注意力散漫だな




英二が二年の子に告白されたと言う話は、本人からじゃなくて同じクラスの女子から聞いた。
そう言う話は別に珍しくない。
この春だって、入学して来たばかりの一年生が、英二に彼女がいるって知らなくて何人か告白していたはずだ。
その情報も、やっぱり本人じゃなくて周囲の女子から聞いたんだけど。


今回は二年生。
って言うことは、私の存在を知らなかったって言う可能性は低い、よな。
英二はこの中等部では結構な有名人だ。
テニス部の中でも手塚くん、不二くんについでファンが多いって言ってもいいんじゃないだろうか。
彼らに限らず、特にレギュラーメンバーは憧れを以て見られることが多いんだけど。
そんな彼らに彼女がいるかどうかって言うのは、女子の間では大きな関心事のようだった。
そんな他人事のように言う私は、その「関心事」のど真ん中にいる。


英二とは、去年の夏からの付き合いだ。
最初、私は大石くんと仲良くなった。
お父さんの仕事の関係で、たまたま一年の冬くらいに大石くんの家に行く機会があって。
それまで名前は聞いたことあるかなぁ、くらいの存在だったんだけど、その場で結構気が合って色々話をした。
それ以来学校で会うと、ちょくちょく話すようになって。
気が付くと、英二もその話の中に加わることが多くなっていた。


お互い、本来なら付き合うようなタイプじゃなかったと思うのに――何て言うか、愛着、みたいなものなんだろうか。
いつだったか、学校の帰りに、自然にキスをしてくる英二を、私も自然に受け入れて。
それ以来、私たちはゆっくりと二人の時間を味わうようになった。


付き合うようになってからも手紙を貰ったり、呼び出しを受けたりするようなことは後を絶たなくて、最初は私もヤキモキしていた。
まあ、あの性格だから女子とも普通にふざけたり、親しげに話すことだってあるし。
だけど、英二と付き合うならこれくらいは我慢しなきゃいけないんだよなぁ、と悟りが開けて来たのは、ほんの少し前のことだ。
そこで腹を立てても、親切に情報を提供してくれる女子たちを喜ばせる結果にしかならない。
今回も、「またか」なんて思いながら適当に聞いた。


「――


その話を聞いた日の放課後、部活に行こうと部室に向かっていたら後ろから声を掛けられた。
その声は何度も聞いたことがある。
生徒会長の手塚くんだ。
振り返るとテニスバッグを肩に掛けた手塚くんが立っていた。


「今度の部長会議の資料、提出していないのはお前の所の華道部だけだ」
「え?ああ……ごめん、ええと、明日までだっけ?」
「ああ、そうだ」


ゆっくりと頷く手塚くん。
もう運動部の殆どは三年は引退しているはずだった。
文化部はたいてい文化祭まで残るけど。
だから私も今度の文化祭までは華道部の部長だ。
手塚くんはテニスのバッグを持って、今日も部活に顔を出すんだろうか。
英二も、体がなまっちゃうとか言って、たまに部活へ行ってるようだったし。


「忘れないように、明日までには出すから」
「ああ」


手塚くんはそう返事をしながらも、何故かそこを立ち去る気配がなかった。
無表情に、じっと私を見る。


「どうかした?」
「いや――」


そう言いながらも、やっぱり動く様子がない。
何かの我慢大会だろうか、そんなことを思いながら私も彼をじっと見つめ返した。
たまに、手塚くんとはこういう我慢大会がある。
一年で同じクラスだった時にも何回かあったし、二年でクラスは別れたけど手塚くんが生徒会長になって、私が華道部の部長になって、たまに話をする機会があった時も――やっぱり、こんな風に黙ったままのことがあった。
手塚くんは、無駄なことを嫌う。
無駄な話とか、無駄な行動とか。
だからすごい無愛想に見えて、無口に見える。
いや、見える、じゃなくて実際にそうなんだけど。
そんな手塚くんが、こうやって何もせずに、何も言わずに黙って私を見ると言うのは、酷く違和感があって、落ち着かない。
けれど、何故かそこから逃げ出せずに私も同じように見てしまうのだ。


「それじゃあ、頼んだぞ」
「うん」


今回も私が勝った。
踵を返す手塚くんの背中を目で追いながら、私はほっと息をつきながら、そんな下らないことを思う。








次の日、忘れないうちに書類を提出してしまおうと、朝のHRが始まる前に手塚くんのクラスへ向かった。
その途中、廊下で英二に会った。
眠そうに大きな欠伸をして前から歩いて来る。
クスクスと笑うと、英二は私に気付いて慌てて口を閉じた。
そしていつものように明るい笑顔。


