昼間っから盛るな 前篇




何となく噂では聞いていた。
うちのテニス部は強豪ぞろいで、その中で二年生なのにレギュラーだなんて。
全国大会への壮行会で生徒が集まった時「あ、あの子が切原くんだよ」なんて隣りにいた友達が教えてくれた。
テニスに限らずスポーツ万能で、カッコよくて女の子にもてて――キレると、怖い。
大体、私の聞いている噂はそんな感じだった。
そして私自身が知っている切原くんはその噂がすべてだった。
同じ学年でも、隣りのクラスでも、それ以上の接点がなければ、そんなもんだと思う。


二年生に進級して暫くして落ち着いた頃、初めての席替えがあって私は廊下側の一番前の席になってしまった。
ここって、ビミョウに先生からの雑用とか言いつけられることが多い席だから嫌なんだよなぁ。
そんなことを思いながら何日か過ぎた日のこと。
教室の入口の扉から、切原くんがヒョイと顔を覗かせた。
自分の席で文庫本を読んでいた私は一瞬びっくりしてしまったが、彼の方はそんな私など気にもかけず教室の中をキョロキョロと見渡す。
誰かを探しているんだろうか。
とは言っても、私には関係ないこと。私は読書を再開した。
すると、頭上から「ねえ、あんた」と声がした。
それは切原くんの声だろうと思ったけど、まさか自分が話しかけられてるとは思わなくて、構わず読書を続ける。
そうしたら、「無視すんなよ!」とバンと机に両手を突かれた。
私はその音にびくっとしてしまい、反射的に顔を上げる。
そこには不機嫌そうな切原くんの顔があった。


私の学校生活は、すごく穏やかなものだ。
自分で言うのも何だけど、そんなに成績は悪い方じゃないし、大人しくて先生の言うことも嫌な顔せず素直に聞くし――内心どう思っているかは別として――先生たちとはそこそこ良好な関係を保っている。
友達は趣味の合う、やっぱり穏やかな子ばかりで、好きな本とか音楽の話をしたり、一緒に勉強をしたり。
男の子との付き合いも、ゆったりとしたものだった。
友達の延長で、好きなものが一緒で、話が合って、ちょっといいな、と思ってたら男の子の方から告白して来てくれて。
友達や彼と喧嘩なんかしたことがない。
先生に怒られたこともない。
こうやって、誰かに負の感情――って言うほど大したことじゃないんだけど――を見せられたのは初めてで私は思わず委縮してしまう。
そんな私のおどおどした態度が更に彼をイラつかせたのか、切原くんは私を一瞬睨んだ気がした。


「ああ……ごめんなさい、何?」
「遠藤、どこに行ったか知らねー?」
「遠藤くん?……ええと、確か今日はお休みだったと思う」
「マジで!?」


私の答えに、あちゃーって顔を顰める切原くん。
感情豊かな人なんだなぁ、なんて、妙なことで感心してしまった。
「使えねー」とか勝手なことを呟いている彼に、恐る恐る聞いてみる。


「あの、どうかしたの?」
「次の英語、俺、当たるんだよ!くっそ、遠藤にノート見せてもらおうと思ったのに……」
「それなら、同じクラスで予習してある子に見せてもらった方がいいんじゃない?」
「ここのクラスの方がちょっと進んでんだよ。だからこっちの方が確実じゃん」
「ああ、なるほど……」


バリバリと髪をかきむしる彼の前で暢気に頷いていたのが癇に障ったのか、切原くんはまた私を睨む。
こんな短い間に何度も睨まれたのなんて初めてだ。
他人事のようにそんなことを思った私は、今度は委縮せずに小さく笑ってしまった。


「何笑ってんだよ」
「ごめんなさい」


また睨まれた。
短気な人だなぁと思いながら、私は文庫本に栞を挟む。


「あの、よかったら、ノート貸そうか?」


無視したことと笑ったことに対するお詫び、と言うわけでもないけれど、ここで知らんぷりするのも憚られた。
きっと人気者の切原くんなら、たとえ遠藤くんがお休みでも他に借りられる人が沢山いるだろうなとは思ったけど。
私のそんな申し出に切原くんの怖い顔は一変、ぱあっと嬉しそうに目を輝かせた。


