ハザマ




忍足がレッスンを終えて廊下に出ると、隣りの小部屋にがいるのが見えた。
待合室に使用されている小部屋、壁際につけられた簡易なソファに腰かけて、膝の上に置かれたスコアに視線を落としている。
その熱心な様子に忍足は口元を緩ませながら、開いたままになっているドアを叩く。


「終わったで」


自分の声によってスコアから顔を上げられた彼女の、一瞬現実とも夢ともつかないような目。
すぐに現実に引き戻されてドアの脇にいる忍足を見てちょっと微笑うのだけど、その直前のこの一瞬の目を見るのが、密かに好きだったりする。
それはたぶん、あまり趣味のいい好みではないだろうと分かっているので、本人には言わないが。


「今日は終わるのちょっと早めじゃない?」
「ああ……練習さぼったんがバレて、先生がキレてもうたんや」
「……その後にレッスンする人の身にもなってよね」


半分本当で半分嘘の忍足の話に、はやれやれとため息をついて、バイオリンケースを片手に立ち上がる。


「ま、後のフォローは頼むわ」
「……私の方をフォローしてほしいよ」
「それはいつでもOKやで」


わざと軽く言う忍足に、それを分かってか分からずかは大げさに肩を竦めた。
そんな彼女の手から、何とはなしにスコアを奪う。
シューマンのバイオリン・ソナタ。
随分難しい曲をやっているんだな、と半ば感心しつつパラパラとページを捲る忍足。


でも、こんな情熱的な曲弾くんやな」
「―――忍足くんは見かけによらず繊細な曲が多いもんね」
「俺の場合は見たまんまやん」
「繊細な人は毎週のようにデートの相手を変えないと思うよ」


ため息交じりにそう言って、スコアを奪い返す。
その様子はちょっと非難めいているようにも、無関心なようにも、どちらにも見える。


「見てたん?」
「ちょうど忍足くんの定番のデートコースと、私の通学路が重なってるみたいだね」
「声かけてくれればいいのに」
「無駄な諍いは避けたい」
「別に諍いになんかなったりせぇへんやろ。同じ音楽教室に通う生徒ってだけなんやから」
「……そうだね」


はまだ何か言おうとしたようだけど、途中で諦めたらしくスコアを胸の前に抱え、そのまま先生の待つ部屋へと消えて行った。
忍足が玄関の扉を開けた時、調弦の音が奥の部屋から聞こえてくる。
どちらかと言うとあの先生とは全く逆の印象を持つ彼女。
先生の選択間違えたんちゃうんかなぁ。
いつもそんなことを思いつつ、彼は教室を後にする。






忍足が彼女に初めて会ったのは、やはり今と同じ、小部屋。
それまでは忍足が土曜のレッスンの最後の生徒だったため、レッスンの時間が長引いたりレッスン後の無駄話が長くなったりしていたが、彼女の登場によってそれらの習慣がなくなってしまい、最初は少なからず不満に思った。
音大を出て間もないと言う先生は、気が強くて、大人で、彼の好みの女性の範囲内。
そんな自分の恋路を邪魔する彼女は、まだ幼さの残る顔立ちの同級生。
初めのうちは、忍足が声をかけても大した反応を返しもしなかった。
それが人見知りのせいだと後になってから知ったけれど、その彼女の様子に身勝手にもため息が漏れたものだ。


忍足のレッスンが終わると、大概彼女は小部屋で膝の上にスコアを広げている。
目を閉じて、時折顔を上げて正面を見つめて。
その集中力はすごくて、忍足がちょっと声を掛けた位では全く気付かない。
どうせ彼が終わったことを告げなくても、暫くすれば先生が呼びに来るだろう。
そう思ってそのまま放って帰ることが多かった。
けど、何故かその日は何としてでも自分に気付かせたくなって、ドアを叩く力を強めた。


「―――終わったけど」


いつもより少し大きめの声を掛けると、ゆっくりと目を開き、ドアの方を見る。


「―――うん、ありがと」


その時の表情が、一瞬で彼の何かを変えたらしい。
それ以来先生との雑談の時間がなくなってしまったことなどどうでもよくなり、レッスン後に小部屋を覗くのが楽しみになった。
我ながら現金だと思いながらも、こればかりはどうしようもない。


「―――見られてたんか」


他の女とのデート。
―――デートとも言えるのか分からないような、ままごとじみた遊び。
別にコソコソと隠れていたわけではないのだから、見つかってもおかしくはない。
けれど、彼女に真正面からああも淡々と告げられると、少なからずショックを受けるものらしい。
つい、深いため息。








