present




「―――あれ」


一瞬、自分の目が信じられなくて、周りの人たちが黙々と歩く中、素っ頓狂な声を出してしまった。
思わず足を止めた私を、少し迷惑そうな顔をしながら避けて行く人たち。
その、目を疑う原因となった人物もどんどん前へ行ってしまうのを見て、私は慌てて駆け出す。
さっき私を追い越して行った人たちを、今度は私が追い抜いて行く。
その人まで10メートル。3メートル。
すぐ後ろまで来て、その人の小学生の頃から変わらない髪型にちょっと自信をつけて、思いきって名前を呼んだ。


「若―――くん」


前を歩く彼が僅かにピクリと反応し、ゆっくりと、後ろを振り返る。
その顔に見慣れないものが掛かっていたけれど、やっぱり小学校までご近所さんだった若くんだ。


?」


訝しげに細められていた目が、今度は驚きに大きく開かれる。
その懐かしい声と、自分の名前をすぐに思い出してくれたことに嬉しくなって、私は自然と笑みが零れた。


「びっくりした。こんなトコで若くんと会うとは思わなかったよ」
「それは俺もだ。……お前も模試受けてたのか?」
「うん、そう。締切ギリギリで申し込んじゃったから家からすごく遠い会場になっちゃって。若くんも模試受けてたんだ?」
「ああ」
「ふーん。クリスマスイブなのにー」
「別に俺はクリスチャンじゃない」


ふん、て顔をして憎らしい台詞。
だから私も憎たらしく顔を顰める。


「そういうことを言う人って、だいたい一人身で寂しかったりするよね」
「……お前、久し振りに会っていきなり失礼な奴だな。その台詞そっくりお前に返してやるよ」
「学生の本分は学業ですから」
「ああそうだよな」


棒読みの私の台詞に、棒読みの相槌を返す若くん。
悔しくて口を尖らせたら、ばーかって目で見られた。
相変わらずでムカつく。
でもやっぱり、心のどこかでウキウキしている。


「若くんって、目悪かったっけ?」


小学生の頃までは見たことのなかった眼鏡に、私はありきたりの質問をする。
そんな私の問いに、眼鏡を掛けていたことを思い出したように「ああ……」と呟きながらフレームを指で上げた。


「三年前よりは視力が落ちた」
「ふーん。若くんってそんなに勉強する方じゃなかったよね」
「お前、本当にさっきから失礼な奴だな。第一、そう言う勉強イコール目が悪いって言う考えは安直なんだよ」
「ふーんだ、どうせ私は単純ですよー」
「逆ギレかよ」


やれやれとため息をつきながら肩に掛けた鞄を背負い直す。
その、「しょうがないヤツだな」って感じでため息を吐く所とか昔のままで、何だか、子供の頃に戻ったみたいに錯覚してしまいそうだ。
緩む口元を隠すように俯いて、私も背中に背負ってた鞄を「よっ」と背負い直した。








若くんの家と私の家は、三年前まで歩いて5分もかからないような近くにあった。
小学校に上がるまでは殆ど会ったこともなかったんだけど、同じ氷帝の幼稚舎にに通うことになって、毎朝一緒に通学した。
帰りも、何となくお互いのクラスのHRが終わるのを待って一緒に学校を出ることが多かった。
他の男子から何度もからかわれたことはある。
けど若くんはそう言うのを気にする方じゃなかったし、そんな若くんがカッコいいなって思ってて、私も気にしないようにした。


学校で他の子と遊んだりしているときはそんなふうに見えないのだけど、私の前では妙に大人びていた若くん。
たぶん、いや、絶対、私が頼りなかったからだろうなぁ。


「眼鏡だと、お稽古の時大変そうだね」
「稽古の時は外してるよ。―――まあ、最近は稽古よりテニスしてる時間の方が圧倒的に多いけどな」
「テニス!?え、若くん、もしかして中等部でテニス部入ってたの?」
「ああ」
「でも、あそこって名門だから、レギュラーになるのも大変なんでしょ?」
「……一応、部長だったけど」
「うそ!!」


また変な声を上げてしまって、周囲の人の視線が突き刺さり、慌てて口を押さえる。
そんな私に向ってまたため息をつきながら「そんな嘘言ったってしょうがないだろ」と呆れ声。