「おっはよ〜、。どこ行くの?」
「これ、手塚くんに渡しに」


そう言って手に持っていたプリントを掲げて見せる私。
それを見た英二は、ちょっと笑みを消して言った。


「あー……そうなんだ〜。部長は大変だね」
「そうだよ、ちゃんと労ってね」
「いっつも肩揉んであげてるじゃん!」


私の冗談めかした言葉に、英二はぷうと頬を膨らます。
その様子が相変わらず可愛くて、私は声を出して笑ってしまった。
英二はお兄さんやお姉さんが多くてよくやらされているんだろうか、マッサージが上手い。
あ、料理も上手い。
何度か私の家に来てお昼を一緒に食べたことがあるけれど、作るのは専ら英二の方だ。
その方が美味しいから。


「相変わらず仲がいいね」


後ろから声がして振り返ると、不二くんが笑みを浮かべて立っていた。
相変わらず、と言うところにちょっと皮肉を込めた感じで。
どうも不二くんはあまり得意じゃない。
別にはっきり言われたわけじゃないけれど、英二と付き合うようになった時も二人は不釣り合いとでも言いたげに冷笑された気がする。
いや――気のせいかもしれないんだけど。
でもこの笑みを見ると、あながち勘違いじゃないんじゃないかな、なんて思う。


「あ、不二!……と、あれ?手塚もだ!こんな遅くに登校なんて珍しいじゃん」


英二の台詞に、不二くんの後ろへと目を向けると、少し離れた所に手塚くんが立っていた。
制服にテニスバッグを肩に掛けて、表情のない顔で――昨日の放課後見た姿と何も変わったところがない。
そして、立ち止まったまま私をじっと見て来るところも、同じだ。
でも今は我慢大会をしている余裕はない。
私は手塚くんの方へ歩み寄り、持っていたプリントを差し出した。


「ああ――急かしてしまったようで悪かったな」


顔の筋肉は動くことを忘れてしまったんじゃないかと思うくらい、まったく表情を変えずにそう言ってそれを受け取る手塚くん。


「ううん。忘れかけてたから、昨日言ってくれて助かったよ」
「そうか」


私が肩をすぼめながら言うと――あれ?手塚くんの目が少し細められた気がした。
笑った、のかな。
そんなことを思っていると、後ろから不二くんのクスリって言う笑い声。
その声につられるように振り返ると、笑いを堪えるように不二くんが軽く握った左手で口を押さえ、その隣りで英二はぼんやりとした様子で立っていた。
いつも、大石くんや、他の友達と話していても、スルリとその会話に自然に入り込んで来るのに、手塚くんと話している時は、何故か英二は遠巻きに見ている。


「――行こうか、英二」
「あ、うん。じゃあね!手塚も」


不二くんに促されて二人は教室へ入って行く。
手塚くんは私の前に立ってまだ動く様子はなかったけど、私も教室に戻ろうとした。


「それじゃあね、手塚くん」
「――ああ」


廊下を横切った時、不二くんが私の方を見て笑ったように見えたのは――気のせい、かな。








数日後の昼休み、部活の顧問の先生に用事があって職員室に行ったら、ちょうどそこから出て来る手塚くんと会った。
挨拶だけして中へ入ろうとした私を、手塚くんが引きとめる。


、今日の部長会議の教室は変更になっているから気を付けろ」
「え?部長会議?」
「……忘れていたのか」


呆れたのか、僅かに眉根を寄せる手塚くん。
私が「ごめん、忘れてた」と正直に言うと、やれやれと言った感じでため息をついた。


「お前の注意力は、たまにどこかへ忘れて来てしまうようだな」
「うん、だから、こうやって言ってくれる手塚くんには助かってるよ」


しょうがない奴だと言うように、もう一度ため息を吐き出す。
けど、同時にこの前と同じ笑みを浮かべたように見えた。
私もちょっとだけ笑って――どちらかと言うと誤魔化すような笑み、だけど――変更になった教室を教えてもらう。
今回の会議は新旧の部長が集まるから、広い教室で行うことになったらしい。


顧問の先生の用事を済ませた後、私はまっすぐ英二の所へ向かった。
私は今日の部長会議の存在をすっかり忘れていて、英二と一緒に帰る約束をしていたからだ。
時間かかりそうだし、点心のお店に行くのはまた別の日にしてもらおう。
そんなことを考えながら廊下の角を曲がる。
と、教室の前に英二が立っていた。
何人かの女子生徒に囲まれて。
下級生、だろうか。何となく、可愛いらしい感じ。
彼女たちの手には何やらリボンの掛かった包みや、可愛い小さな紙袋。
英二はちょっと照れたように、でもまんざらでもない感じでそれらを受け取っていた。
こんな所で、彼女面してその中へ割り込んで行くのも憚られて、どうしようかな、もうちょっとしてから出直そうかな、なんて思いながらボンヤリとその楽しそうな集団を見ていたら――ある一人の女の子が目に止まった。