「マジ!?いいのか!?」
「うん。帰りまでに返してくれればいいから」


私は机の中から、ついさっき使った英語のノートを取り出し、彼に手渡す。
すると更に嬉しそうな顔をして「サンキュ―な!」と一言残し、自分の教室へと走って戻ってしまった。
何だか、慌ただしい人だ。
穏やかな生活の中に不意に訪れた小さな台風のような出来事に、私は茫然としながらも自然と口元が綻んでしまった。








次の休み時間がもうじき終わろうとしている頃、また切原くんがすぐ前のドアからヒョコリと顔を出した。
きっとノートを返しに来てくれたのだろうと思った私は、読んでいた文庫本に指で栞をして彼を見上げる。
彼はさっきの休み時間の最後に見せたような笑顔で私にノートを差し出して来た。


「すっげー助かった!サンキュ―」
「どういたしまして。大丈夫だったの?」
「もうばっちり!お前のノート、すげー見やすいな」
「そうかな」


感心したように言う彼に、私は照れ笑いを浮かべつつ首を傾げる。
普段人にノートを貸すことなんてないから、自分の取ったノートが相対的にどうかなんて分からないけど。
とりあえず遠藤くんの代わりにはなれたようなので、よしとしよう。
心の中で頷く私の机に、切原くんは缶ジュースのミルクティーをゴトンと置いた。


「んで、これはお礼」
「ええ!?いいよ、ただノートを借りただけでこんなことしてたら破産しちゃうよ?」
「しねーよ!つーか、遠藤にはこんなことしねーし。お前のノート、ほんと、分かりやすかったからさ、さっきの授業もいつもより理解出来た気がする」
「大げさだなぁ」
「ホントだって!」


ああ、これがもしかして切原くんがもてる理由なのかなぁ?案外紳士なんだねぇ。
私はそんなことを思いながらクスクスと笑った。
切原くんがまた私を睨む。
でもさっきより迫力がない。


「じゃあ、これは遠慮なく頂きます」
「おう!頂いとけ!……そんでさ、また今度ノート貸してくんね?」
「それが目的かー」
「ちっちげーよ!」


あはは、と笑うと、慌てふためく切原くん。
何だか、感情豊かな彼につられて、私もいつになく笑ってしまった気がする。
私は普段の調子を取り戻そうと、ふうと息をついて、前に垂れて来た髪を耳にかけた。


「それより、ちゃんと予習して来た方がいいよ」


そう言って微笑うと、切原くんは、何だかキツネにつままれたような顔をして、その一瞬後には不貞腐れたように口を尖らせた。


「……う、うるせーな」


自分の言ったことが恥ずかしくなったのか、切原くんはちょっと顔を赤くしてそれだけ言い、そそくさと言った感じで教室に戻ってしまった。








でも、どうやら反省したわけではないらしい。
切原くんは次の日にまた英語のノートを借りに来た。
そしてまた次の日も。
英語はほぼ毎日あるから、切原くんが現れるのもほぼ毎日。
彼は遠藤くんに声を掛けるより先に、まず私から借りるようになってしまった。
「今回だけだからね」と一体何度言ったことだろう。
甘いのかなぁ。
切原くんのことを思ったら、突っぱねた方がいいんだろうか。


「切原くん、ちゃんと予習して来た方がいいよ」
「しょーがねーじゃん!放課後は暗くなるまで部活だしさー、家に帰ったらクッタクタで勉強なんかしてられないっつーの!」
「でも勉強と部活両立させないと。勉強出来ないくらい部活がきついなら、部活の先輩に相談してみるとか」
「そんなこと出来るわけねーじゃん!殴られて終わりだって。あんた、うちの先輩たちを知らねーからそんなこと言えんだよ」
「そうは言っても、このままじゃ――」
「あんた、ほんっとに優等生だよな。その鬱陶しい感じ」


ザクリ。
切原くんの言葉が胸に突き刺さる。
鬱陶しいって……ノートを貸してこの言われようって……。
感情をぶつけられることも少なければ、こんな言葉を投げかけられることも経験したことのなかった私は、切原くんの言葉には結構傷つけられた。
あんたって鬱陶しいとか、面倒くさいとか。
でも最近は少し慣れて来た気もする。
たぶん、彼にはそれ程悪意があるわけじゃないのだ。
その証拠に今だって私の隣りの席の机に座りながら足をプラプラさせてジュースを飲み、自分の教室に戻る様子はない。


