昼間っから盛るな 後篇




それから、パタリと切原くんがうちのクラスに来なくなった。
遠藤くんにもノートを借りている様子はない。
真面目に予習をするようになったのか、それともまた別のクラスの子にノートを借りているのか。
別に私には――関係のないことだ。
今まで直接私の耳に届いて来なかった陰口が、たまに聞こえて来るようになった。
「いい気味」とか「調子に乗ってるからよ」とか、女の子が面白そうに言う。
門蔵さんや一部の女の子たちは「気にすることないよ」と言ってくれる。
私も、そんな陰口はあまり気にしていない。
だって、別に調子に乗ってなんかいなかったし。
切原くんがちゃんと予習をしているとしたら、それは喜ぶべきことで、いい気味なんて思われるようなことじゃない。


だけど――何でだろう。
この前、屋上で感じた虚しさ以上に、胸にポッカリ穴が開いたような感覚。
ああ、今日も切原くんは教室に来なかったんだな。
一日の最後のHRの後、そんなことを思って、チクリと感じるような胸の痛み。
私は、もしかして切原くんがノートを借りに来るのをいつの間にか楽しみにしていたんだろうか。
ふと、そんなことを思う。
でも切原くんが「借りない」と言う選択をしたなら、それはそれでしょうがないことだ。
そう思うと、また胸が痛む。


この前、廊下で切原くんとすれ違った。
私は門蔵さんと一緒に歩いてて、彼の方も友達と数人一緒にいて。
まるで、お互い知らない人同士であるかのように、無視をして通り過ぎた。
きっと、彼は何かを怒っているんだろう。
でも何を怒っているのか私には全然見当が付かない。
だって、私は彼に対して何も悪いことをしていないはずだもん。
そう自分を言い聞かせるけど――後ろの方で響く彼の笑い声を聞いて、涙が出そうになった。


用事があって休み時間に行った切原くんのクラスで、彼が女の子たちと楽しそうに話しているのを見た。
可愛くて、お洒落で、明るい女の子たち。
それは私が彼とお似合いだと思った女の子たちそのものだった。
きっと、彼女たちはお小言なんて言ったりしないで、うざいとか言われることもないんだろう。
彼女たちの明るい笑い声に、何でだろう、心臓が捻じられるような気がした。


家で課題をしながら、国語の辞書を引いていた時――ああ、私って、あの10分が、すごく好きだったんだと、不意に思った。
ノートを返しに来て、二人で切原くんの買って来たジュースを飲みながら、他愛のない――本当に他愛のない話をする10分が。
別に、中身のある話なんか全然していない。
私が彼に意見して鬱陶しいって言われて、彼の方は、私が興味がないって知ってて格闘ゲームの話を延々して、よくルールの分からないテニスの話を自慢げにして、顔も殆ど知らない先輩たちの話を嬉しそうにして。
何で好きだったんだろうって考えても――ただ、好きだったからとしか思えないような、ほんの僅かな時間。
気が付いたら、辞書の上にパタリと涙が零れた。
だって……だって、しょうがないじゃない。
心の中でそう呟くと、涙が止まらなくなってしまった。
胸が痛い。
じゃあ、私はどうすればよかったって言うの?
気が付いたら、私は小さい子供のように声をあげて泣いていた。








でも、今さらそんなことが分かっても何かが変わるわけじゃない。
変えられるわけもない。
次の日の朝も私はいつもと同じく学校へ向かった。
すると校門のところに何人かの生徒と一緒に柳生先輩が立っていた。
今までにも何度か見かけたことがある、きっと風紀委員の仕事だと思う。
ふと、目が合った気がしたので私は挨拶をした。
柳生先輩も挨拶を返してくれて、そして、「おや」と私の顔を見て眼鏡の端を持ち上げた。


さん、どうかされましたか?元気がないようですね」
「えっ」


先輩の意外な台詞に、私は思わず立ち止まる。
慌てて「そんなことありません」と否定したけれど、戸惑ってしまって微笑うことが出来なかった。


「そうですか?でも、いつものあなたの笑顔が少し曇っているようでしたから」


そう言って、先輩の方が優しく笑う。
思いがけない言葉と笑顔に、私はびっくりして、涙が零れてしまった。
きっと、まだ涙腺が緩んでいたんだと思う。
自分がこんな所で泣いてしまったことに一層驚いたけれど、柳生先輩の方は驚いた様子もなく優しく微笑ったままハンカチを差し出して来た。


