unknown reason




「あいたたた……」


階段を昇ろうとしたらお尻のあたりに鈍い痛みが走った。
何だか妙なところばかりが筋肉痛になってしまっている気がする。


「どうしたんスか、先輩。ばーさんみたいなカッコして」


背後の声に振りかえろうとしたら、肋骨の辺りがズキズキした。
こんなところにも筋肉なんてあったのか。


「……筋肉痛」


「先輩」とか呼んでおきながら、こんな失礼なことを言う後輩は一人しかしらない。
顔を見ずに私がそれだけ答えると、また呆れたような声が返ってきた。


「きんにくつー?あ、まさか、昨日の練習で?」
「その、まさか、だけど。悪い?」
「うわっ、先輩、だっせ……」


ジロリ。
何とか首だけ後ろを向いて、彼―――切原くんを睨むと、慌てて口を噤んだ。遅いっての。


今月末にある球技大会。
私は何故か未経験のテニスに出ることになってしまった。
数ある競技の中で、決して競争率が低い種目ではない。
―――なのに、隣りの席に座る女たらしのテニス部元レギュラーが、何を面白がってか私を推薦しやがったのだ。
もちろん球技大会のテニスにテニス部員は出られないのだけど、テニス部を挫折して辞めた生徒とかが大勢出るためにそれなりにレベルが高い。
私は無理だって激しく主張したんだけど、その女たらしのテニス部元レギュラーが「一か月で優勝出来るように鍛えてやる」とか訳の分からないことを言いやがったために、クラスの皆は訳の分からないまま「おお……」とか拍手しちゃって私の意見など聞き入れちゃ貰えなかった。


「もうだめ。今日はとても授業なんか受けられない。帰る」
「んなこと言っても、どうせまた放課後特訓でしょ?仁王先輩、家まで迎えに行っちゃいますよ?」
「こんな体じゃテニスなんて出来るわけないっ!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。案外何とかなるもんですって」


先輩、教室三階でしょ?早くしないと遅刻っすよ!
そう言って切原くんが私の手をぐいと引っ張る。
体中に走る激痛に泣きそうになりながら悲鳴を上げたけど、「大げさなんだから」とか言って気にせずぐいぐいと引っ張って行った。
こいつ絶対Sだ……っ!






球技大会の練習のために開放された、テニスコートの一画。
放課後、「今日は無理!」と言う必死の訴えなど完全無視で、私はズルズルとここまで引き摺られて来た。


「死ぬ!仁王、死ぬー!」
、そう言う台詞はベッドの上で言ってくれんか」


コートの端、準備運動の柔軟で背中を押された私はギシギシ言う身体に叫ぶけど、それだけ叫ぶ元気があるなら平気だと、仁王は容赦がない。
この人は何故か時々こうやって思い出したように私を訳の分からないことに巻き込むのだ。
そう言えば、二年の時にはテニス部のマネージャーの手伝いなんかもやらされたことがある。
私は気が利かないから無理だと言ったら、洗濯や荷物運びくらいできるだろうと、体力勝負な仕事専門に三ヵ月くらいやったっけ。
新しいマネージャーが決まってお役御免になった時には、日焼けはするわ、腕は逞しくなるわで、ちょっと、女としてどうなんだと問いたくなるような姿だった。


「うるさいぞ、。練習の邪魔だ」


のたうち回る私の前に、黒い影が立ちはだかる。
コートにゴロンと寝転がったまま見上げると、ラケットを肩に担ぐような恰好で仁王立ちしている真田くん。
この人は昨日もここに来ていた。
……と言うか、この私の筋肉痛の原因の大半は彼だ。
引退後も後輩の指導のためによく部活に顔を出していると言う彼は、昨日、コートで練習している私を見ていられなかったらしく、私の指導までし始めた。
このオッサン顔の真田くんが、手取り足取り腰取り教えてくれるはずもない。


、たるんどる!」


私は一体何の大会に出るんだったっけ?
思わず朦朧とする頭でそんなことを問いかけてしまいたくなるようなスパルタぶり。
いや、面倒見のいいのはいいことだと思う。
けど少しは手加減ってものを知らないんだろうか。


「ホントに死にそうっすねー、先輩」


ゴロリ、と転がって反対側を向くと、しゃがみ込んだ切原くんが呆れ顔で私を見下ろしていた。


「そんなに筋肉痛酷いんスか?先輩ってそんな運動音痴でしたっけ?」
「……君たち化け物に比べたら、どんな人間でも運動音痴だと思うよ」


背中をさすりながら恨めしげにそんなことを言っていると、別のテニスシューズが視界に入って来た。


、そんな所に寝転がってると蹴っ飛ばすよ?」


そのシューズを上に辿って行くと、その不穏な台詞とは裏腹に美しい微笑をたたえている元部長。
出た、化け物の代表格。
何でだろう、この人はたまにこうやって直球な表現をする。いつもはもうちょっと歯に衣着せた言い方するくせに。
どっちにしろ怖いけど。