何回目くらいからだろうか、切原くんは私へのジュースと一緒に自分の分も持って現れるようになった。
そしてそれを隣りの机に腰を下ろして飲みほしてから帰って行く。
そのジュースの時間の間だけ、私と切原くんは少しおしゃべりをした。
とは言っても、大体内容はさっきのようなものだ。
もっと当たり障りない話をすれば、余計な傷を負わないで済むのかもしれないけれど。
でも、切原くんとどんな話をしていいものなのか皆目見当が付かない。
趣味とか合わなそうだし。


「じゃあ昼休みとかにやっちゃえば?」
「やっちゃえば?とか簡単に言うなよ!昼休みに終わるくらいなら苦労しねーっつーの!」
「でもやらないよりはマシじゃない?」
「まじ、うざい」
「……」


ここでくじけては駄目だ。
私は涙が出そうになるのを堪えて彼を見上げた。


「……もう貸してあげない」
「えっ!じょ、冗談だって!様!さま!そんなご無体を〜!」


パンッと手を合わせて、そんな冗談めかした口調。
何だか最近、ずっとこの台風に調子を狂わされっ放しのような気がする。
私はふうと息をつく。
その時タイミングよく、と言うべきか、始業のベルが鳴った。


「じゃあ、また明日よろしくな!」
「いや、そうじゃなくて、予習をして来てっ」


脱兎のごとく消え去る切原くん。
ホントに調子がいい。
私はまたため息を吐き出した。








数日後の昼休み、私はいつも通り学食で石井くんと一緒にお昼を食べていた。
石井くんとはもう半年近い付き合いだった。
去年は一緒のクラスだったけど今年は別々になってしまって、学校で会えるのはこのお昼休みくらいしかない。


「最近、切原とよく話してるって聞いたけど」


今石井くんから借りているCDの話が一通り終わったところで、「そう言えば」と穏やかな口調のまま彼が聞いて来た。
私はゆっくりとご飯を咀嚼し飲み込む。


「よくは話してないと思うけど……ひょんなことが切欠で英語のノートを貸してあげるようになっちゃって」
「英語のノート?」
「うん。ちゃんと自分で予習した方がいいよって何度も言ってるんだけど」


困った人だよね、そんな感じで微笑うと、石井くんも微笑を返してくれた。


「それだけ?」
「え?うん」
「そうなんだ。……結構親しげに話している、なんて聞いたものだから」
「ええ?そんなことないよ。ノートを返しに来てくれた時に私がお小言言って、うざい、とか鬱陶しいとか言われるだけ」
「そんなことを言うの?酷いね」
「うん、でももう慣れて来ちゃった」


こうやって眉を顰める石井くんは「うざい」とか言うタイプじゃない。
内心鬱陶しいと思うようなことがあっても、やんわりと諭したりする方で直接的表現は避ける。
そう言う私もどちらかと言えば同じタイプだ。
出来れば感情のぶつかり合いとか避けたい。
穏やかに過ごしたい。


「そんなヤツ、放っておけばいい」


いつもよりちょっとだけ、強めの声。
珍しいなって思って顔を上げると、いつもの穏やかな笑顔が、少し険しい顔に変っていた。
けど私の驚いた顔を見て、石井くんは慌てたように普段通りの笑みを浮かべる。


「きっと彼みたいなタイプはがいくら言っても無駄だよ。放っておけばいいよ」
「うん、そうだよね」


私は彼の言葉に何度も頷いた。
そうなんだよね、放っておけばいいんだけど。
何だか切原くんの顔を見ると、何か言いたくなってしまうんだ。
彼にとっては鬱陶しいことを。