「――っ、ごめんなさいっ」


私はそれだけ言って教室の方へと走り出す。
だって、あんな所で泣いてしまっては柳生先輩の迷惑になってしまうし、それに何より、ハンカチを受け取ったら、涙が止まらなくなってしまうと思った。
教室へまっすぐ向かわずにお手洗いに行く。
洗面台の鏡に映し出された自分の顔は、案の定、泣きかけたせいで目が真っ赤になって潤んでいた。
このまま皆に会いたくない。
私は顔を隠すように俯き、教室とは反対方向の旧校舎の方へと向かう。
授業をさぼるなんて、もちろん今まで経験したことがなくて、どこへ行ったらいいかどうか分からない。
けれど、ふと旧校舎にある大教室を思い出した。
あそこは特別授業などがある時にしか使われないはずだ。


鍵がかかっているかもしれないと思いながら恐る恐るドアノブに手を掛けると、ドアはすんなりと開いた。
隙間からそっと中を窺う。
どうやら誰もいないみたい。
埃っぽい階段教室を上がって行き、通路の最後列の階段に腰を下ろした。
膝におでこを付けて瞼を閉じる。
外もシンとしていて人の声なんか全然聞こえない。
もうじき予鈴が鳴るだろう。
私は目を瞑ったままぼんやりと思った。
まだじわじわと目が熱い。
遠くでベルの音がする。
それが鳴り止むのと同じくらいに、バタンとドアが開く音がした。


「え――」


思わず声が出てしまって、慌てて口を押さえる。
誰か、入った来た?
私は頭を上げて身を小さくし、ぎゅっと膝を抱える。
バタバタと遠慮のない足音にビクビクして、その姿が現れるのをじっと待つ。
と、階段の下に現れたのは――切原くんだった。
何となく、不機嫌そうな顔。この前、屋上で見たような。
私は目を大きく見開きながらも、そこを動かずじっとしていると、彼がズカズカと大股で階段を上って来た。


「――何してんだよ、あんた」


私の前に立って、低い声で言う切原くん。
私はビクリとしながらも、何とか口を開く。


「何って……」
「……来いよ。ここ、先生の見回り来るぜ?」
「え?」


驚く私の腕を掴み、グイと引っ張って立ち上がらせる。
そして横に置いてあった私の鞄も持って、そのまま、また大股で階段を降りて行った。
よろけそうになりながら、私は彼の後をついて行く。


「大体素人はあの教室行くんだよな。そんですぐに見つかってどやされるんだよ」
「よく……知ってるね」


素人って言うのは、さぼることに対する素人ってことだろうか。
つまり切原くんはそう言うことに慣れてるってことだろう。
私は引き摺られながら、思わずポロリと言ってしまう。


「……授業はちゃんと出た方がいいよ」
「この状況でお前に言われなくねーよ。じゃあお前これから授業出んのか?そんな真っ赤な目ぇしてさ!」
「それは……」


言葉の詰まる私などお構いなしに切原くんはグイグイと私を引っ張って、そして少し離れた教室へと入った。
こじんまりとした部屋。
教室と言うより、準備室に使われていた場所なのだろうか。
雑多に物が置かれている所を器用にすり抜けて、切原くんは奥へと進んで行く。
そして自分の部屋か何かのように腰を下ろした床は、この埃だらけの中でも何故か綺麗になっていた。


「お前も座れよ。そんなとこいると、見回りん時見つかるぜ?」
「う、うん」


戸惑いながらも彼の隣りにペタリと座る。
そこは背の高い机やら棚やらで、入口や窓から上手く目隠しされている場所だった。
もしかしなくても、ここは彼のさぼり場所の定番と言った所なんだろう。
呆れるやら、妙に感心するやらで、私はため息を吐き出した。


「飲む?」


そう言って彼の鞄から取り出したのは、いつも「お礼」にと貰っていた缶ジュース。
私が躊躇って手を伸ばさないでいると、床にそれを置き、もう一本同じものを鞄から取り出してプルタブを開けた。
ごくごくと、彼の喉が鳴る音が聞こえるくらい静かだ。
私はそんな彼をじっと見た後、「ありがとう」と言ってその床に置かれたジュースを手に取った。
プルタブを引いて、コクリと一口飲む。
やっぱり彼にも私の喉の音が聞こえただろうか。