「そうなんだぁ……うわぁ、見てみたかったなぁ。もう引退しちゃってるんだよね」
「もう12月だからな」
「でもテニスしてる若くんって、想像つかないなー」


ああ、こんなことなら意地を張らずに、せめて氷帝の友達に若くんのことを聞いておくんだった。
はーっと息を吐くと、怪獣みたいな白い煙。








若くんの家と私の家は、歩いてすぐのご近所さん。
―――だったけど、三年前、小学校を卒業するのと同時に、私は家の都合で少し離れた場所に引っ越してしまった。


同じ都内だったので、そのまま氷帝の中等部へ上がっても通えないことはなかったと思う。
けど、引っ越した先の家の近くに母親の出身校があって、自分の子供にも同じ制服を着せるのが夢だったとかキラキラした目で言われてしまって、「氷帝に行きたい」って主張しづらい状況だった。
私の中の「学校を移りたくない理由」の8割が、若くんと別々になりたくないってことだったから、何となく自分でも後ろめたさがあったのだ。
そんな後ろめたさなんかを感じて言いなりになってしまった自分を、激しく後悔した。
入った中学校は、小等部からの持ちあがり組が大半で、なかなか慣れなくて泣きそうにもなった。
―――実際に泣いたりもしたっけ。








「試験はどうだった?」
「まあ、そこそこ。英語がちょっと見直す時間が足りなかった」
「そうだよね!英語、長文多すぎだよー」


半分冗談ぽく泣きごとを呟きながら空を仰ぐ。
朝は透き通るような明るい青だった空も、今では星がぽつりぽつりと光るのが見えるくらいに青色が深まっている。


「今頃模試を受けてるってことは、お前、どこか外部受験するのか?」
「ん?ううん、それは考えてない。今行ってる所は家からすごく近いし、学校も楽しいしね」
「―――そうか」


私の言った言葉に、若くんの目が少しだけ細められる。
その彼の優しげな目に、私は昔の出来事を思い出して―――恥ずかしくなって、俯いた。


「―――だいじょうぶ、だよ」


そして、アスファルトを見たまま、ぽつりと呟く。


引っ越して、全然知らない中学校に入って。
もうすでに女の子たちは仲良しグループって言うのが出来あがっていて、私はそこになかなか溶け込むことが出来なかった。
氷帝に戻りたくて戻りたくて仕方なかった。
そして私は一度だけ、昔の自分の家の前まで行ったことがあったのだ。
家はそのままだったけれど、表札は取り外されていて―――当たり前なんだけど―――もう昔には戻れないんだって言われているようで、すごく寂しくなって、ポロポロと涙が零れた。


家の前で私を見つけた若くんはちょっと驚いた顔をしたけど、何も言わなくて。
―――ああ、あのとき若くんが背負ってたのって、もしかしてテニスバッグだったかもしれない。
さらに涙の量が増えてしまった私の頭をぽんぽんって撫でてくれて。
暫くしてようやく泣きやんだ私に、「大丈夫だ」って一言だけ。


何でその時の台詞が「だいじょうぶ」だったんだろう?
でも、「頑張れ」って言う台詞は家族に散々言われてて、自分でも頑張らなきゃいけないことは分かってて、その「だいじょうぶ」は新鮮だった。
そしてその言葉に力が抜けて―――元気が湧いた。


若くんが好きだ。
そう思った。


「そういう若くんは、何で模試なんか受けてるの?高校はそのまま氷帝の高等部に行くんでしょ?」
「ただの力試し」
「クリスマスイブに?」
「しつこい。自分だって同じじゃないか」
「あはは」


あのときまで、私は氷帝に戻りたいってばかり考えて、すごく後ろ向きだった気がする。
努力はしてるつもりだったんだけど、何だか空回りしている感じで。
でも、若くんに「だいじょうぶ」て言われてからは、何て言うんだろう、視界が開けたって言うんだろうか―――
とんとん拍子って訳には行かなかったけど、でも、手応えみたいなものはだんだん感じるようになって。


もう若くんに頼っちゃいけない。
若くんが好きだから―――強くなりたい。


それから私は氷帝の頃の友達とは殆ど連絡をとらなくなった。
―――意地っていうか、決心っていうか。
がむしゃらに過ごしてたら、もう三年経っちゃったんだなぁ。
ふふふって思わず笑いを漏らしたら、隣りの若くんが「気持ち悪い」って酷い台詞。
小さく睨むと「だって本当のことだろ」って、さらに追い打ち。


「気持ち悪いって、女の子に言う台詞じゃないよね」
「お前のことを『女の子』なんて思ったことない」
「うわ、ひどーい!じゃあ何だと思ってるの?」


ちょっとした言葉のやり取りで思いがけない展開。
呆れた顔で頬を膨らませて、明るく抗議してみたけど―――内心かなりショックだ。
ああ。こんなどさくさ紛れな感じでいきなり失恋?


