再戦




「残念やけど、人生には思い通りにならんこともあるんや」


白石が遠山に言った台詞。
それを聞きながら、忍足は昨年の春を思い出す。
白石自身が、どんなに願っても叶わなかった出来事を。






自分達が入学したとき、既にはテニス部の先輩と付き合っていた。
いや、付き合っていたからこそテニス部に顔を出すことも多くて、自分達とも話をする機会が多かったのだろう。
たった二歳の歳の差なのにすごく大人びて見えて、自分達に向ける笑顔はいつも穏やかで優しげで。
程度の差こそあれ、新入生の大半は彼女に好意を抱いていたのではないだろうか。


忍足自身も例外ではなかったが――白石には負ける。
一見、自分達の中で一番素っ気無いように見えた。
彼女と直接会話をしているところは忍足も殆ど見たことはない。
けれど彼女を追う視線は誰よりも甘やかで、切なげだった。


一方彼女の方も、下級生の中では特に白石を気にかけているように見えた。
テニスで一年から既に他と一線を画していた彼は、上級生との軋轢に苦しむことも多かった。
そんな彼をただ単に心配してのことなのか、それとも他の意味があったのかは分からない。






「――なんや、じっと見て気色悪いな」


結局、自分の望みどおりになって青学の越前とコートに入った遠山。
白石はベンチに戻る途中、そう言って忍足をジロリと睨む。
その目つきの険しさからして、忍足の考えていることなど恐らくお見通しなのだろう。


「別に。何でもあらへん」


敢えて白々しくそう答える忍足。


「よかったなぁ、金ちゃん」
「せやな……まあ、一球くらいならええやろ」


遠山を説得しようとした白石も、何となくほっとしたような顔つき。
彼にはまだ挫折を味わって欲しくない。
忍足と同じく、白石も内心そう思っているのだろう。






が親の仕事の都合で中学卒業と同時に、東京へ行ってしまうのだと聞いたのは卒業式を数日後に控えた日の朝だった。
その前日に公立高校の合格発表があったので、偶然廊下で彼女に会った忍足が「先輩はどうでしたか?」と軽い気持ちで聞いたのだ。
彼女と付き合っている先輩は近くの府立高校に進学する予定だと聞いていたので、きっと彼女もそこに行くんだろうと漠然と考えていた。
そしてきっと彼女なら余裕で受かっているに違いない。
そう思って、ひとつの答え以外、予想することもしていなかった。


「――忍足くんたちには言ってなかったね」


そう言ってちょっと寂しそうに笑いながら、の口から衝撃の事実。
忍足は速攻で白石のもとへ伝えに行った。


「そっか、そうなんや」


返ってきたのは、そんな冷静な反応。
何故かそんな白石に、忍足の方が慌てた。


「東京なんか行ったら、もう二度と会えんかもしれへんで?」
「――その方が、ええよ」


なに冷静ぶってるんだ。
やるせなくて、白石の肩に掴みかかろうとして――やめた。
必死に何かを抑え込んでいるような横顔を見て。


普段は自分達と一緒になって馬鹿をして。
寒いギャグで周囲の女子を引かせたりすることもしょっちゅうで。
心ない先輩達の嫌がらせなどもどこ吹く風と言った態度。
だが忍足は、今までにも何度か白石のこう言う顔を見たことがあった。
部活の後、一人残ってコートで練習している時。
彼女に、くだらないギャグを言って笑わせて―― 一人になった後。


「……言ったらええやん。好きやって」


いつもなら、忍足のそんな言葉を「そんなんやない」と笑い飛ばしていただろう。
が、その時は白石も自嘲的な笑みを浮かべるだけ。
その表情がやけに大人びて見えて、忍足は妙な焦燥感のようなものに襲われる。


「好きでした。東京行っても頑張って下さい」
「白石……」
「そう言ったらええんか。そう言ったら誰か幸せになれるんか」
「……」
「それとも、行かんといて下さいって言うたらええんか」


堰を切ったように溢れだす言葉。
一度たがを外してしまえば、苛立ちや自分自身への腹立たしさを抑えることも出来ない。
返すことも出来ず戸惑った表情の忍足に気付き、俯いて「すまん」と一言。


「人生には――思い通りにならんこともあるんや」


そうだろうか。
そうなんだろうか。
その場を去る白石の後ろ姿を見つめながら、忍足は何度も何度もその言葉を心の中で繰り返した。


卒業式の日、忍足はと少しだけ話した。
「寂しくなったらいつでもこっち戻って来て下さい」などと、他の同級生達と一緒にふざけながら言った後。


「先輩」


友達の所に戻ろうとした彼女を引きとめて。
振り返った彼女の、少しだけ首を傾げて微笑う様に、ぐっと、喉が詰まりそうになる。
自分だって――好きだったのだ。
不意にそんなことを思って、目を逸らす。