沈黙。


私は何か話した方がいいんだろうかと思ったけど、何を話したらいいのか分からなかった。
切原くんは、何であそこに来たんだろう。
何で、連れ出してくれたんだろう。
もう、怒ってないんだろうか?
でもやっぱり顔も声も何となく怖いままだ。


彼がまた鞄を漁り出す。
何を取り出すのかと思ったら、その手にあったのは小型のゲーム機だった。
呆然とする私の横で、切原くんは普通にその電源を入れ、忙しく操作し始める。
その器用に動く指をぼーっと眺めていると、暫くして切原くんが口を開いた。


「俺、怒ってんだけど」


さっきの私の心の声が聞こえていたかのような台詞。
私が「知ってる」とだけ小さく言うと、彼はゲーム機から視線を逸らさないまま、続ける。


「何を?」
「何をって――怒ってる、こと」
「何で怒ってるのか分かってんの?」


正直、分からなくて私は頭を横に振った。
そんな私のことなど目に入らないかのように、切原くんはボタンを操作し続けている。


「私が、石井くんと別れたから?……でも、だからって何で切原くんが怒るのか分からない」
「あー、そんなの、ラッキーとは思っても怒るわけないじゃん」
「じゃあ……何でなの?」


彼の言葉でちょっと理解できない箇所があったけど、私はそこは無視して続けた。
でも、切原くんは答えてくれない。


「あのさー……何で、泣いてたの」
「え?」
「今朝、柳生先輩の前で泣いちゃったんだろ、あんた」


何で知ってるの?
そう言おうと思ったけど、あの時のことを思い出した。
通常の登校時間だし、あそこには沢山の人がいたのだから、切原くんや私の知っている人が混じっていても不思議じゃない。
もしかしたら――柳生先輩自身が切原くんに言ったのかもしれないけど。
でもそんな理由なんてどうでもいいことだ。
黙りこむ私の前でボタンを操作する機械音だけが小さく響く。


「前の彼氏が恋しくなっちゃった?」
「……違うよ」
「あ、そ」


パチパチパチ、カチャカチャカチャ。
時々、切原くんの「あ、くそっ」なんて声が混じる。
正直に言ったら、どうなるんだろう。
あの10分を失ってしまったから――悲しくて、寂しくて、つらくて泣いたのだと。
でも、そんなの私らしくない。
自分の感情をそのまま誰かに伝えるなんて、今まで一度も経験したことがなかった。
素直な感情は少し奥まった所にしまって、いつも落ち着いて笑って。
それが私なんだ。


私は心の中で自分をそう言い聞かせる。
そうしたら、そんな自分に反抗するように涙が落ちて、スカートに黒い染みを作った。
慌てて私は深呼吸する。
けどそれは手遅れで、ボタボタと後から後から涙が零れてしまって、鼻まで啜ってしまった。


「くそっ、んだよ!」


切原くんがゲーム機に悪態をついて、それを鞄の上に放り投げる。
俯いて泣き顔を隠そうと無駄な抵抗をしていた私は、切原くんが苛々と髪をかきむしるところを見ていなかった。


「――俺がお前んとこ行かなくなって清々してただろ?」
「そんなこと……」
「廊下で無視しても、お前は『しょうがない』って思ってたんだろ!?」


切原くんの声が、だんだん大きくなっていく。
私はすぐに言い返せなかった。
だって、確かにしょうがないって思ったから。
切原くんがそうしようって思ったんなら、しょうがない。


「でも――」


こんなの、私じゃない。
そう思ったけど、でももう切原くんの前で、こんな見っともない泣き顔を晒して、自棄になっちゃったのかもしれない。
もう、どうにでもなれ。
私は嗚咽を堪えながら口を開く。


「しょうがないけど……でも、イヤだ」
「は?何だよ、それ」


呆れたような切原くんの声。
大分免疫がついたと思ってたのに、まだこんなちょっとした口調にズキリと胸が痛んでしまう。
でも、こんな痛みくらい、何てことない。
あの時間が失われたことを思えば。


