朝陽の見えるころ




もしかしたら、ずと前から走っていたんだろうか。


初めて私が見たのは、一週間前。
朝起きてすぐにカーテンを開けて窓の外を眺める習慣のある私は、その日もいつものようにカーテンを開けて伸びをした。
今日も天気がよさそうだ、と空を見上げた時、ふと目の端の方に映った人影。
犬の散歩をするいつものおじさんかな、と思って下を見ると、それはフードを被ってジョギングをする男の子だった。


一日目は、その目深に被ったフードのせいもあって、誰だか分からなかった。
まさか自分の知っている人がこの辺りを走っているとも思わなかったし、別に気にもしなかった。
二日目、やっぱり同じ時間にその人は家の前を通り過ぎた。
前の日と同じようにフードを被って。
一瞬、チラリと上げられた顔が、誰かに似ているように思った。
でもやっぱり、まさか同じ学校の子がこの辺りを走っているなんて思いもしなくて、誰だろう、何て首を傾げるだけだった。
学校はここからはそこそこ遠い場所にあって、私は電車で通っている。
クラスメイトに近所に住んでいる子がいるなんて、聞いたこともなかった。
三日目、あれ?やっぱり見たことがある?って、すごく気になり始めた。
でも顔が見えるのは一瞬だし、二階から下の道路を見下ろしているから、輪郭もよく分からない。


誰だろう?誰だっけ?
すごく身近な人のような気もする。でも、やっぱり思いつかなかった。
彼と私の距離なんて、そんな感じだから。
それが、ようやっと「彼」だと分かったのは、その三日目に学校へ行ってからだった。
教室に入って、友達の席へ行こうと思った時、目が合ったんだ。日吉くんと。
それはすぐに逸らされたけど、その時気が付いた。
あれは、日吉くんだって。


次の日の朝、彼の走っている姿を見て、そうだって確信した。
何で気付かなかったんだろう。
それは別に親しいわけではないけど、毎日顔を合わせているクラスメイトだって言うのに。


彼は、家の前を通る時、ほんの一瞬だけ顔を上げる。
私がじっと見ていても目が合わない位に、本当に僅かな時間。きっと一秒にも満たない。
うちに気付いているのかな、とちょっとだけ思ったけど、単に何となく顔を上げているだけのような気がする。


日吉くんは、どちらかと言うと、女となんか喋っていられるかって言うタイプで、それでも積極的な女の子は気にせず話し掛けているけど、私はあまりそう言うのが得意じゃなくて。
だから、軽い感じで話し掛けることが出来なかった。
「日吉くん、最近朝走ってるの?」とか「うちの前を走ってるの見かけたよ」って、絶好の話し掛けるチャンスなのに。
ただ、毎日――それは休日もだった――彼の走る姿を見るのが習慣になって、それで一日が始まった。
二週間を過ぎた頃には、何だかすごく楽しみになってしまっていて、寝ている間に通り過ぎちゃったらどうしよう、なんて思ったら早起きになった。


彼はぴったりと同じ時間に現れる。
きっと、彼はいつも同じ時間に起きて、同じペースで走って、同じ時間に通るんだろう。
晴れて早朝から日差しの強い暑い日も。
冷たい雨の降る日も。
風が強く吹く日も。
私は、その黙々と走って通り過ぎて行く姿を見て、毎日、少しずつ力を貰っているような気がする。
昼に見る日吉くんは、ちょっと私には遠い人で。
――だって、あのテニス部の新部長って言うこともあって、すごく注目されている人だし。
でも、朝に見る日吉くんは、少しだけ近い人に思えた。
何でだろう?朝だって、私が一方的に見ているだけなのに。
しかも、ほんの一分にも満たない時間。


夏の終わりから初秋まで、そんな日々が続いて。
それから、日吉くんはテニスの大きな合宿に行ってしまった。
その合宿は、もともとは高校生メインのものらしいのだけど、今回、中学生の選抜メンバーも参加できることになったらしく、氷帝のレギュラーメンバーは皆それに選ばれたと言う話を友達から聞いた。
次の日から合宿に行ってしまうって言う日の放課後、偶然日吉くんと教室を出るタイミングが一緒になって。
私は慌てて、何とか「行ってらっしゃい」とだけ言った。
本当は「おめでとう」とか「頑張ってね」とか、言いたかったはずなんだけど、口から何とか出て来たのはその一言だけ。
日吉くんはちょっとだけ足を止めて、私を見て、そして素っ気なく「ああ」とだけ返事をしてくれた。
その後、何か言葉を続けたそうに口を開き掛けたのは、自分の勝手な期待を込めた思い込みのせいだろう。
彼は「じゃあな」と部活へ走って行ってしまった。
それでも、私はその短い言葉のやり取りが――やり取りにもなっていなかったかもしれないけど――すごく、嬉しかった。
次の日から、朝も、もちろん学校でも彼を見なくなってしまって、ちょっとだけ寂しく感じたけど、合宿所でも走ったりしているのかなぁとか考えると、やっぱり、私も一日頑張ろうって気分になった。
でも、ある時から、すごく、寂しくて寂しくてたまらなくなったのだ。


