モウイチド




模試の帰り、電車に乗りドアの脇に立っていると発車のベルと共に一人の女の子が飛び乗って来た。
間一髪、彼女の背後でドアが閉まる。
ふう、と肩を揺らしながら安堵の表情を見せる彼女に――俺は目を見開いた。


「――?」


きっと階段も駆け上がったのだろう、必死に息を整えようとしているのは、中学まで同じ立海に通っていただった。
うちの学校のものではない、どこかの高校のセーラー服姿は違和感があったけれど、彼女を見間違う訳はなかった。
だって彼女は――真田と付き合っていたんだから。


「え?幸村くん!?」


相変わらずの透き通った声。
俺は、少しだけ、自分の心臓が震えるのを感じた。
それを誤魔化すかのように、二コリと緩やかに笑う。
その笑みにつられたように、も「びっくりした!」と言って嬉しそうに笑ってくれた。


「でもどうしたの?幸村くんがこっちの方に用事あることなんてあるんだ?」
「学外の模試がこの先の学校であったんだ。はこの近くの高校なんだっけ?」
「うん。今の駅からバスで10分くらいの所。S女子って知ってる?」
「それは……知ってるよ。お嬢様学校じゃないか」
「ええ?そうでもないよ。結構普通。立海と変わらないって」


ちょっと困ったように眉を下げて笑う彼女。
でも、お嬢様学校に通うって言うのは、普通に想像が出来た。
やっぱり昔と変わらず、いつも背筋をピンと伸ばしているんだろう。
駆け込み乗車をして息を荒げているの方が、ちょっと意外な感じだ。


「幸村くんのことは、立海にいる友達から聞いてるよ。高校一年で、また全国大会優勝したって。おめでとう」
「――ありがとう」


友達から、本当に俺のことを聞いているのか、真田のことを聞いているのか。
目を細めて俺を見上げるに、思わず複雑な笑みを向けてしまう。






真田は頭に「馬鹿」が付くぐらいの堅物で、テニス部の連中に限らず誰から見ても女の子と付き合うようなタイプには見えなかった。
周りの女の子はその見た目とか口調とか態度とか、とにかくあいつの全部を怖がってた。
別に本当はそんなに怖くなんかないんだけど。
「鉄拳制裁」なんて言ってるけど、女の子に手を上げることなんてあり得ないし。
ただ、真面目で、不器用なだけで。
それを一番よく分かっていたのは、きっとだったんだろう。


きっかけは、彼女の方からの告白だったはずだ。
委員会が同じで、色々仕事を一緒にしているうちに好きになったんだろうか。
真田は最初、「風紀委員でありながら男女交際など、たるんどる」とか何とか言ってたけど、でも彼女を意識しているのは一目瞭然だった。
まあ、さっきも言ったとおり、馬鹿みたいに堅物だから、暫くはウダウダと悩んでいた。
色々と雑念を振り払おうと足掻いていたみたいだけど、結局、自分の感情なんてそんな思い通りに行くものじゃないんだ。


それは別に「雑念」なんかじゃないんだと、決して自分の足かせになるような感情ではないんだと、気が付いた後の真田は、何だか憑き物が取れたようだった。
自分より先に彼女が出来たって言って、丸井なんかは暫く騒いでいたっけ。
そして、そんなに長くは続かないんじゃないか、って結構多くの人間が内心思ってたと思う。


俺だってそうだ。
真田がをふるなんてありえないけど、の方が続かないんじゃないかなって気がしてた。
実際のところ、よく続いていたと思う。
だって、あいつ、昼飯を一緒に食べるわけでもないし、朝は部活の朝練があるから一緒に登校できないし、帰りもほぼ毎日部活があって一緒にも帰れない。
いや、最初のうちは部活が終わるのを待っていたんだけど、真田の奴が「遅くなると危ない」とか何とか言って怒るから。
でもたまに色々理由を付けては残って、一緒に帰ってたみたいだけど。
何て言うか、本当に融通が利かないんだ。
休日だって部活で、まあ、多少部活の後とか時間はあったけど、きっと真田のことだから気の利いたデートなんて出来なかっただろう。
そんな状態なのに、の方は不満そうな顔を見せず――実際、いつも笑顔で――ずっと、交際が続いてた。
中一の終わりから――中二の冬まで。