「侑士、今月末にSホールである室内楽のコンサート、行かない?」


次の週、忍足がレッスンを終えると先生がコンサートのチケットを二枚差し出してきた。
デートのお誘いですか?と意地悪く笑いながら聞くと、別の用事が出来てチケットが余っちゃったのよと、あっさり冷たく返される。


「中にはクラシックのコンサートに一緒に行ってくれるような彼女もいるでしょ?」
「さあ、どうやろ?」


知り合いにクラシックが好きな女の子もいるにはいたが、何となく彼女たちを誘うのは面倒な気がした。
誘うんやったら―――あいつか。
その時頭に浮かんだのは、たぶん、今隣りの小部屋にいる人物。


「せっかくだから貰っときます」
「そう?じゃあ、行ったら感想聞かせて頂戴」


部屋を出て、チケットをひらひらとさせながら小部屋へ向かう。
そしていつものようにドアをノックしようとして―――その手が止まった。
いつもいるはずの姿が、そのソファにない。


「今日は遅刻か?」


彼女が来るのを待とうかと思ったけれど、あと5分でレッスン開始の時間。
今すぐ彼女が現れたとしてもロクに会話することも出来ないだろう。
ちょっとは誘うのに緊張したんやけど。
身勝手な不満を心の中で呟きつつ、チケットをバイオリンケースにしまう。
帰る途中で会えるかと思ったけれど、結局その姿を見ることなく駅に着いてしまった。


次の週も、彼女は小部屋にいなかった。
二週連続で遅刻?
忍足はガランとした部屋を前に訝しげな表情。
コンサートは来週末。
今日誘わないと、もう日がない。
ため息をつく彼の前に、部屋から先生が現れた。


「先生、は最近来るの遅いん?」
さん?ああ、さんは先週からレッスンの時間を1時間遅くしたのよ」
「―――え?」


聞いてない。
そう言いかけて慌てて口を噤んだ。
別に忍足に言う筋合いはないのだから、当然のことだ。
でもなぜ急に?
そんな彼の疑問が顔に表れていたのだろうか、ちょっと意外そうに目を大きくした先生が続ける。


「学校の委員会か何かで遅れちゃうからってね」
「土曜のこんな時間まで委員会?」
「知らないわよ、そんなこと」


何故だか忍足の中にもやもやとした黒いものが広がった。
その何かを払拭しようと前髪をかき上げるが、訳の分からない苛立ちが湧き上がってくるばかり。
肩を竦める先生の姿に、冷静さを取り戻そうと深呼吸するがどうもスッキリしない。


「どうしたの、侑士?」
「何でも……」
「ふうん?久し振りにお茶でもして行く?」
「いや……帰るわ」
「そう」


僅かに顔を傾けて、肩にかかった髪を払う先生。
気まぐれに意地悪な微笑を浮かべて。


さんの通ってる学校ね、駅と反対の坂道を上って行くとすぐそこに見えるのよ?」


そんな挑発に乗ると思っているのだろうか。
手をひらひらとさせて奥へと消えていく先生を一瞥し、忍足は反対方向の玄関へと足を向ける。
門をくぐり、右へ行けば駅。左へ行けば―――


「―――まあ、ええわ」


敢えて乗ってやろうやないか。
バイオリンケースを背負い直し、忍足は左に曲がった。






確かに先生の言うとおり、坂を上りきると学校が現れた。
いつも彼女が着ているものと同じ制服姿の女の子達が、校門から出てくるのが見える。
その中に、同じような色合いのブレザーを着た男子生徒の姿を見つけ、一瞬、胸のあたりがむかつく。
その不機嫌さを隠しもせずズカズカと校門の方へ進んでいく忍足に、周囲の生徒達はチラチラと好奇の視線を向けた。
この辺りで氷帝の制服を目にすることは滅多にない。
もちろん、女子生徒達の視線の理由はそれだけではないだろうが。


校門脇の柱に寄りかかり、忍足は腕時計に視線を落とす。
レッスンを一時間遅らせた、と言うことは、もし学校から直接向かうならあと30分以上は出てこない可能性がある。
それに、第一、今、本当に校内にいるのかどうかも分からない。