他の子と同じように、綺麗にラッピングした包みを差し出す彼女。
明らかに英二が好きなんだろう、顔を真っ赤にして、ちょっと俯いて。
ほっそりした腕とか、さらさらな髪とか、ぶりっこじゃなくて、自然と出て来る可愛い仕草とか。
ああ――英二が好きなタイプだな。
そんな私の声を証明するように、英二もちょっと顔を赤くして、手を伸ばす。
他の子に対するように明るく「さんきゅー!」って言うんじゃなくて、ちょっと、躊躇ったように手を止めて。
そして思い切って受け取った後、何か言いたげに口を開いて、すぐに閉じた。


私は、その二人を見て、すーっと体温が下がって行く感じがして。
でも、何だか、嫌な汗をかいて。
さっさと自分の教室に戻ればいいのに、目が逸らせなくて。


「――ああ、あの子、また来てるんだ」


周囲の雑音なんて全く入って来なくなっていた私の耳に――突然響いた、皮肉交じりの声。
ビクリと体の揺れる私にクスリと笑う。
誰か、と振り返って確かめるまでもなく――不二くんだ。


「この前、付き合ってる子がいるからって断ってたはずなのに――往生際が悪い子だね」


余計な情報を耳に吹き込む。
不二くんの口から聞くまでもなかった。
私は何となく、そんな気がしたから。
女の直感だろうか。
私にもそんなのがあるんだな。
別に何の反応も返さない私に、不二くんはそれきり黙ったまま隣りに立って、一緒にその彼女たちを眺める。
私には全く気付かない様子で教室の中へと戻る英二。
きゃあきゃあと浮足立った彼女たちも自分たちの教室に戻ろうと振り返る。
そして、私の姿を見つけて一瞬でその笑い声が止んでしまった。
気まずそうに目を伏せる、さっきの可愛い女の子。
その周りの子たちは彼女とは対照的に、私に敵意むきだしの視線を向けて来た。
でもこれくらいのことは、結構慣れている。
私もじっと彼女たちを見る。
暫く――と言っても、たぶん数十秒程度のことだと思うけど――お互い見つめあっていて、彼女たちの方が先に目を逸らした。
手塚くんとの我慢大会の成果かな。
なんて、また馬鹿なことを思って、ちょっと笑ってしまった。


「――アヤの方が絶対可愛いのに」


捨て台詞のようにそう言って、パタパタと立ち去る彼女たち。
この子が「アヤ」なんだろうか、友達に手を引かれて一番後ろを走って行く女の子。
すれ違った時に小さく「ごめんなさい」と聞こえた気がする。
やれやれ、そう謝られると私が忽ち悪者のようになる。
ふうと深くため息を吐き出すと、また隣りで不二くんの笑い声が聞こえた。


さんは強いんだね」
「……怖い、の間違いじゃないの?」
「そんなことないよ」


またクスッて笑う。
嫌がらせとしか思えない。
だって、私は全然強くないもの。
今だって――手が、震えてる。


私は何だか英二に直接会うのが怖くなって、迷った挙句、メールで今日の帰りのことを伝えた。
じゃあ今度、点心はの奢りな!と、絵文字付きの英二の返信にほっと息をつきながら、私は携帯をしまった。








帰りのHRの後、先生に呼び止められてしまい、私は慌てて部長会議へと向かった。
4時からって言っていたから、まだ遅刻じゃないけど……。
部長会議は何故か集まりが早くって、予定時間よりも早めに始ってしまうことがある。
私はとにかく「早く行かなきゃ」と言うことばかりが頭にあって、場所が変更になったことをすっかり忘れてしまっていた。
いつもの教室の、後ろ側のドアが開いていたので、迷わずそこから中へ駆け込む。
けれど、当然のことながらそこにはいつもズラリと並んでいる生徒たちの姿はなくて。
代わりにいたのは、英二、だった。
最初は英二って分からなかった。
教室の前の方にいて、こちらに背を向けていたし――何より、女の子とキスを、していたからだ。


