valentine (2010)




一人、移動教室で廊下を急いでいると、後ろから声を掛けられた。
その特徴ある関西弁は振り返らなくても誰だか分かる。
同じクラスの忍足くんだ。


さん、次の時間って移動教室やったっけ?」
「うん、そうだよ。この前の授業で次回は第二化学室だから間違えないようにって言ってたでしょ?」
「そやった?」


とぼけた声に呆れつつ後ろを向くと、忍足くんの隣りには跡部くんが立っていた。
黙ったままこちらをじっと見ているその深く青い瞳に、ちょっとだけ身を竦ませながら軽く頭を下げる。
すると跡部くんはやっぱりまた黙ったまま、すいと目を外へと向けた。


去年、跡部くんとは同じクラスだったから、一応面識はある、はず。
私は何もかもが平均的で凡そ目立つ存在とは言い難いから、彼の方は私を憶えていなくてもおかしくはないけれど。
でも、あの200人もいるテニス部員の顔と名前と、あと癖やプレイスタイルとかも全部憶えているって言う話だから、記憶の片隅には残っているんじゃないだろうか。
彼は校内では知らない人がいないって位に有名で、男女問わず人気がある。
私も彼のことはすごいなぁって、憧れるけど――でもちょっと、怖いとも思う。
たまに、今のようにじっと見つめて来るその視線に、私はどうしたらいいのか分からなくなるから。
その点、忍足くんには、ちょっとほっとしたりするのだ。
こうやって通りすがりに掛けてくれる声も表情も柔らかいし、優しいから。
別に「好き」と言うのとは違うけど、周りの女の子が騒ぐのは、よく分かる気がする。


「あ、そや、さんは誰かにチョコレート上げたりするん?」
「へ?随分唐突な質問だね」
「今跡部とそんな話しとったんや」
「ふうん。そんなこと話したりするんだ」


ちらと跡部くんの方を見ると、忍足くんの方を気付くか気付かないか位に一瞬睨んでいたから、話していたって言うのは嘘かもしれない。
私はちょっとだけ笑って、首を横に振った。


「特にその予定はないけど」
「え?好きな奴とかおらんの?」
「うーん、まあ別に。あ、お父さんには上げると思う」
「何や寂しいなぁ。ほなら、俺にくれへん?」
「ええっ?忍足くんは私に貰わなくても食べきれない位貰いそうじゃないの」
「まあ、それはそれ、これはこれや。な、跡部もさんのチョコレート、欲しいやろ?」


そう言って、少し後ろに立っていた跡部くんを振り返る忍足くん。
つられて私も彼の方を見てしまったけど、跡部くんがそんな冗談に付き合うとは思えない。
ところが、びっくりなことに、私をいつものような目で見たと思ったら、腕組みして「貰わないことはない」とポツリと言ったのだ。
絶対、そんなもんいらねーよ位言って、笑い飛ばすかと思った。
思わず目を見開いてしまう私の前で、忍足くんはニヤリといやらしい笑みを浮かべる。


「自分にしては素直やん」
「訳分かんねぇこと言ってんじゃねーよ」


跡部くんでもこんな話題に乗っかったりするんだ。
そのことにばかり驚いてしまって、その後の二人の会話はあまり聞いてなかった。
もちろんその言葉を間に受けるつもりはないけれど、何か、チョコレートを探すのも楽しいかもなぁなんて思い始めて、私はその帰りにお店に買いに行ってしまった。


でも、いざ買おうとすると、一体どんなものを選んでいいのか物凄く悩んだ。
だって、何だか二人ともすごく舌が肥えてそうだし。
特に跡部くんなんて、皆からすごく美味しくて高級なチョコレートを沢山貰いそうだし、貰わなくても普段から食べてそうだ。
……別に、皆に張り合おうなんて考えてないけど。
こんなに長い時間跡部くんのことを考えるのは、初めてだった。
考え過ぎてよく分からなくなって、結局最後は近所のよく行く洋菓子店で、自分の好きなチョコレートを二つ買ってしまった。