何、やっとるんやろ。


相変わらず、通りすぎる生徒達の不躾な視線。
それ自体は大して気にもならなかったけど、不意に自分が馬鹿らしくなる。
たかだかチケットを渡すために―――


あほらし。


空を仰いで柱から身を起こし、最後に未練がましく学校の敷地内に目を向ける。
そしてその直後に後悔した。


「―――何なんや、このベタな展開は」


目の前の光景に、思わず声が洩れる。


「……忍足くん」


呟くようにその名を呼んだまま、思わず足を止める
その隣りを歩いていた男は、忍足を見てあからさまに訝しげな顔をした。


の知り合い?」
「うん……同じヴァイオリン教室に通ってる生徒さん」


それは忍足がこの前彼女に言った言葉そのまま。
あの時何てことなく発した自分の台詞が、思った以上の鋭さで自分を貫く。
そしてその彼女の言葉に余裕を取り戻す男の顔を見て、胸糞悪さまで加わった。


「―――話、あるんやけど」
「私?」
「自分以外に誰がおんねん」


本当は腕を掴んで引き寄せたかったけれど、彼女が自ら自分の方へと来るのを待った。
隣りに立つ男への下らない虚栄心。
そんな自分を鼻で笑いつつ、まだ足が止まったままのを見る。
何となく教室で見る時の雰囲気とは違う忍足に、は一瞬躊躇いの表情をしたが、肩に掛けたケースの紐をぎゅっと掴んで隣りに立つ男子生徒の方を見た。


「……じゃあ、私、レッスン行くから。また来週ね」
「え?ああ……うん……」


予定外の展開に戸惑う男。
淡々と別れを告げて自分のもとを去るに、あからさまに落胆の色を浮かべ、次の瞬間には忍足の方を見て威嚇のような表情。
その顔を見て、この二人には何もないことを悟り、忍足はその男に向かってわざとらしく口の端を上げて見せた。
どっちもどっちやな。
心の中で自分に毒づきながら。


「レッスンの時間、変えたんやて?」
「うん。文化祭が終わるまでだけど」
「文化祭?委員会って……文化祭関係なん?」
「うっかり選出されちゃって」
「そんなん、うっかり選出されるか?あの男に誘われたんちゃうんか?」
「……別に誘われたわけじゃないよ」
「でも、あの男が絡んでるのは一緒ってワケや」


二人の間にまだ何もない。
それだけが分かっても、どうやら忍足の中の気分の悪さは拭いきれないらしい。


「―――話って、何?」


何だかほんの少しの沈黙も怖くて、隣りを歩く忍足を見上げる


「ああ―――何やったっけ」
「ちょっとー、何よ、それ?」


本当に当初の目的などどうでもよくなって、忍足は鬱陶しそうに前髪をかき上げた。
隣りで口を尖らせる彼女。


「そんな大したことない用事でわざわざ学校まで来たの?」
「悪かったなぁ、大したことない用であの男との帰り道を邪魔して」
「……つっかかるね」


非難の目を向ける彼女に、沈黙で返す。


「―――本当に何の用?」
「さあ、何やったやろ」
「いい加減、ふざけないでよ」


本当の用が一体何だったのか、実際彼自身にも分からなくなってくる。
怒ったような声を出しながらも、どこか不安げな彼女の視線。
何かに耐えるように噤まれる唇。
でも、このままだとお互い望まざる展開にもつれ込みそうで、忍足は何とか理性を引きずり戻した。


「室内楽のチケット、先生に貰ったんやけど」
「チケット?いつの?」
「今度の日曜」
「今度の日曜は駄目だ。私、文化祭の本番真っ最中だよ」
「でも夜の7時まではやってへんやろ?」
「それはそうだけど……後夜祭もあるし」
「後夜祭なんて、どうせあの男とフォークダンスでも踊るくらいやないんか」
「……氷帝の文化祭では後夜祭にフォークダンス踊るの?」
「んな、踊るわけないやん」
「……ケンカ売ってる?」


睨んで来るに、忍足はチケットを1枚差し出す。
受け取ろうとしない彼女の手に無理やり握らせて。


「9時くらいまでやってるから、来れるやろ」
「……ムチャクチャだ」


彼自身もそう思うので、何も言わずに微笑う。
歩き出す忍足に、立ち止まったままのが何かを言ったけれど、よく聞こえなかった。










彼女が開演時間に間に合うとは思っていなかったから、開演のブザーが鳴っても埋まらない隣りの席に、特に何の感慨も抱かなかった。
400人程度が入れるくらいのホール。
忍足の座る中央の席からは演奏者の表情までよく見える。


