quiet




階段を昇りきってホームに立つと、すぐそこにがいた。
駅前にある大きな本屋のブックカバーがかかった文庫本を手にして。
電車で学校に通っている生徒なら誰もが利用している駅ではあるけれど、今日はまだ夏休み。
まさか同じクラスのに会うとは思っていなくて、宍戸はちょっと、戸惑った。


「あれ、宍戸くん?」
「―――よお」


声をかけるべきか迷う間もなく、の方が宍戸に気が付いてニコリと笑う。
自分でも妙にぶっきら棒だなと思ってしまうような返事をして、の横に並んだ。


「今日も部活?」
「まあな……もう引退しちまったんだけどさ」
「うん」


はちょっと寂しそうに笑いながら、手に持っていた文庫本を鞄にしまう。
彼女も全国大会の試合は見に来ているはずだったから、それを最後に自分たちが引退したことは知っている。
宍戸も―――向日も。


彼女は一年前に向日に告白してふられたことがあった。
別に誰もが知っている話と言うわけではない。
ただ、その後数日間、向日の様子がおかしくて忍足達が問いただしたら白状した。
に告白されて―――その場で断った、と。


以前から彼女を気に入っていた忍足は「もったいない」と何度も連発してた。
でも確かに、正直、傍から見て彼女と向日が相性が良さそうには見えない。
「いいやつだとは思うけど、何か違う気がするし」という向日の気持ちは宍戸にも分からないことはない。
とはいえ、もう少し何とかならなかったのか―――その話を聞いて、少なからず思った。
何ともならないことは、分かりきっていても。


「お前は何で夏休みなのに、こんなとこにいるんだ?」
「そこの駅前の本屋さん、大きくて座る場所もあるから、休みの日でも結構来てるんだよ」
「へえ。本が好きなんだな」
「うーん、本って言うか、新品の本の匂いが好きなんだ」


だから図書館じゃ駄目なの。
そう言って悪戯ぽく笑う顔は、普段自分には向けられないようなものだから、何だか慣れなくて思わず目を背けてしまう。
普段、特別仲がいいわけではなく、教室でも挨拶や必要最低限の会話を交わすだけ。
ときどき、何となく、その行動や仕草が、気になってしまうことがあるけれど。
だから、こんなふうに普通に会話していることが、少しだけ奇妙に思えて、可笑しくて、嬉しいような気がする。


電車の入線のアナウンス。
夏休みとは言え、平日の昼間のホームはあまり人がいなくて、異様にアナウンスの音が響いたりする。


「宍戸くんも、こっちの方向?」
「ああ」
「ふーん。知らなかった。通学とか全然一緒にならないね」
「時間帯が違うんだろ」
「そっか。宍戸くん、朝早そう」
「そんなことねぇよ」
「そう?何か、朝練とか一番に行ってそうな感じ」
「……そんなこと、ねーよ」


ちょっと口を尖らせた宍戸を見て、あはは、と楽しそうに笑う
やわらかくて、耳に心地いい笑い声。
宍戸の頭に、何故か忍足が繰り返していた台詞が浮かんでしまう。


「宍戸くんは夏休みの宿題は終わった?」


電車の扉が開いて、二人で乗り込む。
立っている人は殆どいなかったけれど空いている席はなくて、ドアのすぐ脇に立った。


「大体終わってる。あとは読書感想文だけだな」
「ふーん、案外優秀なんだね」
「・・・・・・案外って何だよ。やってねぇと跡部とかがうるせぇんだよ」
「なるほどね。あのテニス部レギュラーが夏休みの宿題やってなくて廊下に立たされるって言うのは、部長として許せないんだ」
「・・・・・・廊下に立たされるってのはともかく、そんなトコだろ」
「でも読書感想文は残ってるんだ?本は読み終わったの?」
「まだなんだよな。もともと本なんて読まねーし」
「じゃあ、これ読む?」


そう言って、鞄から本を取り出す。
今度は文庫本じゃなくてハードカバー。でもかかっているブックカバーは駅前の本屋のもの。


「それ、買ったばかりなんじゃねーの?」
「うん、でも、文庫の方先に読めばいいし」
「字が小さいのとか勘弁」
「そんなに小さくないよ」


そんなに厚くもないでしょ?
そう言って控えめに差し出された本を受け取り、パラパラと捲る。
確かに、それほど行間も詰まっていないし一気に読めるかもしれない。


「これ、どんな話?」
「うーんとね、少年と老人が一緒に旅をするお話」
「・・・・・・へぇ」
「あからさまに興味なさそうだね」


そう言って、あからさまに呆れた顔。
しょうがねーじゃねーか。本気で本とか読まねーんだから。
独り言のようにそんな言い訳をしながらも、その本を返さずに1ページ目に戻る。
そのとき、次の駅に着いてドア脇の端の席が一つ空いた。
「座れよ」と宍戸が言うとは「いいよ」と小さく首を振る。
ちょっと不満そうな顔をしながらもう一度「座れ」と言おうと思ったら、その隣りに座っていた学生らしき男性が席を詰めて二人分空けてくれた。