も、元気そうだね」
「うん。幸村くんも、元気?」
「ああ、元気だよ。俺も――皆も」


「皆」なんて言っても、その中に含まれているのは本当は一人だ。
何でだろう、俺は真田の名前を声に出して言うことが出来なかった。
結局、やっぱり後ろめたさのようなものがあるって言うことなのかな。
まるで他人事のように、そんなことを思う。


「そっかぁ。よかった」


ほっと息をついて柔らかく笑うが、頭に思い浮かべているのも、きっと真田だけだろう?
それとも、もう学校も別々になって、ふっ切れたんだろうか?
俺にも少しは望みがあるんだろうか。
いや――俺にはそんなことを思う資格なんてないんだけれど。






中二の冬。
俺が病に倒れて入院した後も、暫くはその事実を知らなかった。
確かに、と真田が一緒に見舞いに来てくれることはなかったけど、でももともと二人とも「本当に付き合ってるの?」と疑ってしまうくらいに表面上はお互い素っ気なかったから、別に気にならなかった。


俺の入院がきっかけで、二人が別れたなんて。


知ったのは、赤也辺りが何かの話の時にポロリと口を滑らせた時だった。
ショックだった。
付き合い始めた時には長続きしないだろうなんて思っておきながら、こんなことを思うのはおかしいかもしれないけど、あの二人にはずっと続いていて欲しかったから。
永遠、なんて滑稽な言葉だけど、二人には例外的に当てはめてもいいかな、と思ってたのに。
誰に理由を聞いても、良く分からないと言った。
でもその表情は一様に不自然で、何かを隠しているのは明らかだった。


誘導尋問に引っ掛かったのも、確か赤也だったと思う。
幸村なしで我々は勝ち続けなければならない。
彼女にそう言う真田の姿は容易に想像出来て――吐き気がした。


ふざけるなよ。


真田の顔を見るのも嫌だった。
の顔を見ることが出来なかった。
真田にはテニス部を任せてるから会わない訳にもいかない。
けれど、暫くは事務連絡のみ聞いて、それ以外は一切口をきかなかった。
いつも何か言いたげな表情をしていたけれど、俺は敢えて無視した。
そしてには、柳に頼んで見舞いに来ないで欲しいと伝えてもらった。
それ以来、暫く彼女は病院に来ることはなかったけど、皆が持って来る授業のノートとか試験問題の解説の中に、彼女の文字が紛れていたのは気付いてた。


彼女がまた訪れてくれたのは、桜の蕾がうっすらと膨らみ始めた頃だろうか。
天気がよくて、風が温かくて、病院の屋上に出て本を読んでいると、戸惑いがちな笑みを浮かべた彼女が現れた。
見舞いに来ないでくれって言ったのに。
そんな憤りよりも、久し振りに彼女の顔を見ることが出来たことへの喜びの方が何十倍も大きくて、俺は、自分で自分に驚いたっけ。
思わず涙が出そうになったくらいだ。


「――やあ、久し振り」
「うん」


最初、会話らしい会話なんかなかったと思う。
いや、もともと俺達はそんなにお喋りをする方じゃなかったけど。
初めの頃に見舞いに来てくれた時だって、たまに二言三言会話をして、俺は彼女が持って来てくれた本やノートを見て、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。
そんな空気が、俺は、好きだった。


「あのね。別れようって言ったのは――私なんだよ?」


二人で遠くの空を眺めて――少し強い風が吹いた時、が小さな声でそう言った。
その言葉を聞いて少し驚いたけど、でも、もしかしたらそうなのかもしれないと、ボンヤリ思い始めていたから、俺の表情はたぶん変わらなかったと思う。