バレンタイン当日は、校内全体が浮足だっているような気がした。
いや、自分が浮足だってるだけで、そんな気がしただけかもしれない。
「一応ね、一応」と自分に言い聞かせて鞄に入れたチョコレート。
昼休みが終わろうとしている今も、まだ鞄の中にある。
何となくタイミングを逃した、と言うか。
忍足くんは朝から休み時間のたびに女の子に囲まれてて、その子たちに紛れて渡しちゃえばよかったんだけど――勢いに負けてしまった。
周りの子たちの話によると、跡部くんは休み時間は生徒会室から出て来ないらしい。
三年生の跡部くんは、もうとっくに生徒会長は引退しているはず。
女の子たちの襲撃から避難しているんだろうって、誰かが言ってた。
そんな状態じゃ、私も渡せる訳がない。


放課後になると、まあいっか、と完全に諦めていた。
席を立つと、隣りの席の男の子が「は誰かにチョコレートやったの?」とからかい口調で聞いて来る。
この子に上げちゃおっかな、と思って鞄から包みを一つ取りだし掛けた時、忍足くんが女の子たちを振り払って駆け寄って来た。


さん!」
「あ、忍足くん。よかったー、今日はもう無理だなぁって思ってたとこだよ、はい、これ」
「ああ、ありがとさん。……やなくて!さん、跡部には会うたか?」


忍足くんは私からチョコレートを受け取りながら、何だか妙に真剣な表情。
気が付いたら、いつの間にか隣りの席の子は帰ってしまっていた。


「ううん、会ってないよ」
「あかん!あかんわぁ」
「そんなこと言ったって……。ずっと生徒会室に籠ってるって話だったし」


たぶん籠ってなくても、跡部くんのクラスまで渡しに行く勇気はなかったと思うけど。
内心そんなことを思いながら肩を竦めて見せると、忍足くんはおでこに手をやって、「あちゃー」って顔をした。


「まあ、ええわ。とりあえず、今から生徒会室行き」
「えっ!やだよ、怖いよ」
「今日は跡部以外には誰もおらんはずやから、大丈夫や」
「いや、そうじゃなくて――」


跡部くんに会いに行くこと自体が怖いんだって。
そう言いかけたんだけど、忍足くんに「ほなら、前まで一緒についてったる」と腕を引っ張られた。


「もう帰っちゃってるかもしれないよ」
さん、まだチョコレート渡してへんのやろ?なら、たぶんまだおるよ」
「何、それ」


それじゃあ、まるで跡部くんが私のチョコレートを待ってるみたいだ。
そんなわけないじゃない。いっつも、あんな怖い目でじっと見て来るのに。


「じゃ、ノックまでしたるから」
「ええっ!忍足くん、一緒に入ってくれないの!?」
「俺、馬に蹴られたくないし」
「ワケ分かんない!」


生徒会室の前まで来て、そのドアをノックしようとする忍足くん。
私は慌ててその腕を掴んで止めようとした。
その時、忍足くんの、ちょっと困ったような優しい目。


さん、別に跡部は怖ないよ」
「で、でも……」
「遠くから見られる位置におるから悪いんよ。もっと近くに行ってみるとええ」
「や、でも」


忍足くんの言葉に私が戸惑っているうちに、彼はスルリと私から腕を抜いて、そのドアをトントンと叩いてしまった。
思わず全身に力を入れて、ドアの向こうの様子を窺ってしまう私。
ゴクリと唾を飲み込むのと同時位に、中から跡部くんの短い返事が聞こえた。
それにどう答えようか、と考える間もなく、忍足くんはそのドアをガチャッと開けて、私をその中に放り込む。
そして後ろを振り返る隙もなく、そのドアはバタンと閉じられた。
ええっ!


