クラスメイト




彼女は同じクラスだったが、夏休み明けに席が近くなるまでは殆ど関わりがなかった。
と言う名前を聞いて、ああ、そんな名前のクラスメイトもいたような気がする、と思う程度。


「あ、忍足くん。よろしくね」


後ろの席になった彼女が、机の上に荷物を置きながら、にこにこ笑ってそう挨拶して来た時も、それ程の感慨があった訳でもなかったはずだ。
「ああ」とも「うん」ともはっきりしない忍足の返事など気にすることなく荷物を整理し始める彼女。
その様子を見ても、元気でマイペースな子だなと思うくらいだった。


毎朝、始業のベルが鳴る直前に教室に滑り込んで来て、息を切らせながらもいつも笑顔で「おはよう」と言う。
5分早く起きればいいのにと思いながら「おはようさん」と短く返すのが日課で、後ろで慌ただしく授業の準備をしている様子を背中に感じながら、相変わらずだなと思うのも日課。
でも、それだけの、ただのクラスメイト。
暫くしたらまた席替えがあって、席が離れて、やはりまた「ああ、そんな子がいたな」と言う存在に戻るのだろう。
具体的にそう考えていた訳ではないが、漠然とそんな風には思っていた。


後ろからプリントを集める時、いつも忍足が振り返るより先に勢いよくそれを前に突き出して来る彼女に、ほんの少し眉を顰めながら「もうちょっと大人しく出せないのか」と心の中で抗議したり。
そのくせ前から回って来た配布物を忍足が差し出した時には、いつも丁寧に「ありがとう」と言うので面食らったり。
昼休み、お弁当の後にとろけそうな笑顔を浮かべながら市販の大きなプリンを友人と食べる様子を見ながら、大した運動もしないのにそんなに食べてよく太らないな、なんて思ったり。
そんな忍足の視線に気付いた彼女が、実はプリンを食べたいんじゃないのかと勘違いして「食べる?」とプリンをスプーンに一掬い差し出して来るのを見て、「いや、遠慮しとくわ」と答えながら心の中でため息ついたり。
そのスプーンの上のプリンがプルプルと震えて、そのままポトリと机の上に落ち、彼女とその友達の悲鳴が教室中に轟いて、背中を向けながら呆れたり。
そんな日常は取るに足らない些細なことで、いつか、まるでなかったかのように忘れる。
そう言うものだろう。
今までもそうだったのだから、考えるまでもなく。




夏休みが明けて何回目かの日曜日のことだ。
部活がオフで、特に用事もなく、忍足はちょっと大きな本屋に行った。
通学の電車内で読む本はいつも学校の帰りに通り道の本屋で調達するので間に合っていたが、数学の参考書も探したかったし、ぶらぶらするのもいいかと思ったのだ。
そして店内で小一時間検討の結果、一冊の参考書を購入し、ついでに文庫本も一冊手に取った。
「今秋映画化決定」の帯の付いた、べたべたの恋愛小説。
ネットでは今イチと言う評判も多く見かけた本だが、まあとりあえず読んでみようかと思った。
満足いく参考書を手に入れることが出来て、気が大きくなっていたせいもある。


店を出て、早速そのカバーをしてもらった文庫本を開きながら、駅の改札口へと向かうエスカレーターに乗った。
少し長めのエスカレーターで、読むのが早い忍足なら、降りるまでに軽く2ページくらい読める。
そして、1ページを読み終えた頃、「あっ!」と言う小さな声がどこからか聞こえて来た。
反射的に顔を上げると、反対側の下りエスカレーターで、目と口を大きく開けたの姿。
忍足も思わず目を見開く。
咄嗟にその自分の乗っているエスカレーターを逆走してしまいそうになったが、それを寸でのところで思いとどまったのは、彼女が全く同じ行動を取ったからだ。


