな。
跡部くんが去って体育館を後にする時、そう思うこともあった。
でも、次の日に彼を前にすると、その静寂が心地よくて忘れてしまう。
跡部くんの周りって言えば、今までは何だか賑やかなイメージばかりだったから、変な感じだけど。
彼の姿がなくなるたびに、ああ、今日も話しかけそびれてしまったな、と思って。
明日は話しかけてみようって思う。
最近は、そんなことの繰り返しだった。






冬服から夏服に変わって、体育館の扉を開けた時にちょっとむっとするような季節になった頃。
いつもと同じく深呼吸してボールの狙いを定めた時、後ろからガタンと物音がした。
その日はまだ跡部くんの姿がなかったから、てっきり彼だと思って、物音を立てるなんて珍しいなと思いながら私はボールを下ろして振り返った。
けれど、そこに立っていたのは跡部くんじゃなくて、見たことのない男の子だった。
ジャージを着て慣れた感じでボールを床につく様子からして、バスケ部員なんだろうな、と思った。
私は身勝手にも、静寂が壊されたことに僅かな苛立ちを覚えてしまう。


「――ねえ、きみ、昨日も来てたよね」


彼は人懐こい笑みを浮かべて、そう話し掛けて来た。
私が黙ってコクリと頷くと、実は昨日も見ていたのだと話す。
昨日は私のゴールが上手く入って、跡部くんはボールを手にしないままいなくなった日だ。
きっとこの人は跡部くんの存在には気付かなかったのだろう。
「バスケ好きなの?」と聞いて来る彼に、私は曖昧に微笑った。
いつもの扉を見たけれど、跡部くんは結局現れなかった。


次の日にまた体育館に行くと、今度は昨日の彼が先に来ていた。
彼もまた綺麗なフォームで難なくゴールを決める。
そして、私に色々教えてくれようとした。
ああ――そうじゃないの。
彼がまったくの好意で私に話し掛けて来てくれるのは分かった。
でも、彼の笑顔を向けられるたびに、何だか居たたまれなくて。
そうじゃないの。
そう、何度も心の中で呟いてしまう。


その次の日も、やっぱり彼はいて。
いい人だなぁって思ったけど、翌日はもう体育館に向かうことはしなかった。


教室の窓を開けて、外の空気を吸い込む。
その時、不意に、跡部くんがただただ黙ってあの場にいた意味が分かったような気がした。
跡部くんは、私のあの空間を守ってくれていたんだ。
私の好きな空気を侵すことなく、そこにいてくれたんだ。
そう思ったら、胸がぎゅっと苦しくなった。