咄嗟にそのドアノブに手を掛けて開けようとしたけれど、背後から椅子の軋む音が聞こえて来て、動きを止める。
恐る恐る振り返ると、奥の大きな椅子に座って、跡部くんが頬杖を突いてこちらを見ていた。
後ろの大きな窓ガラスから陽が差し込んでいて、その表情はよく見えない。
きょろきょろと周囲を窺ったけど、忍足くんの言っていたように、この部屋には跡部くんしかいないようだった。


「あの、えーと……こんにちは」


自分でも間抜けだなぁと思ったけど、何て言っていいのか分からない。
今まで跡部くんと二人きりになったことなんてある訳もない。
いや、て言うか、男の子と二人きりになったこと自体、たぶん、ないと思う。
だから、緊張しない方がおかしいよ。
そんな、どうでもいいようなことをグルグルと頭の中で考えながら、椅子から立ち上がる跡部くんの動きをじっと見つめる。
こちらに近づいて来る跡部くん。
私はじっとしていられなくて、ガサガサと大げさな位に音を立てて鞄の中を漁り、チョコレートを取り出した。


でも、確か、女の子の襲撃から避難するためにここに居るんじゃなかったっけ?
今更そのことを思い出して、ちょっと怖気づく。
そして包みを持った手を引っ込めようとした時、跡部くんに阻まれた。


「遅せぇよ」
「えっ」
「……って、まあ、人のこと言えねぇか」


私の手首を掴んでいる跡部くんの手。
やっぱり、大きい。
そして、ちょっとひんやりとしていた。


「それ、俺の分なんだろ。……貰ってやる」
「え、あ、うん……家の近所で買ったチョコで、忍足くんとお揃いだけど」


今までにない至近距離の跡部くんに物凄く緊張して、どうでもいいことをペラペラと喋ってしまう。
私の手から包みを取った後、跡部くんは小さく舌打ちしたような気がした。


「だってほら、跡部くんっていっつも美味しいもの食べてそうだし、何を上げたらいいか分からなくって」
「……」
「って、この前の話を真に受けて色々チョコを探しちゃうなんて、恥ずかしいよね!」


私、本当に恥ずかしい時って、こんなにお喋りになっちゃうんだ。
今頃そんな自分に気づく。
もう私の手には何もないのに、跡部くんは離してくれない。
近くで見る彼の目は、いつもとは違う怖さがあって。
顔はどんどん熱くなって、ますます変なことを口走ってしまいそうだ。
俯いて、彼の視線を避ける。


「――この前の話を真に受けて、今日一日ずっと待っていた俺の方が、よっぽど恥ずかしいんじゃねぇの」


頭上から、言い捨てるようなやや乱暴な口調の台詞。
私はその言葉の意味を理解するのに、10秒以上はかかった。
いや、理解した後も、余計頭が混乱するだけだったけど。


「お前、俺のことが怖いのか」
「――えっ」
「いつも、俺を見ると身を竦ませてるだろ」
「だって、それは……目が」


目が冷たく見えて、怖いから。
そう言おうとして顔を上げたら、また跡部くんと目が合って。
いつもと違う視線。
――ううん、そうじゃない。同じかもしれないけど、その奥に、いつもは感じ取れないものが見えてしまう。
それに戸惑って、また俯く。
まだ掴まれたままの手。


「だって――どうしたらいいか、よく分からなくなる、から」


こんな小さな声で言って、跡部くん、聞き取れるのかな。
自分でそんなことを思ってたら、ふ、と小さく笑う声が聞こえた。


「今も怖いか」


続いた言葉は、すぐ耳元からで。
びくり、と反射的に揺らした肩に、跡部くんの手が触れる。
やっぱり、どうしたらいいか分からなくって、私は小さく頷いた。


「――お前の怖がることはしない」


うそだ。
ぎゅっと目を瞑る私の頬に、さっきよりも少し温かくなった跡部くんの指の感触。
やっぱり駄目だよ、怖いよ。
だって、何も考えられなくなって自分が自分じゃなくなっちゃいそうだよ。


「が、あいつと同じって言うのは気に食わねぇな」


ふわりっていい匂いがして、頬に指よりも柔らかくて温かい感触がして。
それがキスだったって気付いたのは、実はすごく後になってから。


跡部くんが私の話しをよくしていたって、忍足くんから聞いたのは、ちょっと後になってから。