「あっ、幸村部長!」
「今は君が部長だろ?赤也」


ふふ、と笑顔を切原くんに向けながら、その右足は軽く蹴り上げられる。
間一髪でそれをかわし、私はムクリと起き上がった。


「……何で幸村くんまでいるの?」
「俺が後輩の面倒を見たらおかしいかい?」


面倒を見るって言うより、単にビビらせてるだけのような気がするけど、黙っておこう。


「何か言いたげだね?」
「滅相もございません」


私はジャージの砂埃をパンパンと払ってごまかす。
……しかし、たったこれだけの動作でも足がズキズキする。


「実は今朝、真田からがテニスの練習をしているって聞いてさ。俺も練習に付き合ってあげようと思って来たんだ」


面白そうだから。
言外に含むその言葉に、私は一瞬にして総毛立つ。
幸村くんに教わるくらいなら、全身痛くなってもまだ真田くんの方がマシだ。
この人も仁王と同じように、たまに思い出したように私の嫌がることを楽しそうにやる。
私はブルブルと首を横に振った。


「遠慮します!」
「そんなに照れなくてもいいのに」
「いいや!幸村くん相手じゃ、ドキドキしちゃって出来ないし!あっ、切原くん教えて!!」
「えっ、俺っすか?」


隣りにいた切原くんの腕を引っ張ってから思い出した。
夏に見に行った全国大会の試合。
―――彼が一番危険かもと思ったけど……いや、やっぱり一番アブナイのはあの魔王だと思う。


「―――俺じゃドキドキしねぇんだ」


ボソリ、と切原くんが何か言ったような気がしたけど、私は幸村くんたちから離れることに頭がいっぱいで、よく聞こえなかった。








「何なんスか、その鬼ババアが包丁持つような握り方は」
「ちょっと!もうちょっとマシなたとえ方をしてよ!」
「昨日仁王先輩に教わってませんでした?」


あんなのは教わったって言わない!
大体、ラケットの握り方もそこそこに、姿勢がどうのとか言って、人のお尻触って来て!
どこのエロコーチよ!!
私が昨日の仁王に憤慨していると、切原くんがヒョイとネットを越えてこちら側のコートに入って来た。
そして私の横に並び、こうやって持つんですよ、と握り方を見せる。


「こう?」
「いや、だから、そうじゃなくて」


私の手をラケットからベリベリと剥がし、代わりに自分でそれを握ってみせる切原くん。
その後、私も真似して握ってみる。
と、私の手の上に切原くんの手。


「……で、こうやって振るんですよ」


そう言って、そのままフォームの練習。
う、うわ、声が近い。
切原くんの声って、こんな声だっけ?
切原くんが動くたび、少しだけ切原くんの匂いがする。
―――私は汗臭くないだろうか。
思わずそんなことを考えてしまうと、うまく動けなくなる。
……いや、それ以前に筋肉痛が……。


「俺だと平手打ちだったのに、赤也だと随分と大人しいんじゃの」


いつの間にか後ろに来ていた仁王の、笑いを含んだ声。


「真っ赤な顔して、ったら。純情な女の子みたいで気持ち悪いね」
「……たるんどる」
「ちょっと!後ろで好き勝手なこと言わないでよね!」


そう叫んではみたけれど、何だか迫力がないなって、自分でも思った。
……だって、顔が熱いのは自分でも分かってたから。


「―――ドキドキしました?」
「えっ!?」


私の手を放した切原くんの声が、耳元で響く。
その聞いたことのないような声色に、私は慌てて彼から離れた。


「な、なに……っ!?」
「少しは俺にもドキドキして下さいよ。―――いつも俺ばっかりドキドキしてるんスから」


え?なに?何て言ったの?
後半はボソボソと小さい声だったから、よく聞き取れなかった。
そんなに顔を赤くするような台詞って、なに!?


「あれ、赤也まで顔が真っ赤だ。部活中に―――いい度胸だね」
「ああ……真面目にやってくれんかのぉ。が優勝せんと、B組の池谷と付き合わなきゃらなんのだ」
「ちょっ、ちょっとー!仁王、何賭けてんのよっ!」


私が拳を振り上げると、慌てて逃げ出す仁王。
勢いで走りだす私。
後ろから聞こえたのは、切原くんのため息。
筋肉痛に耐えながら走る私は心の中で呟いた。


どきどきしたよ。
……不覚にも。