「何って、だから、もっと……」
「もっと?」
「……何でもない」


それだけ言うと、若くんの方がむすっと不機嫌そうな顔をして、大股で歩いて行ってしまう。
怒るのは私の方だと思うんだけど。
ちょっと不満に思ったけど、私はズンズン先に行ってしまう若くんについて行くのが精いっぱい。
そして、そうやって一生懸命歩いていると、いつの間にか駅前の通りに出ていて、気が付けば周りには幸せそうなカップルや家族連れの姿がいっぱい。


通りに溢れる笑顔と、至る所から聞こえてくる楽しげなクリスマス・ソング。
それとは対照的に、私の気分は、だんだんと近づいてくる駅の入口にどんどん萎んでいく。
テストが終わったことの解放感よりも寂しさの方が断然勝っていて。


この三年間一度も会わなくても、声を聞かなくても頑張って来られたのに、こうやって一度会ってしまうと離れたくなくなってしまうものなんだろうか。
女扱いされてないって分かっても―――やっぱりもっと、もっと、一緒にいたい。
でも別れを引き延ばす口実なんて全然見つからなくて、ただ、せめてもの抵抗とばかりにノロノロと改札へ向かう。
さっきまで追い付くのがやっとだった若くんの足も、私に合わせてだんだんスピードが落ちきて、最後に改札口の前でピタリと止まった。


「若くん―――?」


はぁ、と息を吐くと、前に立っている若くんが一瞬だけ白い息で少しぼやける。
そんな中で若くんは下を向き―――暫くして今度は空を見上げた。


「―――お前は、だよ」
「え?」
「だから。お前は『女の子』とか、そう言うんじゃなくて―――だ」


思わず、息を止めてしまう私。
振り返る若くん。
その顔が少しだけ赤かったかも―――後になって思った。


「どうして―――そう言うこと、言えちゃうのかなぁ」


でもそのときの私は、声が震えるのを堪えるのに必死で、笑顔を作るのに必死で。
そして肝心な涙を我慢するのを忘れてしまった。
何だろう。
頑張ったなって、言われたような気がして。


やっぱり、今も若くんが好きだ。


いつの間にかすぐ隣りにいた若くんの手が、私の右手の指先に触れる。
ちょっとだけ躊躇うように離れた後、ぎゅ、と私の指を握る。


「いいだろ……三年間我慢したんだ」


私がもう一方の手で涙を拭いながら首を傾げると、若くんがふいと目を逸らす。
でも、指は握ったまま。


「一人で頑張ろうとしてるお前の邪魔出来ないし―――だから、俺も頑張ろうって言ってるうちに、気が付いたらもう中学も卒業だ」
「がむしゃらに過ごしてたら―――?」
「ああ、がむしゃらにテニスなんかやってたら、あっと言う間だった」


でも、だから今、こうやってここにいるのかもしれない。
私が心の中で呟いたものと同じ台詞を、若くんも口にする。


「―――家まで、送ってく」
「……うん」


私も、若くんの手を握り返す。
さっきと変わらずクリスマスの音楽は流れているはずなのに、周りは賑やかなはずなのに、自分の心臓の音が大きくてあんまり耳に入ってこない。
若くんが私の手を引っ張って改札をくぐり、一緒のホームに向かう。
階段を昇りながら、前を歩く若くんの背中を見る。


「これって―――クリスマスプレゼントかな」
「え?」
「えっ……えっと……」


振り返る若くんの顔を見た途端、自分で言った台詞がとてつもなく恥ずかしく感じて一気に頬が熱くなる。
それと一緒に、反射的に握った手を引っ込めようとしたけど、若くんの手に阻まれた。


「―――その台詞、そっくり返してやるよ」


憎らしい口調。
でも、その顔はたぶん、私と同じくらい、あかい。


「……なんだろ。すごいムカつく」
「そこはムカつくとこじゃないだろ」


うそ。
嬉しくて、顔がニヤけちゃいそう。


「―――お前、顔、気持ち悪い」
「ちょっと、それひどくない?」
「だって本当のことだろ」


そう言って、私の手をぎゅ、って握る。


「俺はクリスチャンじゃないけど……」


お前となら「クリスマス」もいい。
ホームに流れるアナウンスと電車の音の中で、どさくさに紛れるように言った若くんの台詞。


「私も」


小さく言った私の台詞は、若くんの耳に届いたかな―――?