石井くんとそんな会話をした昼休み、学食から教室に戻って来ると友達の門蔵さんがちょっと眉を顰めながらやって来た。


「さっき、切原くんが来てたよ?」
「切原くん?あれ、確か水曜日は六限目が英語のはずだけど――」


隣りのクラスの英語の時間を全て把握してしまっているのは、ちょっと複雑な気分だ。
自分の発した言葉に、私は小さくため息。


「何だか、英語で小テストがあるんだって。それでさんに教えてもらおうと思ってたみたい。すぐどこかに行っちゃったけどね」


どうせ彼のことだから、私がいないと知って「使えねー」とか言ったんだろう。
門蔵さんの苦々しい表情に思わず笑ってしまう。


「そっか。じゃあきっと先輩の所にでも行ったのかな。たまに教わってるって言ってたし」


いつだったか、そんな話をした。
試験の前には一つ上の先輩によく勉強を教えてもらうのだと。
その先輩は英語はよく出来るらしいのだけど、国語が今いちだとか。
「ほんっと、使えないんだよなー」なんて話していた切原くんに「教えてもらっておいてそんな言い方はないよ」と言うと、案の定「優等生ぶりやがって」と睨まれた。でも次の瞬間には屈託ない笑顔になっていたりするものだから、自分が怒るタイミングを奪われてしまう。それと一緒に傷付くタイミングも逃してしまう。
苦笑いを浮かべる私に、門蔵さんはまた眉を顰めて、ちょっとだけ私の方に身を屈めた。


さん……気を付けた方がいいよ?」
「え?何を?」


何のことだかさっぱり分からなかった私は、彼女の言葉にキョトンとしてしまう。
そんな私にため息を吐き、彼女は更に顔を近づけて来た。


「二股かけてるとか、変な噂が立ってるみたいだから」
「ええっ!?」


思いもかけない台詞に、素っ頓狂な声を上げてしまう私。
だってそうだよ。
ただ英語のノートを貸して、その後返してもらう時に10分くらい話をするだけで、何でそんなことになっちゃうの?


さんにその気がないって言うのは私たちは分かってるけど――ああ言う子たちって自分の想像でどんどん話を大きくしていくから」


そう耳打ちして門蔵さんは後ろの方をチラリと見る。
そこには、こちらを見てヒソヒソ話をしていたらしい数人の女の子。
私が振り返ったら慌てて目を逸らす。
同じクラスだけど殆ど話をしたことがない子たちだ。
可愛くって、お洒落で、いつも休み時間には楽しげな笑い声が上がるグループ。
たぶん切原くんは、本当は彼女たちのような子と気が合うんじゃないかと思う。


「きっとさんに嫉妬してるのよ、自分たちも切原くんとお話したいのに出来ないから」
「そんなの――」


私の知ったことじゃない。
思わずそう言いそうになったけど、すんでのところで止めておいた。
そして門蔵さんと同じように少しだけ眉を顰めるだけにとどめる。


「自分たちも普通にお喋りすればいいじゃない」
「でも、ちょっと切原くんって近寄りがたいオーラを発していると思わない?」
「……そう?どちらかと言えば人懐こいイメージかと思ってたけど」
「私も最初はそう思ってたんだけど……特にさんと一緒にいる時って、近づくなってオーラを発してる気がするの」
「そう?」
「うん、だって、用事があって私がさんに声を掛けようって思った時も、何か、睨まれた気がする」
「そんな、まさか!気のせいだよ」
「そうかもしれないけど……」


もともとあまり目つきがよくないし。
私も最初はちょっと睨まれただけで怖いと思ったけど、最近はだいぶ平気になって来た。
「そんなことないから今度からは普通に声を掛けてね」と門蔵さんに微笑って言うと、納得いかないながらも渋々了解したと言った感じに頷いた。
始業のベルが鳴って門蔵さんが席へと戻って行く。
私は前に向き直って、テキストを取り出しながらひっそりとため息を吐き出した。
二股だなんて。
そんな噂が飛び交ってたから、石井くんはあんなことを聞いて来たのだろうか。
きっと彼は何もないって信じてくれている。
でも、こんな噂を長期間蔓延らせるのはよくない。
やっぱりノートは、これからは遠藤くんに借りてもらおう。
そう決心した日の翌日、午前の授業が終わって、さて学食に行こうと席を立ったら、バタバタと大きな足音と共に切原くんが入って来た。


!頼む、助けてくれ!」
「ど、どうしたの?」


あまりの勢いに、私は前日の決心を忘れて彼に声を掛けた。
彼の手には、英語のテキストと皺くしゃのプリント。


「午後一の英語、テストなんだよ!」
「テスト?確か、昨日も小テストがあったんじゃないの?」
「そうなんだよ!んで昨日お前がいないからジャッカル先輩に出そうなトコとか教えてもらったんだけど、見事に全部外れてさぁ、もう最悪な結果!」