「・・・・・・すいません」
「ありがとうございます」


二人で一瞬顔を見合わせ、それから少し照れたように、気まずそうにお礼を言って並んで座る。
自分の前に荷物をドカリと置くと、何故か二人でふうと息を吐いた。
そのタイミングがピッタリ一緒で、何となく可笑しくて、は咳払いをするような仕草で、宍戸は中吊りの広告を見上げるようにして小さく笑った。


「―――駅に着くまでに読み終わらねーかな」
「一体宍戸くんの家ってどれだけ遠いの?」


終点まで行っちゃうよ。
そう笑って言うの台詞に、彼女と一緒なら別にそれでもいいかなと思ってしまう自分に驚く。
そしてそんな自分の心の中の呟きなど彼女に聞こえるはずもないのに、何だかすごくいたたまれなくて、手に持っている本を凝視してしまう。
その表面に並べられた文字なんて、全く頭の中には入ってこないのに。


次の駅に着いて、ちょっと離れた場所にいた女子高生らしき集団が一斉に降りてしまい、車内が一気に静まり返る。
暫くすると今度は電車が高架に差し掛かり、ガタンガタンと大きな音が響く。
何気なく、宍戸が正面の窓から外を見ると川辺の野球グラウンドに点々と見える人。
川のすぐ傍に生えている草の緑が深く眩しく見えるのは、夏の陽の光のせいなのだろうか。


電車の揺れる音。
無愛想な車内のアナウンス。
空の色。
新しい本の匂い。


いつもなら何てことのないものが、自分の目に、耳に何かを残していく。
その感覚が心地よくて、いつまでも続けばいいと思う。
ずっとこのまま、止まらなければいいと思う。
ついさっき自分で驚いた思い。
今は静かに、強く、それを受け入れて、目を閉じる。


何とかならなかったのか。


一年前に思った台詞。
俺では何かしてやれなかったのか。
本当は、それが正解。
そして今も―――自分にしてやれることはないのか。


「―――


思わず名前を口にする。
けれど、その後に続ける言葉が思い浮かばなくて、自分の方を見たの顔を見れずに上を向く。


「えーと・・・・・・本、借りるよ。・・・・・・サンキューな」
「うん」


目を細めて笑うの顔をチラリと見て、今度は不自然なくらいに真正面を見てしまう。


「・・・・・・ってさ」


聞いてはいけないのかもしれない。
彼女にとっても―――もしかしたら、宍戸自身にとっても。
でも気がつくと勝手に自分の口から言葉が零れてしまっていた。


「まだ一年前の気持ちのままなのか?」


それが何のことを指しているのか、もすぐに分かったらしく少しだけ目を大きく開く。
けれどそのすぐ後に見せた彼女の笑みは今まで見せていたものと大して変わらず、やわらかい。


「一年ってさ、長いようで短いようで長いよね」
「……どっちだよ」
「あはは。どっちかな」


どっちだろ。
もう一度、独り言のように呟いて、も一緒に真正面を見る。
空は相変わらず青くて、緑は眩しい。


次の駅が近いことを告げるアナウンス。
「次で降りなきゃ」と言った彼女の声が少しだけ寂しそうに宍戸の耳に届いたのは、そうあって欲しいという願望からだけだろうか。


「俺は、その次だ」
「そっか。実は結構家も近かったんだね」
「そうだな」


電車が少しずつ速度を緩めて行く。
何だか、奇妙なもどかしさが胸に湧き上がって来て、宍戸は本を持つ手にぎゅっと力を入れる。


「もしかしたら、二学期からはたまに一緒の電車になることもあるのかな」
「そうだな……」
「もしかしたら、明日も一緒になっちゃったりしてね?」


そしてまた楽しそうに笑う彼女の頬が少し赤く見えるのも―――宍戸の願望なのだろうか。


「……俺は明日も学校行くけどな」
「私もたぶん本屋さんに行くと思う」
「ほんとに本が好きだな」
「―――うん。好きだよ」


電車がホームに入り、が立ち上がる。
立ちあがってくれてよかった。
そうでなければ、きっと自分の顔が赤いのが知られてしまっただろう。
別に、自分のことを好きだと言われたわけでもないのに。
宍戸はに聞こえないように小さく息を吐く。


「じゃあね」
「……ああ」
「また明日、かな」
「ああ。また明日な」


ふわりと彼女の香りが前を通り過ぎて、ほんの僅かに残っていた肩の温もりがだんだんと遠ざかる。
けれど、空の青は一層深くなった気がした。