haggard 2




職員室へ行き教師にプリントを渡した後、は屋上へ向かった。
もちろん、涙はすぐに拭ったけれど、今教室に戻って普通でいられる自信がなかった。
菊丸と―――不二の近くで、普通にしていられる自信が。


フェンスの端の方に寄りかかり、校庭を見下ろす。
ふわりと柔らかい風に頬を撫でられて、ふうと深く息を吐いた。


一体どうしちゃったんだろう。


自分で自分が分からない。
どんなに嫌なことがあっても立ち直りの早さには自信があったし、どんなにつらいことがあっても、それを表には出さないようにと、いつも気を付けていた。
昨日今日と不意打ちなことだらけでペースが乱れてる、と言うことなんだろうか。


「びっくりしたよな……菊丸くん」


突然目の前で泣かれて、そのまま逃げられて。
気にしていないといいな―――と勝手なことを願う。


授業開始の予鈴が鳴る。
まばらにいた生徒たちが、皆階段を降りて行く。
も戻らなくては、と頭では思うのだけど、身体が動かない。
この屋上で数分間、風に当たりながら校庭や周りに広がる緑を眺めていると大概のことは忘れられたのに、今日はもうちょっと時間が必要らしい。


授業さぼるの、もしかしたら初めてかも。


ふとそんなことを思ったが、罪悪感よりも何故か奇妙な可笑しさが込み上げてきた。
そして、フェンスにかけた手に顔を乗せて、ふふ……と笑ってしまう。


背後で扉の閉まる音。
きっと最後の生徒が出て行ったのだろう。
特に振り返りもせずそんなことを何となく思いながら、は目を瞑る。


「―――がさぼりなんて、珍しいね」


だから、すぐ後ろで声が聞こえた時、ものすごく驚いて、ビクリと大きく肩が震えてしまった。
反射的に目を開けるけれど、振り返ることが出来ない。
その声が―――不二周助のものだったから。


「あの先生、のことお気に入りだからすごく心配するよ?」


後ろの人物は気にせずに続け、クスクスと笑う。
何故ここに不二がいるのだろうか。
昨日の放課後の出来事を思い出し、フェンスを握るの手に力が入る。
けれど、足音が近づいてきたと思ったら、彼女の腕を掴んであっさりとフェンスから引き剥がしてしまった。


「そんな所に立ってると、下から誰かに見つかるよ?」


戸惑うにサラリとそれだけ言って、ぐいぐいと給水塔の影の方へと引っ張っていく。
浮かべた笑顔と対照的にその力は容赦がなくて、は恐怖を感じてしまう。


「ふ、不二くん……授業は……?」
「もうさぼるしかないだろ?僕はアイツが嫌いだから、たまにはいいんじゃない?」
「先生のこと……嫌いなの?どっちかと言うと仲良さそうに見えたけど……」
「冗談」


不二が鼻で笑う。
その様子が昨日のことをまた思い出させる。
彼はこんな人だったのだろうか?
いつも温和な感じで、誰にでも優しくて、先生にも―――


「僕があんな奴のことを好きなわけないじゃないか。のことをあからさまな色目で見てるような男なんか」
「な……っ、変なこと言わないで!」
、どちらかというと大人っぽいしね。まあ、世の中には変態もいるし」


いつもどおりの柔らかい口調で、それとは不似合いな予想もしなかった言葉が続けられる。
普段と変わらない笑顔のはずなのに、向けられた視線に、は凍り付いたように動けなくなる。
怖い。
逃げ出したい。
そう思っているはずなのに、不二と絡んだ視線を自分から外すことが出来ない。


不二は彼女の腕を解放することなく、そのまま壁に押し付ける。
陽の当たっていないその場所は、ヒヤリとして冷たい。
制服越しにじわりと伝わってくる冷たさ。
掴まれた両腕から伝わってくる不二の熱。


「―――、さっき泣いてた?」


まるで尋問するかのような口調。
その低い声に、はすぐに言葉が出てこない。


「英二の前で、泣いたの?」


責めるような目で、の目を覗き込む。
一体誰のせいだと思っているんだろう。
だんだんとに怒りが湧き上がってくる。


「不二くんには関係ないでしょ」


顔を背けて声を絞り出すようにそう言うと、片方の腕が解放されて、ふと軽くなった。
けれど次の瞬間、強い力で肩を掴まれる。
痛い―――というほどではなかったけれど、その強さに驚いては少し顔を歪めた。