憎々しげに喚いて手に持っていたプリントを広げて見せてくれる。
それは恐らく昨日の小テストの結果だった。
私はそれを見て「あらら……」としか言えない。


「あらら、じゃねーよ!そんで今日のテストでも結果が悪かったら放課後に補習なんだよ!」
「そうなんだ」
「テストの結果が悪かっただけでネチネチチクチク言われんのに、補習なんか受けなきゃいけね―ってなったら、マジやばいって!!」


どうやばいんだろう?
そう思ったけれど、その青ざめた顔を見ていたら、具体的に聞くまでもなくすごく恐ろしいことになるんだろうと言うことが予想された。


「でも、助けてくれってどうすれば……」
「この昼休みが勝負なんだ!教えてくれよっ」
「私が?」
「もとはと言えば、お前が昨日の昼休みにいなかったのが悪いんじゃねーか!」
「そんな無茶苦茶な……」


言いがかりもいいところだと思ったけど、本当に切羽詰まった表情の切原くんを見ていたら冷たく突き放すのも可哀相に思えた。
門蔵さんがこちらを心配そうに見ているのが目に入る。
チラチラとこちらを見ているクラスの女の子たち。
そんな遠巻きに見ていないで「私が教えてあげるよ」くらい言ってあげればいいのに。
私はため息をついて、「ちょっと待って」と携帯を取り出した。
いつもお昼を一緒に食べている石井くんの名前を呼び出した。


「ごめんね、石井くん。私ちょっと用事が出来て今日お昼一緒に食べられなくなっちゃったの」
「え、そうなんだ。どうしたの?」
「お友達に英語を教えてあげなきゃいけなくなっちゃって」


隣りの切原くんが何だか怖い顔をしてこちらを見ている気がしたけど、私は気にせず石井くんと話した。
理由を正直に話すことはないかとも思ったんだけど、どうせきっとまたすぐに噂になるんだろう。
そうなった時、どうして隠したんだと追及される方が厄介な気がしたので私は正直に説明する。
電話の向こうの石井くんの声も、ちょっと怖くなったような気がする。
でも、きっと石井くんなら理解してくれるだろうと思い込んでいたから、その声の変化を気に留めなかった。


「――友達って?」
「切原くん」
「何でが教えなきゃいけないだよ?別に同じクラスでも何でもないだろ?この前も放っておけって言ったじゃないか」
「うん……でもすごく困ってるみたいだから」
ー、早くしてくれよ!」


切原くんが、まるで石井くんに聞かせるかのように私に顔を近づけて言って来た。
石井くんが私の名前を呼んでる。


「ごめん、後でお話しよう?それじゃあ、切るね」
「おい、待てよ、!」


ごめん石井くん。心の中でそう呟きつつ通話を切る。
だって、本当に時間がないし。
「じゃあ図書室に行こうか」って言った私に、切原くんは「へへっ」なんて笑って嬉しそうな顔。
別に私に教わったからって、テストでいい点数が取れるとは限らないのに。
やれやれと肩を竦めて英和辞書とノートを手に取り、二人で図書室へ向かった。








勉強を教わる切原くんの態度は思った以上に真面目だった。
それだけ本当に切羽詰まっていたんだろうけど。
私の説明を熱心に聞く。
ちょっと椅子をくっ付け過ぎなんじゃないかと思ったけど、意識し過ぎだろうと、気にしないようにした。


「やっぱ、の説明は分かりやすいな!」
「……その壊滅的な単語力のなさは、地道に克服して行くしかないよ」
「へいへい」


本当に分かってんのかなぁ。
疑いの視線を向けつつテキストを捲っていると、後ろから見知らぬ人の声。


「おや、切原くんが図書室で勉強とは珍しいですね」


振り返ると、眼鏡を掛けた背の高い男の人が立っていた。
この人は――知っている。
テニス部の三年生だ。柳生先輩。
大人で、紳士で落ち付いた雰囲気に、遠巻きながらほんのり憧れを抱いたりもしたから。
私が小さく頭を下げると、柳生先輩は私に向ってニコリと微笑んでくれた。
こんな間近で、しかも私に向かって笑いかけてくれるなんて、すごく緊張する。
私が頬を赤らめると、切原くんがまた怖い顔をした。