唇を離して、チラリと見えたその顔は、昼休みに見た女の子だった。
私は茫然としてしまって、その場から動くことも出来ず、何してるのって怒ることも出来なかった。


「――好き。好きなの、先輩」


顔を真っ赤に染めて、きっと泣いたのだろう、目も赤く潤ませて、聞いているこちらがつらくなるような声で打ち明ける彼女。
こんな風に言われて――突き放せる男なんていない。
私でさえそう思ってしまう。


「ごめんね、アヤちゃん」


でも、そんな彼女の声よりも、もっともっと英二の声の方が、つらそうだった。
その「ごめん」は、本当に彼女に向って言っているんだろうか。
私は、ぎゅっと胸元を掴む。
カタンと前の方で物音がする。
息が出来ない。
でも動けなくて――どうしたら、いいんだろう。


頭がぐらぐらとして、何とかその場から立ち去らなきゃと足を動かそうとするんだけど、全然動いてくれない。
見たくもないのに目を逸らすことも出来ずそこに立ち尽くしていた私は、不意に、後ろへグイと引っ張られた。
腕を思い切り引かれ、教室の外に連れ出される。
そしてそのままグイグイと引っ張られるまま、何とか、歩き出した。


「――昼休みに教えたのに、何故こっちに来るんだ」


俯いて、足元ばかりを見ていた私の頭上から、手塚くんの声がする。
いつもの淡々とした声。
そのあまりにいつも通りの声に、私はほっとして、やっと、深呼吸が出来た。


「どうして……」
「もしやと思って来てみたんだ」
「そっか」
「……急ぐぞ。恐らくもう皆集まっている」


そう言って、私の腕を掴んだままペースアップする手塚くん。
きっと彼もあの二人の様子を見てただならぬものを感じたはずだけど、何も言わない。
そしてそのまま、すぐに会議が始まった。


淡々と進行して行くその会議の間、私はなるべくその内容に集中しようと思ったけど、そう思えば思うほど、さっきのシーンが頭に浮かんだ。
いくら頭を振っても、こめかみを指で押しても、それは私の頭の中から出て行ってくれない。
でも、それもしょうがないじゃない?
だって私はまだ子供で――こんな時に仕事と割り切って会議に参加するなんて無理だ。
あんな、彼氏の浮気現場を見て。
――ううん。あれは「浮気現場」なんかじゃない。


「――では、手元のプリントを提出し終えた所から帰っていい」


ガタガタと、周囲が騒がしくなって、私はハッと我に帰った。
いつの間にか会議が終わっていたらしい。
皆、何やらプリントを前の方に提出して、どんどん教室を後にする。


先輩、書けました?」
「え、なに?」


隣りに座っていた次期部長予定の子が、そんな私の反応にちょっと困ったように笑った。
そして、私の手元にあったプリントを指差す。


「これ。提出したら終わりですって。……まだ先輩全然書けてませんね」
「あ、ご、ごめん」


慌ててシャーペンを握ってプリントに目を通す。
簡単な質問事項に答える程度のものだったけど、私は全然頭が回らなくて、手が動かなかった。


「ごめん、ちょっと時間掛かりそうだから、先に帰っていいよ」
「そうですか?それじゃあ……」


お疲れ様です、と頭を下げて、彼女は自分の分のプリントを提出し帰って行く。
どうやら残っていたのは華道部だけだったようで、彼女が去ると、その教室内には私と、手塚くんと、あと生徒会の書記の子だけになってしまった。


「ご、ごめん、すぐ書くから」


私はそう言ってまたプリントに取り掛かろうとしたけれど、やっぱりスラスラ進まない。
罪悪感で焦れば焦るほど手は止まる。
きっと呆れているだろう、手塚くんはため息をつき、そして書記の子に声を掛けた。


「宮下、お前は先に帰っていい。時間が掛かりそうだから」
「え?そうですか?じゃあ……お先に」


丁寧に私にも頭を下げて去って行く男の子。
私もペコリと挨拶して、机に向き直った。
少し離れた席で、手塚くんは回収したプリントをトントンと揃える。
そして立ち上がったと思うと窓際へと行き、外を眺めた。
開いた窓からは、野球部のカキーンって言うバットの音や、サッカー部の掛声。
すごく小さくだけど、たまに、テニスのボールが跳ねる音も聞こえて来た。


「最近のお前は、本当に注意力散漫だな」
「……ごめん」
「昔は、そこまで酷くなかったと思うが」
「そうかな。そんなことないよ、結構昔からこんな感じ」
「まあ、確かに危なっかしいところはあったが――今のお前は、そう言うのとは少し、違う」


