気長に




受付終了の札の掛かった病院入口の脇を抜けて、奥の玄関へ向かう。
呼び鈴を鳴らすと、インターフォン越しじゃなくて直接おばさんが扉を開けて出て来た。


「こんばんは、おばさん」
ちゃんやないの。いつこっちに戻ってたん?」


「これ、お祖母ちゃんから」と手に持っていた白の大きなビニール袋をおばさんに差し出す。
中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた枝豆ととうもろこし。
毎年農業をやっている親戚から、お祖母ちゃんちに段ボール一杯に送られて来るものだった。
私が毎年夏休みになるとお祖母ちゃんちに来るのだけど、その時にお隣りの忍足さんちにこれをお裾わけするのが私の役割のようになっていた。


「今スイカ切ろうと思ってたとこなんよ。ちゃんも食べてって?」


さあ、上がって上がって。
そう言ってスリッパを出してくれるおばさん。
私は、玄関の端に寄せてあった大きなスポーツシューズをなるべく見ないようにして、自分の靴を脱いだ。


「もうじき謙也たちも帰って来ると思うわ」
「あ、もしかしてお祭り?」
「そうそう。去年謙也の方が射的で負けたらしくてなぁ、リベンジや言うて明るいうちから出掛けてったわ」


リベンジ。
誰に負けたかなんて考える間もない。
おばさんはスリッパをパタパタと言わせながら「侑ちゃんも来とるんよ」と明るい声で付け足した。
「そうなんだ」と言った私の声は、ちゃんと普段通りだっただろうか。


おばさんが切ったスイカを台所から中庭に面した縁側に運んでいると、玄関の方からわいわいと賑やかな声が聞こえて来た。
帰って来た、帰って来た。
ドカドカと廊下に響くいくつかの足音に肩を竦めつつ、スイカの載ったお皿を下に置く。


「めっちゃ腹立つわ。あれ、俺の銃だけ左に逸れるよう仕掛けられてたんちゃう?」
「自分の実力のなさを道具のせいにしたらあかんわ、謙也」
「あかんわ、謙也」
「黙れ、翔太!」


私に最初に気が付いたのは、謙也くんの攻撃を避けるためにこちらに走って来た翔太くんだった。
翔太くんは二つ下の、謙也くんの弟だ。
挨拶もそこそこに「助けて!」と私の背中に回り込む。


「兄ちゃん、すぐ暴力に訴えようとすんねん。成長せーへんやろ」
「ええ加減にせぇよ、翔太!」
はああ言うんと結婚したらあかんよ。兄ちゃんみたいなんがドメスティックバイオレンスて騒がれんねん」
「……翔太くん、難しい言葉知ってるね」
「勝手なこと言うなや!なんて、こっちからお断りや!」


背後の翔太くんに飛びかかろうとする謙也くん。
一足早く、翔太くんが奥の方へと逃げて行く。
逃がすかと駆け出した謙也くんの前にすかさず足を出すと、見事にそれに引っ掛かかった。
慣れない浴衣姿のせいもあるのかもしれない。


「危ないやろ、っ」


前のめりになってよろけたけれど、何とか手はつかずに済んだらしい。
謙也くんが振り返って睨んで来たけど、何のことやら、と白々しくそっぽを向いて見せた。
と、その時後ろから私の頭にポンと乗せられた手。


「何や、反射神経鈍って来たんちゃうか、謙也」
「アホか。たまたまや、たまたま」


私をキッと睨みつけ、ぷりぷりと怒っていた謙也くんは、目の前にあるスイカに気が付くと「おーっ、旨そうやん」と忽ち目をキラキラ輝かせた。
浪速のスピードスターは切り替えも早い。
更にお皿に山盛りで運ばれて来たとうもろこしを見て、翔太くんを追い掛けていたことや私のことはすっかり頭から抜け落ちたらしい。
早速床に胡坐をかき、スイカに齧り付く姿に私はやれやれとため息をついた。
――意識の方は、頭の上に乗せられたままの手にばかり向いてしまってるのだけど。