!何赤くなってんだよ!」
「え、だって……緊張しちゃって」
?……そうですか、あなたがさんですか」


そう言って、柳生先輩は今度は私をまじまじと見つめて来た。
眼鏡がキラリと光ったように見えたのは、錯覚だとは思うけど。
もしかして――あの変な噂は三年生の間でも広がっていたりするんだろうか。
私は思わず表情を曇らせて、柳生先輩から目を逸らす。


「ご覧の通り切原くんは手の掛かる人ですが、どうぞこれからも仲よくしてあげて下さい」
「よっ、余計なこと言わないで下さいよ!」
「切原くん、ここは図書室なんですから静かにし給え」


顔を上げると、柳生先輩がニッコリと笑ってくれている。
私はちょっとホッとして微笑った。
その隣りでガタンと立ち上がる切原くん。


「柳生先輩っ、今勉強してるんスから、邪魔しないで下さいよ!」
「ああ、それは失礼しました。それではさん、くれぐれもよろしくお願いしますよ」
「は……はぁ」


柳生先輩は、切原くんに向かって何だかちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて去って行った。
ガタガタと椅子に座り直して、切原くんは小さく舌打ちする。
何をそんなに嫌がってるんだろう。
私は首を傾げつつ、テキストに視線を戻した。


「柳生先輩に教えてもらった方がいいんじゃない?すごく頭良いんでしょう?」
「あの人はダメ!俺がちょっと間違うとねちねちネチネチ言って来るんだよ」
「ふぅん、そうなんだ」


優しそうに見えるけどなぁ。
さっきの笑顔を思い出したら顔が赤くなってしまい、切原くんに椅子を蹴られた。
一体何だって言うんだろう。
私が睨むと、その倍の迫力で睨まれた。
勉強を教えてこの仕打ちって……。私は、はぁとため息をついた。








放課後、HRが終わって帰り仕度をしていると、石井くんが現れた。
ちょっとだけ教室内がザワリとした気がする。
お昼休みが終わった後、私が教室に戻って来た時も妙な空気が漂っていた。
別に私はやましいことをしている訳じゃない。
さっきも今も私はそんな空気の変化など気にしないようにする。


。ちょっといいかな」
「うん、もちろん」


石井くんは部活動をしている。
平日はほぼ毎日部活があるから、大体週の半分くらいは彼の部活が終わるのを待って一緒に帰っていた。
今日も部活があるはずだけど、その前に話しておきたいんだろうか。
私は石井くんの後について教室を出た。


「お昼はごめんね、一緒に食べられなくて」


廊下に出てすぐ、私はそう言って謝った。
けど石井くんは無言のまま歩き続ける。
彼の背中が、怒っているって言っている。
こんな石井くんを見るのは初めてで、私は戸惑いながら後ろをついて行くだけ。


、君、切原のことが好きなのか?」


人のいない特別教室に入った途端、石井くんはそんなことを聞いて来た。
思いがけない質問に、私は一瞬言葉を失う。


「否定しないんだな」
「ちょっと待って、石井くん。そんなわけないじゃない。私、石井くんと付き合ってるんだよ?」
「じゃあ何であいつを構うんだよ」
「何でって……困ってる友達を見たら、助けるのは普通じゃないの?英語のテストで結果が悪かったら補習になっちゃうんだもん、勉強を教えるくらいいいでしょう?」


苛々とした顔で、理不尽な言いがかり。
私はちょとムッとしてしまった。
でもその私の何倍もムッとした顔をする石井くん。


「じゃあ、は俺がお前との約束を断って、他の女と会ってても怒らないのか?」
「ちゃんとした理由があれば怒らないよ」


当り前じゃないかと呆れ顔をすると、さらに苛ついた顔。
こんな風にイライラとした顔を見るのも初めてだ。


「その女が俺に気があるって分かっててもか?」
「え?」


思いも寄らない質問に、目を丸くする。
気がある?
それって、まさか、切原くんも私に気があるって言っているの?