「え?あれ?何で?忍足くん!?」


顔に思い切りハテナマークを散りばめながら、彼女がエスカレーターを逆走しながら忍足との距離を縮めようとする。
同じエスカレーターに乗っている人の驚いた顔、迷惑そうな顔。
しかし人の迷惑以前に、彼女の足がもつれて危なっかしい。
ほら、普段運動していないからだ。
何となく場違いな感想を一瞬抱きながら、忍足はエスカレーターの速度に負けてどんどん離れて行く彼女に向かって叫ぶ。


「あほ!何しとんねん!下で待っとき!!」


公衆の前で、そんな大声を張り上げるなんて、忍足らしいとは言い難かった。
しかし彼自身はそんなことに気付かない。
余裕がなかったのだ。
そして何故余裕がなかったのかも分からない。


忍足は、止まっていた列から抜け出して、エスカレーターを駆け上がる。
そして急いで反対側に回り下りのエスカレーターに乗ったら、今度は何故か上りエスカレーターに彼女の姿が。


「あほか!自分!待ってろ言うたやろ!」


人目も憚らず「あほ」を連発する。
彼女の方も「あほじゃない!」と大声で抗議する。
今度こそ待ってろ、いや忍足くんが待っててよ。
そんなやり取りの後、結局また互いに別方向のエスカレーター上で互いの姿を見つける。
今度は二人とも無言で、彼女の方は忍足に冷たい視線を向け、忍足の方は目も合わせなかった。


学習した忍足が、上で動かずに待つ。
暫く彼女の来る様子がなかった。
たぶん彼女も今、下でじっとしているのだろう。
そして「あれ?」と互いに思ってエスカレーターに乗ったら、また同じことの繰り返しだ。


数分後、ようやく上りのエスカレーターに乗って現れた彼女。
その、ふくれっ面を見て、忍足は何故だか妙に、ほっとしてしまった。
思わず笑い出しそうになるのを得意のポーカーフェイスで隠す。
この時はそれくらいの余裕が出て来ていたのだ。


「自分、あほやろ」
「あほじゃないよ!」
「いや、あほやろ。他人の迷惑も考えんと――」
「忍足くんだって似たようなもんでしょっ」


口を尖らす彼女を前に、忍足は少し前の自分の行動を思い返す。
思い返したくない。
眼鏡の位置を軽く直しつつ、再び彼女に視線を戻す。
この時は堪え切れず、忍足は表情を崩した。
つられるように彼女も笑った。


何で逆走なんてしようと思ってしまったのだろう。
何で何度も同じエスカレーターを行ったり来たりしてしまったのだろう。
何で、彼女を待ってしまったのだろう。
普段の忍足であれば――恐らく他のクラスメイトであれば、さっさと駅に向かっていたはずだ。
考えたくない。
ほんの少しでも考えると、妙にこそばゆくなる。


「忍足くん、何でこんなとこにいるの?」
「何でって――そこの本屋に行ってたんや。家から近くて一番大きな本屋言うたらそこぐらいやし」
「えーっ、そうなんだ!私、ここからバスで10分くらいの所に住んでるんだよ」
「ふぅん」
「うわ、興味なさそうな返事!」
「んなことあらへん。いやー貴重な情報やわ」


棒読みでそう返事すると、彼女は「ムカつく!」と言いながら体当たりして来た。
そうやってすぐ暴力に出るのはどうなんだ。
心の中でそんなことを呟きながらも、何故だか不快にならない。
変なこそばゆさが倍増するだけだった。


何の本を買ったのかと聞いて来る彼女に、袋の中に入っていた参考書の方を見せてやる。
案の定、苦虫を噛み潰したような顔をした。
休みの日にそんなものを見せないでくれとでも言いそうな目。
聞いて来たから見せただけなのに、随分な反応だとばかりに肩を竦める忍足。
僅か数分の間に、こそばゆさが、心地よさに変わって来る。


手に持っていた文庫本に視線を落とす。
それを見せたら、彼女はどんな反応を見せるだろうか。
今秋公開と言う映画に誘ったら、どうするだろうか。


「もう一冊はこれや」


忍足はそれを彼女の方に差し出した。