もこっち来てたんや」
「えっ、あ、うん。昨日からね」


ほんっとに、侑士くんの声は近くで聞くと心臓に悪い。
昔は女の私よりも可愛い声だったはずなのに、いつの間にかこんな低い声になっちゃって。
私はそれに逆らうように、変に高い声になってしまう。
別に、動揺して裏返ってる訳じゃない。


「そうなんや。なら祭り一緒に行けたやん、連絡すればよかったなぁ」
「あ、でも、お祭りなら昨日お兄ちゃんと行って来たよ」
「お兄ちゃんとて……色気ないなぁ」


からかうような侑士くんの口調。
私は後ろを振り返り「別に、皆と行っても色気ないでしょ」と小さく睨むと、侑士くんは「うん?そうか?」と口の端を上げて笑った。
からかうような、意地悪なような――意味ありげなような。
その伊達眼鏡が悪い。
その眼鏡があると、何か裏があるんじゃないかって、余計なことを考えてしまう。
私はふいと目を逸らし、とうもろこしに齧り付いている翔太くんの隣りに腰を下ろした。


「あ、そうや。、これ、お土産」
「ありがとう、翔太くん……って、これ、食べ掛けのあんず飴じゃん」
「まだ一口しか食うてへんから、いけるやろ」
「えー……」


年上を年上と思わない生意気な翔太くんと、しょうもない話をしながら、私はつい、向かいに腰を下ろした侑士くんの方に視線を向けてしまっていた。
すぐ傍にあった団扇に手を伸ばしてパタパタと何度か扇いだかと思ったら、どこからか取り出した黒いゴムで髪を縛る。
邪魔くさいから切ってしまえと言う謙也くんの台詞に、余計なお世話や、とボソリと返しながら、おばさんからおしぼりを受け取って。
そしてスイカをお皿から取る時、目が合った。
いや、違う、たぶん「目を合わせた」と言うのが正しい気がする。
だって、またすごく意地悪い感じの笑み。


「何や、、このスイカ食いたいん?」
「……違うよ!」


わざとらしく的外れなことを聞いて来る侑士くん。
足りなかったらまた切って来るからね、と言うおばさんに、大丈夫です、違うんです、と慌てて答える私を見て、くく、と楽しげに笑う。
他の人に気付かれないようにジトリと非難の視線を向けたけど、侑士くんは全く気付かないふりをして、豪快にスイカに齧り付いた。
蟻が来るからやめて、と言うおばさんの言葉など全く耳に入らずに、スイカの種飛ばし競争をしている謙也くんと翔太くん。
その横で、黙々とスイカを食べる侑士くん。
汁を零さないように、丁寧に。
そのスイカの水分のせいなのか、時折見える舌が妙に生めかしく見えて――次の瞬間には、何馬鹿なこと考えてるんだろって思って、慌てて手もとのあんず飴をガリガリ齧る。


兄弟のバトルは決着が付いたのか、それともこう着状態のままヒートアップしてしまったのか。
今度はWiiで勝負だ、なんて言っている。


も来るやろ?」
「え?いや、私はもうじき戻らないと」
「えー、そうなん?って、侑士は何ノンビリ食っとんねん!」
「お前らと一緒にすなや」


後で行くわ。
そう言って、侑士くんはのんびりと麦茶を飲む。
早く来いよと言ったかと思ったら、もう二人は廊下の向こうに消えていた。


「ほんま、あいつらはせっかちでついて行けん」
「あはは。侑士くんは東京行って少しのんびりになったの?」
「さあ、どうやろ」


肩をすぼめ、空になったコップを床に置く。
チラと後ろに向ける彼の視線を追うと、おばさんが食べつくされたスイカのお皿を片付ける所だった。
手伝おうと思って立ち上がりかけたら、大丈夫だから、と笑顔で制された。
ゆっくりしていってね、と言って台所の方へと消えて行くおばさんに、何とも曖昧な笑みを向けてしまった。
さっきまで物凄く騒がしかった空間が、忽ち沈黙に包まれる。