「切原くんに無視されるのは、嫌」


無言のままの切原くん。


「もっと……一緒にいたかったの」


何とか言葉を絞り出して。
そして絞り出した後、私は今さらながら気が付いた。
そっか。
あの時間が好きだったんじゃない。
ううん、あの時間も好きだったけど――私は、切原くんが好きだったんだ。
私はもう何も堪えることが出来なくて、昨日の夜のように泣きじゃくった。
子供みたい。
みっともない。
必死にそう思おうとするのに、抑え込もうとすればするほど、私は切原くんが好きなんだって、心が悲鳴を上げた。


気が付くと、切原くんの手が私の頬に伸ばされてる。
その手に促されるまま恐る恐る顔を上げると、片膝を立ててすぐ傍に切原くんの顔があった。
彼が私の頬を舐めて涙を掬い取る。
「しょっぱ」って小さく笑って、瞼にそっと唇を寄せる。
そしてそのままその唇が下まで降りて来て、私の唇に触れた。
優しく、慰めるような、愛撫のようなキス。
私は、そんな彼の唇にちょっとびっくりした。
だって、彼は普段すごく子供っぽいのに、そのキスは大人みたいで、すごく優しさに満ちてたから。
少しだけ開いていた私の唇の間から舌を滑り込ませて、そろりと上顎を舐める。
そして顔を離した後、泣くのも忘れてキョトンとしている私を見て、切原くんは可笑しそうに笑った。


「何だよ、彼氏と半年も付き合っててキスしたことないとか言わねーだろ?」
「――っ、余計なお世話っ」


私は反射的に言い返した。
けど、こんな――気持ちいいキスはしたことがなくって、私はただでさえ赤い顔をさらに真っ赤にした。
そんな私の鼻をつまんで、切原くんは「よくできました」なんて言う。


「まさか……わざと、無視したの?」
「んなわけねーじゃん!俺そんな駆け引きしたくないし。あれは……本当に怒ってたんだよ。お前、彼氏と別れても平気な顔して『大したことない』って言うし。そんじゃあ、あいつから奪って俺のものにしても最後は仕方ないって言うのかよって思ったら、すっげームカついたから」
「え……」


奪って?俺のもの?
私は混乱して、瞬きしながら彼を見上げる。
すると彼は、また顔を寄せて来て、ちゅ、と音を立ててキスをした。


「最初はあの大人びた顔とか仕草とか、すげーいいと思ったけど、こうやって子供みたいなお前もいいよな」
「え……え?」
「だからー。俺、お前のことが好きだって言ってんの。最初っから」


じゃなきゃ、わざわざ少ない小遣いでジュースなんか買ってくわけないじゃん!
そう言ってくしゃくしゃと私の髪をかき回して、またキスをして来た。
でも今度はすぐに離れず、何度も啄ばむように触れて、そしてまた隙間から舌を入れて来る。
強引じゃなくて、柔らかさを味わうようにゆっくりと舌が絡められて、舐めとられる。
別に舌を絡めるキスだって初めてじゃなかったはずなのに、どうしたらいいか分からなくなって――でも、怖くなるくらいの気持ちよさに、私は自然と声が出てしまった。
そんな自分にびっくりして思わず離れようとしたけれど、気が付くと後頭部が切原くんの手に支えられていて、その快感から逃れることが出来ない。
本当に、びっくりした。
だって、お腹の下の方がきゅってして、自分でももう濡れてしまってるって分かったから。
キスしかしてないのに。
しかも、さっき、好きだって改めて認識したばっかりだったのに。


切原くんの優しい唇と舌の動きに力が抜けそうになりながら、私はもっと快楽が欲しくなる。
すごく恥ずかしくって、涙の出そうになる私に、切原くんが追い打ちをかけた。
彼の手が、太腿を伝ってスカートの中に入り込んできたのだ。
下着の上から触れて、切原くんは意地悪く笑う。


って、感じやすいのな」
「そんなはずない……っ」


私の抵抗の言葉が、逆に彼を煽ったのだろうか。
さらに意地悪く口の端を上げて、私を床に押し倒す。


「ふーん?じゃあ、俺にだけ感じやすいのか」


そんなんじゃないって言い返そうと思ったのに、そこを刺激されて恥ずかしい声しか出なかった。
力が入らない。
もう何も考えられなくなって、言い訳も思いつかなくて――私はその時初めてイクと言うことを知ってしまった。