「幸村くんが理由じゃないって言っても、きっと白々しいだけだろうから言わないけど」


でも幸村くんが病気にならなくても、遅かれ早かれ一度は別れたんじゃないかな。
は静かに続けた。


「だって、全国大会三連覇って、幸村くんがいてもやっぱりそんな簡単なことじゃないはずでしょう?弦一郎は――真田くんは器用じゃないから文武両道までは何とか出来てもそれ以外って難しいみたい」
「……あいつが器用じゃないことくらい、初めから分かってたことじゃないか」
「うん。放っておかれるのはね、実はあんまり苦痛じゃない。それは寂しいけど。でも別のことで一生懸命頑張っている真田くんを見ているのは苦痛じゃないんだ」
「それなら何で――」
「真田くんの方が痛そうな顔をするから」


真田が、自分を構ってあげられなくて罪悪感で申し訳なさそうな、つらそうな顔をする。
それが耐えられなくなったのだと、そう言うの顔も、とても、痛そうだった。


「やっぱり……俺のせいなんじゃないか」
「だから、そうじゃないとは言わないよ」


ふふ、と小さく、ちょっと意地悪く笑う
俺は何故かその彼女の言葉と表情に、何か重苦しい黒いものが自分の中からスルリと落ちて行くのを感じた。
自分のせいで別れたのだと、はっきり言われているのに。
涙が、零れた。
それを誤魔化すために、思わず彼女を抱きしめた。








「模試は一人だけで受けに行ったの?」
「ううん、柳生も一緒だったんだけど、あいつは電車が違うから。柳生は憶えてる?」
「もちろん憶えてるよ!柳くんだって、桑原くんだって、丸井くんだって、あと仁王くんもね。切原くんは今部長だったりするのかな」
「うん、あいつも頑張ってるよ」


、大事な奴の名前が抜けてる。
――まあ、わざと抜かしたんだろうけど。


早く戻って来て、一緒に全国大会へ行ってね。
そう言うと指切りをして、約束通り全国大会では完全復帰を果たして。
でも、二人は元に戻ることはなかった。


「目的も果たせずに、どの面を下げてあいつにもう一度――などと言えるんだ」


引退直前、部室で柳と話しているのを偶然聞いてしまった。
たぶん、そう言うことなんだろうと薄々は感じていたけれど、本人の口から聞くとそれは一気にズシリと自分に圧し掛かって来た。
あの決勝戦。
後悔はしていないけれど――やっぱり、何としても勝つべきだった。
今さらのようにそんなことを思い知った。


で、真田のそんな気持ちが分かっていたから、自分からは言わなかったんだろう。
そしてそのまま外部の高校に行ってしまったんだろう。
本当、お前達って、どうしようもない馬鹿だ。








「――、あいつとは、連絡取ってる?」


往生際悪く、俺はまだ真田の名前を口に出せない。
は当然のように首を横に振る。
そして、窓の外の変わり映えしない景色に視線を移す。


二人は続かないだろう。
でもやっぱり続いて欲しい。
真田だけを見ていて欲しい。
でも――俺の方も見て欲しい。
どれも本心だった。


「来週、横須賀市で小さな大会があって、俺達も行く予定なんだ」


少しの間の後、が俺の方を向く。
その目の光は迷いのために揺れていた。
迷わなくていい。
俺は、安心させるように、微笑う。


「俺はもう倒れたりしないし――あいつは、まあ、相変わらず融通利かない堅物だけど」


でも――いや、だからこそ、かな。まだ、を思ってるから。
続く言葉を途切れさせたのは、どうせ言わなくても分かってるだろうって言う気持ちと、わざわざ俺が言うのも癪だって言う気持ちと――どっちが大きかったかな。
ふわりと、が笑う。
――うん、やっぱり君のことが好きだよ。
でもきっと、それは真田を好きな君が好きなんだ。
別に、強がりじゃなくて。


「うん、じゃあ――気が向いたら行ってみようかな」


のそれは強がりだろう?
もう気持ちは決まってるくせに。


「皆、喜ぶよ」


この「皆」には沢山含まれていたけど、でもやっぱりその中の一番は言うまでもなく、あいつだ。
まあ、素直には喜ばないかもしれないけど。
もそんな真田を想像したのかもしれない。
二人で顔を見合せて、クスリと小さく笑った。


――やっぱり、君はあいつを好きでいて。