「……切原くんは私に気なんかないよ」
「どうしてそう言い切れるんだよ?」
「だって、趣味も違うと思うし、話も合わないよ」
「でもさっき図書室で楽しそうにしてたじゃないか」
「――見てたの?それなら声を掛けてくれればいいのに」
「あんな所を見せつけられて、声なんか掛けられるわけないじゃないか!」


だんだんと石井くんの声色が激しくなって来る。
いつも穏やかで、大人っぽいと思ってたのに。
事情を説明すれば、ちゃんと分かってくれると思ってたのに。
私は悔しくて、目頭がジワリと熱くなったけど、深呼吸して遣り過ごした。


「……信じられない」
「信じられないのはの方だよ。二股掛けてるとか噂されてるんだぜ!?」
「知ってる」
「知ってるのに、あんなことしたのかよ!」
「だって、私は別にやましいことしてない。ただ勉強を教えただけだもん。石井くんも、それ位理解してくれると思ってた」
「悪いけど、俺には理解出来ない」


石井くんは何度も首を横に振る。
そして「君はいつもそうだ」と呟くように言う。


「いつも当たり障りない笑みを浮かべて、当たり障りない会話しかしなくって、それで何かあっても俺なら分かるはずって言う」


そんなんで分かるはずないじゃないかと吐き捨てるような石井くんの台詞。
そんな風に思ってたなんて。
呆然とする私に、石井くんが言い募る。


は、俺に嫉妬したことなんてないだろう。俺がクラスの子と話してても平然としていたもんな。部活の後輩の子と二人で帰ったって話を聞いても全然怒ってなかった」
「だって、そんなことにいちいち嫉妬するなんておかしいよ。クラスの子と話す位は普通でしょ?後輩の子のことだって……帰りが遅くなったなら先輩の石井くんが送って行くのは当然だと思う。そこで一人で帰しちゃう石井くんの方がおかしいよ」
「それはそうかもしれないけど!少しは妬いて欲しいんだよ!」


驚きの連続で、私は目眩がしそうになった。
後輩の子の話を噂好きな女の子から聞いて、その後「ごめん」と色々言い訳をしていた石井くんに「それはしょうがないと思う」って言ったら「そうだね」って普通に笑ってたはずなのに。
「どうしてその時にそう言ってくれなかったの」って聞いたら、「自分一人子供みたいで恥ずかしかった」と打ち明ける石井くん。


「……でも、やっぱり駄目だ」
「え?」
「こんな風に大人ぶって付き合っていくなんて無理だ」
「そんな……」
「だってそうだろう?いくら趣味が合うって言っても、根本的な価値観が違うんだ」


価値観。
私は心の中で呟いてみる。
趣味も合って、波調も合って。
上手く行ってると思ったのに。


「別れよう」
「……」


ポツリと吐き出された台詞。
私は驚くばかりで、すぐに何か言い返すことが出来なかった。


「いいよな」


念を押すように言う彼に、私は何とか頷く。


「……何も言わないんだ」
「だって……石井くんがそう思うんならしょうがないと思う」
「また『しょうがない』かよ」


それだけ言って、石井くんは教室を出て行ってしまった。
一人取り残された私は、暫くして深呼吸する。
だって――しょうがない、じゃない?








次の日、切原くんの英語の授業が終わった後の休み時間に、嬉しそうな顔をして彼が現れた。


!見てくれよ、これ!」


そう言ってズイッと差し出されたのは小テストの答案。
それはあまり見たことのないような点数だったけど、彼はニコニコしている。


が昨日教えてくれたからだよ!マジ助かった!サンキュ―な!!」
「ああ……うん、どういたしまして」


私はいつものように微笑って返事をした。
――つもりだったんだけど、流石に昨日の今日では少し調子がおかしかったみたいで、そんな私を見て切原くんは訝しげな目を向けて来た。


「どうしたんだよ、何かあったのか?」
「ううん。何でもないよ」
「その……もしかして、彼氏と喧嘩でもした、とか」


切原くんがズバリ聞いて来る。
こう言うのはそっとしておいて欲しい。
私は内心少し不愉快に思いながら「何でもないから」と繰り返した。


「何でもないってことないだろ、そんな顔してさ。喧嘩だとしたら、やっぱ俺のせいかなぁって思うし」


そう言いながらも、あまり申し訳なさそうな顔をしないのは何でなんだろう。
私は不機嫌さを隠さずに返事をした。


「別に、切原くんのせいじゃないよ」
「やっぱ何かあったんじゃんか!」
「大したことじゃないから」


切原くんにとっては大したことじゃない――と言うか、関係のないことだ。
私は「ほら、もうじき次の授業始まるよ」と言って答案を返す。
納得いかないような顔をしながらもそれを受取って、寄りかかっていた机から身を起こす切原くん。