っ、俺今度の数学マジでやばい!助けてくれよ!」


騒がしい声と共に、赤也くんが現れる。
席替えをして私は窓際の席になったけど、彼は真っ直ぐ私のもとへやって来て数学のテキストを広げた。


「え……私、数学はそんなに得意じゃないよ、真田先輩とかに教えてもらった方がいいよ」
「だめだめ!あの人お説教ばっかで全然先に進まねーもん」
「それは赤也くんが真面目に説明を聞かないからじゃないの?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと図書室行こうぜ!」


人に教わろうって言うのに、ごちゃごちゃって言い草はないと思う。
私は非難の目を向けたけど、赤也くんはそんなの気にしない様子で私の腕を引っ張って行く。
自信のないまま彼に数学を教えていると、いつものように柳生先輩が声を掛けて来てくれた。
大体昼休みに赤也くんと図書室に行くと柳生先輩に会うことが多い。


「おや、またお勉強ですか?」
「あ、柳生先輩!よかった、赤也くんに数学教えてあげて下さい。私、そんなに得意じゃなくって」
さんなら大丈夫ですよ。人に教えることで自分の理解もより確かなものになります」


眼鏡に手を遣りながら、ニコリと笑う柳生先輩。
こう言う時は決して助けてくれない。
きっと、私なら出来るって思ってくれているから、甘やかしてくれないのだと思う。
ふうとため息をつく私の背後から、別の人の声。


「ほう、お前さんが赤也がメロメロっちゅう子か」
「なっ……仁王先輩、余計なこと言わないで下さいよ!」


振り向くと、そこにはニヤニヤと笑う仁王先輩。
色々と有名な先輩だから、私も顔と名前位は知っていた。
ペコリと頭を下げると、ぽんぽんと頭を撫でられた。
ビックリしていると、赤也くんが立ち上がって叫ぶ。


「気安く触んないで下さいよっ!」
「切原くん、静かにし給え。ここは図書室ですよ」
「くそっ」
「赤也くん、落ち着いて」
「とか言って、お前も顔赤くしてんじゃねーよ!」
「してないよ!」


私も思わず立ち上がりそうになって、柳生先輩が「しーっ」と唇に指を当てた。
恥ずかしくて、慌てて俯きながら座り直す。
最近は赤也くんの指導のもと、なるべく感情を表に出すように練習していた。
そんなの私には無理だって最初思っていたんだけど、赤也くんの嬉しそうな顔を見ていたら、だんだんと出来るようになって来た。
でもこう言う時は、そんな練習しない方がよかったんじゃないかって思ってしまう。


さんはすっかりお元気になられましたね」
「え?」
「やはりあなたは笑顔の方が似合ってます」
「……って、!お前照れてんじゃねーよ!」
「て、照れてないって!」


嘘。ちょっと恥ずかしかった。
そんな私を見てクスリと笑った後、柳生先輩が赤也くんの方を向き直る。


「切原くん。いかなる時も女性を泣かせたりするものではありませんよ」
「……でも啼かせるのはいいんでしょ」
「何か仰いましたか?」
「何でもないっス!」


何でもなくない。
こんな所で何てことを言うんだろう。
私は顔を赤くして赤也くんを睨んだ。
きっと仁王先輩にも赤也くんの台詞が聞こえていたに違いない。
「お邪魔虫は退散しようかの」と言ってまたニヤニヤと笑い、柳生先輩を連れて去ってしまった。
そんな二人の背中を睨みつけ、そして姿が見えなくなると私の方を向き直って、ニヤリと笑う赤也くん。


「何真っ赤んなってんの」
「……別に」
「思い出しちゃった?昨日のこと」


そう言って、私の顔を覗き込むように見て意味深に笑う。
ここで思い出したら赤也くんの思うつぼなのに。
私は昨日の赤也くんの家でのことを思い出して、これ以上はないくらい顔が熱くなってしまった。
ううん、たぶん顔だけじゃなくて、全身。


「次の授業サボっちゃう?」


耳元で囁く赤也くんに、私は必死に冷たい視線を向ける。


「数学、小テストなんでしょ」


私がそう言うと「あーあ、あの時は、ムチャクチャ素直なのになぁ」とつまらなそうに言う赤也くん。
私は思い切り睨んで、スカートの中に伸びて来た彼の手を思い切り抓った。