クラスの女の子が、休み時間に「日吉くん、どうしてるかな」って話しているのが聞こえた。
日吉くんだけじゃなく、一つ上の跡部さんとか、忍足さんとか、テニス部の主要メンバーは皆合宿に行っているから、「何だかつまんないよねぇ」と話していた。
確かに、あの跡部さんがいないだけで、学校中がやけに大人しくて物足りないものになってしまっている気がする。
私も、ふと、日吉くんのことを考えてしまう。
選抜の合宿なんて、どんなことをするのか私には全く想像がつかない。
すごくきついのかな、でも、日吉くんがきつそうな顔をしているところなんて、これもまた想像がつかない。
想像がつかないことだらけだ。
私が頭の中に思い描くことが出来るのは、彼の走る姿だけだった。
その姿も、実際にはもう何日も見ていない。
今更ながらそのことに気が付くと――急に、とてつもなく寂しくなった。


次の日の朝、カーテンを開けて窓の外を見た時。
私はもう彼の走る姿を想像することが出来なくて、私も頑張ろうって思えなくて、ため息が出て。
その日から、何だか窓の外を見るのが怖くなって、朝に目が覚めても、家を出るギリギリまでカーテンを開けなくなってしまった。


それから何日経ったんだろう?
すごく長かったような気もするけど、過ぎてしまうとあっと言う間だった気もする。
朝、学校に行くと人だかりが出来ていて、その中心には日吉くんがいた。
帰って来たんだ!
その姿を見た途端、彼の周りにいた女の子に負けない位、嬉しそうな顔をしてしまっていたと思う。
それが恥ずかしくて、ふと顔を上げた日吉くんに見られないように、慌てて顔を伏せて自分の机に向かった。
でも、すごくニヤニヤと変な顔をしていたはずだ。
友達に「何かいいことでもあったの?」と怪訝な顔をされた位には。


チラと彼の方を見ると、皆に囲まれてちょっと面倒そうな顔をしている日吉くん。
変わらないなぁって、私はこっそりと笑った。


そして、その帰って来た日。
午後の移動教室で、友達に出遅れて慌てて教室を出ようとした時、「おい」って後ろから声を掛けられた。
振り返ると、教科書を手にした日吉くんが立っていて。
私はびっくりし過ぎて、一瞬、動きも表情も固まってしまった。


「ひ、日吉くん」
「別にそんなに慌てなくても、まだ時間あるだろ」
「う……うん……」


日吉くんは、そう言って、すたすた先を歩いて行く。
呼び止めて――何か用があったわけじゃないんだろうか?
内心首を傾げながらも、その後を追いかける。


「あの、えーっと……おかえり、なさい」


どんどん歩いて行く日吉くんに、ちょっとだけビクビクしながら言う。
と、日吉くんの表情がほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
「――ああ」って返事をした後は、歩くペースも、ほんのちょっと遅くなった気がする。


「合宿、どうだった?」
「……馬鹿みたいな合宿だった」
「え?」


吐き捨てるように言う彼の台詞に、思わずぎょっとしてしまったけど、その後にすぐ「でも有意義だった」と続けられて、そう口にする表情も、どことなく満ち足りて見えたから、それが本心なんだろうな、と思う。
「そう」って、私もほぅと息をつく。


「――お前」
「え?」
「起きる時間とか、変わったのか?」
「……え?」


一瞬、その言葉の意味が分からなくて、瞬きをする。
だって、急にそんな話を振られるとは思わないから。
日吉くんが、小さく舌打ちをしたような気がする。
でもその顔は、ちょっとだけ赤い気もする。


「今日……見えなかったから」
「え?――あっ!」


その彼の言葉に、漸く私は気が付いて。妙な声を出してしまった。
えっ!?やっぱり日吉くん、私の家に気付いていたの?


「今日、走ってたの?」
「……やっぱりお前も知ってたんだな」


そう言った彼の顔が、また少し赤みを増す。
言い方は吐き捨てるようなのに、何だか迫力がないって言うか――。


「やっぱり、日吉くん――だったんだね」
「俺じゃなかったら――お前、誰を見てたんだよ」


ったく、って、また小さな舌打ち。
何で俺が――って、呟いたような気がしたけど気のせい?
前を向いて歩き続ける。
教科書を持つ手は思ったより大きくて、こうやって並んで歩くと、背も高かったんだ、なんて気付く。


「……調子が狂う」
「え?」
「お前を朝見ないと、調子が狂うって言ってるんだ」


低い声で、ちょっと苛々とした感じで発された日吉くんの台詞。
それは、私の心の中の台詞を代弁したものなんじゃないか、なんて思わずドキリとした。


「で、でも、合宿の時は……見なかったでしょ」


照れ隠しと言うか、動揺を隠すためにそんなことを言ったら「それはまた別の話だろ!」ってまた日吉くんは理不尽に怒る。
でも何でだろう、あんまり怖くないの。
顔がちょっと赤いから?


「あの……ごめん。だって、もう朝は見られないのかなって思って」


何で私、謝ってるんだろう。
何でこんな、恥ずかしいこと本人に言っちゃってるんだろう。
日吉くんがチラと私に目を向けて、フンて顔をする。
その顔を見て、場違いにも私はちょっと可愛い、なんて思ってしまった。
微笑うと、ジロと一瞬睨まれる。


「じゃあ――また明日から窓の外を見るよ」
「別に、嫌なら見なくていい」
「嫌じゃないよ。私も、調子狂うから」
「……フん」


歩調を速めて、離れて行く日吉くん。
「チャイム鳴るぞ」って言いながら。
さっきは慌てなくても大丈夫って言ったくせに。


昼間の彼が、ちょっとだけ、近くなった気がする。
――じゃあ、明日の朝に見る彼は、それよりもっと近いんだろうか?


「待ってよ、日吉くん!歩くの早いよ!」


私は彼の背中を追い掛けた。