「今度ジュースじゃなくて、マックとか奢るよ」
「え?別にいいよ。そんな大したことしてないから」
「でも、ここで貸し作っとくと、次ん時、聞きにくいじゃん」
「別に貸しとは思ってないから。でも、今度は他の人に教えてもらってね」
「え、何でだよ」


また不審そうな顔になる切原くんが私に顔を近づけて来る。
その時タイミングよくと言うべきなのだろうか、始業のベルが鳴った。
私はほっとして、彼を追い立てる。
不満そうな切原くん。
そんな彼の態度がガラリと変わったのは、昼休みのことだった。


ずっと一緒に食べていた石井くんと言う存在がなくなって、私は学食に向かう気分にならなかった。
門蔵さんにはまだ彼と別れたことは話していない。
別に隠すつもりもないのだけど、今日は一人で食べたいと思ったので、彼女の所には行かずに購買に寄ってから屋上へと向かった。
空いているスペースを見つけて腰を下ろす。
さわさわと心地よい風が、私のため息を一緒に持って行ってしまった。
こうやって一人静かにしていると、本当に石井くんと別れたのだな、と言う実感が湧いてくる。
空虚感は多少あったけれど、それはちょっと「寂しい」と言う感情とは違う気がした。
別れを告げられて、悲しい、とはあまり感じなくて、もちろん、腹立ちなんてものも感じなかった。
だって――しょうがないと思う。
彼はずっと我慢をして来て、価値観が合わなくて。
彼と色々話をするのは楽しかったけど、でも無理をして付き合い続けてもお互い不幸なだけだったと思うから。
紙パックのジュースにストローを差す。
一口飲んでサンドイッチの包みを開こうと思った時、私の前に影が出来ているのに気が付いた。
顔を上げると、切原くんが立っている。
何だろう、影になっているせいなのか、彼の表情がよく分からない。


「――切原くん。どうしたの?」
「あんた、昨日彼氏と別れたんだってな」


いつもより低い声で、自然と身震いしてしまう。
でも彼に怒られるようなことは何もしていない。
私は平然を装って、静かに頷いた。


「それも――噂になってるんだ?」
「昨日、あんたたちが言い合いしてるのを聞いたって奴がいたんだ」
「そっか……」


石井くんはそんなことを言い回る人じゃないし、彼から聞いた友達が言うか、目撃した人が興味本位で言って回るか。
いつかは噂になるんだろうなと思ったけど、こんなに早いなんて。
私は目を伏せて、髪を耳に掛けようとする。
けど、そんな仕草を許さないかのように、切原くんが私の腕を強く掴んだ。


「何で彼氏と別れたって言うのに、そんなに落ち着いてんだよ。さっきも大したことないって言ってたよな。あんたにとって彼氏ってそんなもん?」
「き、切原くん……?何を言ってるの?」
「なあ、彼氏と別れても、全然平気なのかよ?」
「そんなこと切原くんには関係ないでしょう」


あまりの力に、私は顔を顰める。
けれど切原くんは一向に手を放してくれる気配がない。
それどころかもう一方の腕も掴んで睨んでくる。
怖い。
自分の理解出来ない怒りを向けられて、私は怖くなった。


「あんた、本当にあいつのこと好きだったのかよ?いっつも二人で気色悪い笑みばっかり浮かべててさ。恋愛ごっこしてただけなんじゃねーの」
「関係ないって言ってるじゃない!」


「恋愛ごっこ」と言う言葉を聞いて、私はカッとなった。
後から考えれば、たぶん――図星をさされたからなんじゃないかと思う。
こんな風に抑制も効かず怒りに顔が熱くなるなんて。
内心、自分自身に戸惑いながら、何とか私は彼の腕を振りほどく。


「好きだったけど、しょうがないでしょ?私じゃ駄目だって言うんだから」


ジワリ、と涙が出そうになる。
けれど昨日と同じように何とか深呼吸をしてそれを抑え込んだ。
私の前で片膝をついていた切原くんが、笑う。


「しょうがない、ね」


いつもの屈託ないものじゃなくて――思わず、言葉を失うくらいに、大人びた、皮肉めいた笑み。
彼はそれから何も言わずに立ち上がり、すたすたとその場から去って行ってしまった。
一体何だって言うんだろう。
何で切原くんにあんなことを言われなきゃ――あんな風に笑われなきゃいけないんだろう。
私は慌てて零れそうになった涙を拭った。