「もうちょい、こっち来たら?」
「あ、うん」


スイカの載っていた大きなお皿が下げられ、私と侑士くんの間に微妙なスペース。
とりあえず、膝一つ分くらい、彼の方に近づく。
でも何だか彼の方を見ることが出来ず、体は中庭の方に向けたまま、表面に汗のかいたコップを手に取り、その中身をごくごくと飲んだ。
ちょっとぬるくなっていたけど、あんず飴で甘くなっていた口の中がさっぱりして気持ちいい。


、そんなにあんず飴好きやったっけ」
「え?いや……普通だと思う」
「ふうん。ほなら……わざと煽っとったん?」
「何が!?」


思いも寄らない台詞に素っ頓狂な声を上げたら、侑士くんは、しぃって指で口元を押さえた。
そして一瞬後ろに視線を向けた後、私の耳元に顔を近づける。


「他の男に貰たもんを目の前で食べるんは、お仕置きもんやろ」


もう、今までに聞いたことのないくらい、低い、ゾクリって来る声で。
彼の顔が離れる時に耳の端に触れたのは息だったのか、違うものだったのか。
動揺で、顔だけじゃなく体中がかぁって熱くなるのを感じた。
その直後隣りから聞こえて来た小さな笑い声に、精一杯の抗議。


「……からかわないで」
「からかってへんよ。からかってるんはの方やろ?目の前で翔太から貰たあんず飴ぺろぺろ舐めて。欲情した目ぇして」
「しっ、してないよっ!!」


思わず全力で否定する私に、また侑士くんが静かにって仕草をした。
今度は私の唇に指を付けて。
声を荒げてしまう時点で、嘘だってバレバレだ。
私の顔を覗き込みニヤリと笑って「スイカ食べる俺見て欲情してたやろ」と思い切りストレートに聞いて来る侑士くんに、もう反論する気力はなくなってしまった。


「それなのに一年連絡くれへんのやから、薄情やなぁ?やっぱ、俺、遊ばれてるんやろか」
「それは、侑士くんだって――」
「まだ携帯持ってへんから買ったら連絡する言うて、ずっと待ってたのに、一向に連絡あらへん」
「そ、そうだっけ」
「何や、それも忘れてたん?」


だって、去年はすごく動揺して、頭ごちゃごちゃになって、夢だか現実だかもよく分からなくなって――。
でも、確かに、そうだったような気がする。


「やっぱ遊びやったんか。酷いわー、男の純情返してやー」
「じゅ、純情って……」


純情な男が、従兄弟の家で留守の隙見てあんなことはしないと思う。
そう突っ込みたいことはやまやまだったけど、確かに混乱していたとは言え約束を破ったのは悪いと思って素直に謝った。


「ホンマ、お間抜けさんやなぁ。まあ、昔から鈍くさ……おっとりしとったけど」
「……」
「とりあえず、明日の夜付き合うてくれたら許したるわ」
「明日?夜?」
「明日は祭り最終日で花火大会があるやろ。謙也と翔太はうまく撒くから、二人で行こか」
「え、あ、うん」
「ちゃんと浴衣着て来なあかんで」
「浴衣?うん……いいけど」


特に家から持って来てはいなかったけど、親戚のお下がりとかいくつかあったはずだ。
私が頷くと、「ああ、あと――」と侑士くんが何かを思い出したような顔。


、自分で着付け出来る?」
「え?うん……」
「なら、ええわ」


そう言って微笑う顔に、何となく嫌な予感がしたけど、敢えて気付かないふりをした。


「やっぱり、俺、東京行ってのんびりになったんかなぁ。一年待てるって、大したもんやと思わん?」


くくと笑って言う侑士くんのその問いも、聞こえないふりをした。