って、本当に―――ムカつくね」


一瞬だけ口の端を上げたけれど、もう感情を隠すことはせずに鋭い目で彼女を見下ろす。
明確な怒り、苛立ち。


「昨日あの場では泣かなかったくせに、英二の前では泣くの?」
「そんなんじゃ―――」
「僕の前じゃ何てことないって顔して、英二の前だと泣くんだ?」


不二の言っていることがよく分からなくて、は眉根を寄せる。


「……不二くんは、私に泣いて欲しかったの?だからあんなこと言ったの?」
「悪いけど、不愉快なのは本当だよ」


ズキリ、と音がしそうなくらいに胸のあたりが痛む。
それでも、いつもなら何とかその痛みを堪えて平然としていることはできただろう。
けれどただでさえ不安定になっていたは、うまく抑えることができなくて、その胸の痛みに視線を揺らす。
それを見逃さなかった不二は、僅かに口元を緩ませた。


「事なかれ主義。いつも自分を殺していて、自分が我慢していれば―――なんて思ってる偽善者」
「そんなこと……」


ないとは言い切れない。
言い淀むに構わず不二は続ける。


「そして、楽しい時でもつらい時でもいつも同じ顔をしてる。だから見てて―――苛々するんだ」


息のかかるくらいの距離に、不二の顔がある。
けれどそんなことを意識するより先に、自分にまっすぐ向けられた彼の感情に戸惑って、息を飲むだけ。


「だから、いつもと違う顔をさせたいと思った。泣かせたい、怒らせたい―――憎まれたっていい。そう思ったのに」


声のトーンが抑えられて、直接彼女の耳に響く。


「……何で、それを英二に見せるんだよ……っ!」


腕を掴む不二の力が強くなって、今度は痛みに目を細めた。
怖い顔、冷たい目。でも、まるで今にも泣きそうに揺れる瞳。
はこの男が分からない。


「何で―――不二くんは、私にいつもと違う顔なんて、させたいの?」
「……言っただろ、苛々するって」
「何で苛々するの。それなら私のことなんて見なきゃいいのに」
「そうだね……見なければいい」


見なければいい。
一体何度そう自分に言い聞かせたか。
それが出来ればどんなにいいか。


「そんなこと、に言われなくても分かってるよ」


自嘲的に笑った不二の顔が、何かを堪えるかのように顰められる。


「じゃあ―――っ」
「しょうがないだろ!それが……出来ないんだから!」


むちゃくちゃだ。
不二という男はこんなふうに感情的に叫ぶような人だったんだろうか。
むちゃくちゃだ―――不二自身も思う。
心の中で自分を嘲笑う。
けれどもう抑えが利かなかった。


「気になって、気になって―――どうしようもなく苛々するんだ。……僕の方が助けて欲しいよ」


掴まれていた腕が、肩が、今度こそ本当に解放される。
そして力なく不二が項垂れて、の肩に額をコツンと当てる。
その様子が、今までの彼の苦しみを物語っているようで、不意に、温かいような苦いような感情がの中に湧き上がって来る。


いつも穏やかな笑みを浮かべていて。
―――でも、何か薄い、でも決して破れないような壁を感じていて、どこか遠い存在だった。


自由になった手で、は不二の髪をそっと撫でる。
微かなシャンプーの匂い。
肩から上げられた不二の顔は、涙こそ流していなかったけれど、まるで泣いた後のような顔。
は殆ど無意識に、その口の端に口付けた。
不二が驚いて目を見開いたけれど、それ以上に自身も自分の行動にびっくりする。


「ご、ごめん……っ」


慌ててそこから逃げ出そうと思ったけれど、もとからそのスペースに逃げ出る余裕など残されていない。
不二が両手を壁につけば、一歩も動けない。


を見つめる不二の顔は、口の端は意地悪く上がっているのに目はまだ泣きそうに潤んでいて―――は、卑怯だ、と思う。
俯きたかったけれど、不二の手に阻まれる。
元から呼吸の音が聞こえそうなくらいの距離にあった不二の顔。
もどかしいくらいのスピードで近づいて来て、唇と唇が掠める程度に触れる。
その慣れない感触にゾクリと背筋を震わせてが目を瞑ると、まるでそれを待っていたかのように深い口付け。


「いやだ。赦さない」


自分の息も何もかも吸われて、低い声で囁かれたその台詞はうまくの耳に届かなかった。