「先輩は、何で白石に東京行くこと言わなかったんですか」
「え――?」


思いがけない質問だったのだろう、彼女は一瞬、戸惑いを浮かべる。
それから、ほんの少しの間をおいて深呼吸をした後、ゆっくり口を開いた。


「怖かったんかなぁ」
「……怖かった?何がですか?」
「うーん……遠く離れちゃうことが現実になるんやなぁって、思い知ることが」


忍足には、彼女の言っていることが今いちよく分からなかった。
ただ、その表情が、この前白石が見せたものと酷く似ていて、胸の辺りがツキリとした。
「よぉ分かりません。現実に先輩は行っちゃうやないですか」と正直に言うと「そうだよねぇ」とまた寂しげに笑った。


「白石に――」


白石に何か言ってやって下さい。
そう言おうと思って、やめた。
人生には思い通りにならないこともある。
そうだろうか。
そうなんだろうか。
皆の所に戻って行くの後ろ姿を見ながら、この前と同じことを反芻していた。






「このラリー、いつまで続くんだ?」


会場内のあちこちからそんな声が聞こえて来る。
確かにそんな台詞が飛び交うのも尤もで、一球勝負と言いながら既に30分を超えていた。
遠山は相も変わらず楽しそうにコート内を飛び回っている。
相手の越前も、クールな表情は変わらなかったが、その長い長いラリーを楽しんでいるように見えた。


「思わぬ展開になったなぁ」
「せやな、そろそろ止めなあかん――」


そう言いながらも、白石はそのラリーを止めることをしない。
止められない、と言うよりは、止めたくないのかもしれない。
忍足はチラと白石の方を見た後、両手を頭の後ろに回し、コートの方に向き直る。
奇声を発しながらボールを追いかける遠山の様子に思わず笑いをこぼしてしまう。


「金ちゃんみたいになれとは言わへんけども」


金ちゃんが部内に二人も三人もいたら大変だ。
自分の口にした台詞に、そんなことを思って苦笑する忍足。


「でも、たまには駄々こねることも必要や」


駄々をこねたからこそ、今目の前のラリーが実現して。
駄々をこねたからこそ、彼は貴重な経験を得る。


「何が言いたいんや、謙也」


さっきは睨んで来たが、今度はもう呆れたような目つき。
いい加減にせぇ。
そう言いたげに。
その台詞、そっくりそのまま返したるわ。
忍足は心の中でそんなことを呟く。


あの時、遠距離恋愛という選択肢を誰も口にしなかった。
東京と大阪。そんなの、子供が続くわけない。
きっと当時、誰もが思っていたこと。
しかし、結果として、白石は全然余裕でクリアしていた。
女友達は少ない方じゃない。
寒いギャグを連発するとは言え、この容姿に気さくな性格でもてないはずもない。
けれど、この一年半の間特定の子と付き合うことはなかった。
家にガブリエルがいるから。
テニスが恋人だから。
冗談まじりでそんなことを言っているけれど、本心は別のところにあるんじゃないのか?


「――っ!やばいっ、あれが出るで!」


遠山のフォームの変化に、誰かが叫ぶ。
皆伏せろ、と言う叫び声に、そこにいた誰もが自分の身を守ろうと避難の体勢。
忍足も身を屈め、腕で頭をかばおうとする。
が、その時、何気なく視線を向けた反対側のスタンドに――見覚えのある姿。


「あほっ!何しとるんや!」


呆然としかけた忍足の頭に手をやり、白石が強引に伏せさせる。
あほはどっちや!
そう言いかけたけれど、砂煙に阻まれた。


「――引き分けだ」


誰かが冷静な声でそんなことを言っている。
それどころじゃない。
嵐の去ったアリーナの中、慌ててスタンドに目をやるが、彼女の姿はない。
見間違い?
いや、違う、そんな訳がない。
忍足は階段の方に視線を移す。


「白石――っ」


あそこにさんがいる。
そう伝えようとして隣りを振り返ると、白石も同じ所を見て固まっていて。
次の瞬間、何も言わず、忍足を押しのけて走り出していた。


階段の奥へと消えて行く彼女。
「すまん」と短く繰り返しながら人を掻きわけ、白石も消えて行く。
今、追いかけなくては。
彼女の姿を見て、咄嗟に体が動いたのだろう。


さっきは人のことをあからさまに呆れた目で見たくせに。


つい数分前とは全く違う、あまりに必死な様子の白石に、一瞬茫然としたけれど。
きっと周囲の人間も、何事だと思っただろうけれど。


「流しそうめんまでには帰って来いよ!」


その後ろ姿が完全に視界から消えてから、忍足はようやくそんなことを叫んだ。