彼自身音楽の道に進む気はなかったけれど、こうやってコンサートで生の音を聴くのは、やはり何となく心が潤うようで気分がいい。
最近は部活の方が忙しくて、彼が自分でチケットを手に入れることがなかったけれど。
そんな状況でも、レッスンだけはなるべく休まないようにしていた。
それにはもちろん「レッスン」そのものだったり、先生だったり、色々理由はある。
色々と。


小曲を集めた1部が終了し、休憩時間に入る。
時計を見ると8時少し前。
さすがに後夜祭なんてものも終わっているはずだろう。
自然と忍足の口から洩れるため息。
ロビーに貼られたポスターを見ながら、つい、目が玄関へと向かってしまう。


「―――あほらし」


また、不意に馬鹿馬鹿しくなる。
まるで女の子をデートに誘って一喜一憂している愚かな男のようで。
いや、「愚かな男のよう」ではなく実際に「愚かな男」なのか。
ロビーに集まる客の中に、彼女の姿を探してしまうのだから。


天を仰ぐと、小規模なホールには不似合いな程のシャンデリアが目に入った。
何だかその豪華さがさらに彼の虚しさを煽る。
開演のブザーが鳴るのと、彼の盛大なため息が吐き出されるのとが重なった。
ぞろぞろと吸い込まれるようにホール内へと消えていく観客。
その後ろに続こうとした忍足の足が―――一人の女性の声によって押しとどめられた。


「2部には、間に合った?」


忍足が振り返ると、肩で息をしながら立つの姿。
品の良い濃紺のワンピース。
けど、彼女の呼吸があまりに乱れていて、その姿に見とれるよりも先に笑ってしまう。


「もうちょっと、早く来れるはずだったんだけど……道に迷った」
「道にって―――駅から一本やろ」
「反対側の出口に出ちゃったの!」
「アホやな」
「……すごいムカつく」


睨むけれど、苦しそうな目元に、その迫力も半減。
膝に手をついてしんどそうに息をする彼女を、呆れた表情で見下ろす忍足。


「わざわざ着替えて来たんか」
「だって……汗だくだったし……せっかくのコンサートだし……」
「でももう汗だくやん」


前屈みの彼女の首元に顔を寄せると、微かなシャンプーの香り。


―――もう、一喜一憂する馬鹿な男でええわ。


「そんなに、はぁはぁ言いながら聴いてたら変態と間違われるで」


首筋から耳元に口元を移動させて、完全に獲物を落とす声色で。
発された台詞は、それとはアンバランスな軽口。
息の整わないままにピクリと反応する彼女と、少し離れた所で開演を伝えるべきか迷っている係の女性とが、忍足の視界に入る。


「ほな、行こか」


やや強引にの腕を引っ張って向かった先は、ホールとは反対の出口。
自動ドアを抜けると、幾分ヒヤリとした空気が二人を囲む。


「え、ちょっと待って。コンサートは?」
「そんな汗だくではーはー言わせてたら、周りのお客さんに迷惑やろ」
「で、でも……っ、せっかく着替えてきたのにっ」
「その努力は無駄にはせぇへんよ」


見上げてくる彼女に口角を僅かに上げて、完全に獲物を捕える目で。
その台詞がどういう意味か問いかける代わりには唾を飲む。
彼女の目が熱を帯びているように見えるのは、単にここまで走って来たからだけだろうか?


「―――あかん。限界やわ」


階段を降りてそのまま通りに出るのかと思ったら、彼女の腕を掴んだままクルリと方向転換。
大きな柱と壁の間に彼女を押し込むようにして身動きを封じた。


「お、忍足くん……?」


不安げに、彼の制服のシャツに手を伸ばすその腕を掴んで、壁に縫い付けて。
まだ少しだけ呼吸の荒い彼女に僅かな罪悪感を抱きながらも、その口を塞ぐ。
初めはすぐに解放しようと思っていたけれど、その時の彼女のくぐもった声を聞いて、そんな予定はアッサリと覆した。
彼女の求める酸素をすべて奪いつくすように口内を舌で犯す。


「―――ふ……」


うっすらと開かれたの目を覗き込み―――忍足は小さく笑う。


「やっぱり、この目に欲情してたらしいわ」
「―――え?」


でも、今日は現実に返してやらない。


彼女の問いも自分の呟きも飲み込んで、もう一度深く―――深く口づけた。