窓の外に目を向けたまま、淡々と話す手塚くん。
「そうかな」ってもう一度言った私の声は、ちょっと震えてしまった。
そうかな――そうかも。
すごく、楽しいんだけど、余計なことを考える時間がどんどん増えてきてしまった気がする。


「――やっぱりさ」


全然進まないプリントを前に、はあと息をつく。


「やっぱり、英二ってああ言う可愛い子の方が似合うよね」


なるべく明るく、何てことのないように言う。
手塚くんは何も言わずに、表情も変えずに、外を向いたままだった。
――英二は、このまま、続けるつもりなのかな。
絶対、あの子が好きなのに。
あんな、身を切るような声を絞り出すくらいに好きなのに。
あの子にも罪悪感を抱いて――きっと、私にもそれ以上の罪悪感を抱いて。
それって、誰かが幸せなのかな。


机から顔を上げる。
気が付くと、手塚くんがこちらを見ていた。
何も言わずにじっと。
また我慢大会?
こんな状況でちょっと笑いながら、私も手塚くんを見た。


「――お前の方が、似合う」
「え?」
「そう、慰めて欲しいのか」


まるで、事務的な連絡をするかのように、手塚くんは口だけを動かして、そう言った。
思いがけない彼の台詞に、私はすぐに目を逸らす。
そうじゃないって反論しようとしたけど、本当にそうじゃなかったか自信がなくて、言葉が出て来なかった。
足音が私の方に近づいて来る。
そして、私の前で、ピタリと止まった。
恐る恐る顔を上げれば、相変わらずの表情の読めない手塚くんの姿。


「――今の俺には、お前を慰めることは出来ない」
「い、いいの。そうじゃないの。大丈夫、だから」


私は慌ててそう言って、何とか書き終えたプリントを手に取って立ち上がる。
そしてそれを手塚くんに差し出そうとしたら、その腕をぐいと引っ張られて――抱きしめられた。
びっくり、した。
全部が頭から飛んで行ってしまうくらいに。


「て、手塚くん?」


もがいたけど、手塚くんはピクリとも動かなかった。
私も、本気でもがいたりしなかった。
手塚くんの腕が、すごく温かったから。
息を吸うと、手塚くんの匂いが肺に入って来る。


「……慰めて、くれてるの?」
「慰めることは出来ないと言ったはずだ」


じゃあ何で?
聞こうと思ったけど聞けなくて、手塚くんの背中をぎゅっと掴んだ。
もう一度、深呼吸する。
手塚くんの手が緩められて、ゆっくりと体を離して顔を上げると、すぐそこに手塚くんの顔があった。
また、私をじっと見下ろす。
こんな至近距離での我慢大会なんて、今まで経験がない。
私は手塚くんと同じようにじっと見上げる。
無意識に手を伸ばし、唇に触れて、頬に触れて――眼鏡のフレームに指が触れた時、手塚くんの手に阻まれた。
少し目を細めた私から視線を逸らし、手塚くんは顔を僅かに伏せて眼鏡を外す。
吸い込まれそうな目。
私はそれに抗うことなく、唇を重ねた。








英二とは、次の日に別れた。
別れを告げるのは恐ろしいほど勇気がいったけど、言った後は涙を流しながらも、少し、すっきりしていた。
二人が付き合い始めたと言う噂は、まだ私の耳には届かない。
でも、ゆっくりと距離を縮めて行けばいいんだと思う。


私はと言えば、私が部長を引退した後も、手塚くんが生徒会長の任期が満了したあとも、相変わらず、我慢大会を続けている。
廊下ですれ違ったり、たまに学食で見かけたり、図書室で目が合ったときに。


「いい加減、君たちも付き合えばいいのに」


気が付くと、すぐ傍に来て不二くんがそんなことを言って来る。


「僕は、手塚が君のことを一年の頃からずっと好きだったって気づいてたよ」


本当に君って鈍感でしょうがないよね。
最近の不二くんは皮肉って言うよりストレートにこんな風に嫌味を言うようになってしまった。
鈍感な私への報復、なのか。


「手塚は無愛想だから、女の子と仲良くするのを見てヤキモキするって言うことはないんじゃない?」
「――どうだろう」


確かに、そう言う心配はないかもしれないけれど。
思ったほど堅物ではない気がする。
――教室であんなことが出来るくらいだから。


さん、何赤くなってるの?」
「……何でもないよ。いいの。私もゆっくり、距離を縮めて行くから」


クスリといつものように笑う不二くん。
でもその笑みはあまり意地悪くなかった。


前から手塚くんが廊下を歩いて来る。
最近、私が連敗中だから――今日こそは負けないよ。
私は心の中で呟きながら、手塚くんをじっと見つめた。