fall from virtue
いつ言うつもりだろう。
今日が最後なのに。
私は蓮二をじっと見つめながらそう思っていた。
けれど、蓮二は最後まで貞治にそれを言うことはなかった。
「――言わなかったんだね」
テニスクラブから一人出て来た蓮二の表情は冴えなかった。
貞治との決着が付かなかったことへの後悔なのか、打ち明けられなかったことへの後悔なのかはよく分からない。
私を見た蓮二の顔が、少し痛そうな顔をする。
けれどすぐ平然を装ったように俯き、私の前を通り過ぎようとする。
「――貞治には、お前から言っておいてくれ」
その声が震えているのが分かる。
本当は、私にも言わないで行ってしまうつもりだったんだろうか。
私が蓮二の様子がおかしいことに気が付いて無理やり打ち明けさせることをしなかったら、私にも黙って目の前から消えてしまうつもりだったんだろうか。
その背中を見つめて、たまらなく切なくなる。
遠くに行っても友達でいてね。
連絡するから。
そう素直に言えばいいのに。
行かないで。
ずっと一緒にいたい。
そんなわがままでも言えればいいのに。
「私が貞治取っちゃうから」
結局、絞り出すようにようやく言えたのは、そんな言葉だけだった。
男子テニス部が関東大会出場が決定したことは、次の日の朝に同じクラスの大石くんから聞いた。
たぶん今年のメンバーでは間違いなく行けるだろうと思っていたから、私は特に驚きもせず「そう、おめでとう」とだけ言った。
ちょっと素っ気なさ過ぎたみたいで、大石くんは苦笑いを浮かべる。
「あ、そうか。もう乾から聞いてたのか」
「ううん、別に貞治からは聞いてないよ。でも大石くんたちなら余裕だろうなと思ってたから」
「はは……ありがとう」
朝から英語の教科書を忘れたと言って大石くんに借りに来た菊丸くんが、相棒の首に絡まりながら「さんも応援に来てね〜」と言う。
重い、苦しい、と言いながらも笑顔のままの大石くん。
多少その笑みは引き攣っているけれど、でも、この二人は本当に仲がいい。
私もこんなふうにストレートに仲良くなれればいいのに。
「でも、私も関東大会出るんだけど」
「だいじょーぶ!個人戦とは日にちが違うはずだから!都大会来てくれたじゃん!」
「さんが来てくれると、皆の気合いの入り方が違うんだよね。俺からも頼むよ」
「それって、ただ単に私が皆から怖がられてるとか言うオチじゃないの?」
「違うって〜!乾汁を平気な顔で飲めちゃうトコは怖いけど〜」
「こ、こら、英二!」
慌てて菊丸くんの口を押さえようとする大石くんに、今度は私が苦笑い。
最初に乾汁を完成させたとき、貞治に「ちょっと味見をしてみてくれ」と頼まれて。
「いけるんじゃないの?」と私が言ってしまったのが、皆の悲劇の始まりだったらしい。
おかげで私は不二くんと並んで「味覚がおかしい人物」の筆頭に挙げられてしまっている。
あと、私は女子テニス部に入っていて、たまにミクスドの選手として彼らと一緒に練習することがあった。
私は普通にいつもどおり練習しているだけなのだけど、何故か「女じゃない」とか「化け物」だとかよく言われる。
それを言うのは、主に二年の桃城くんとか、今年の春から入って来た生意気なルーキーなんだけど。
「そう言えばさ、去年も都大会までは応援に来てくれたのに関東大会は頑なに拒否してたよね?」
「そうだよ〜!おかげで去年は関東大会で4位だったんだから!」
「ちょっと、人のせいにしないでよ」
私が口を尖らせると、菊丸くんがそれよりももっと大げさに口を尖らせた。
本当にこの人には敵わないと言うか……。
でも、関東大会に応援に行くわけにはいかない。
まさか立海大附属が県大会で消えているはずはないだろうから。
「――関東大会出場が決まったよ」
休み時間、廊下で会った貞治が淡々とした口調でそう言った。
私が黙って頷くと、貞治は眼鏡を手で上げながら少しだけ顔を俯かせる。
「来るのか?」
去年の春や秋と同じことを聞いて来る。
以前はもっと声が震えていたような気がしたけれど、さすがに今回はもう慣れて来たのか、いつもと変わらない声。
「ううん。行かない予定」
「そうか……」
私が首を横に振ると、ふうと息を吐き行ってしまう貞治。
その後ろ姿を見ていると、普段は忘れていることを思い出してしまう。
蓮二がいなくなって、中学は貞治と同じ青学へ入って、当然のように二人ともテニス部に入って。
暫くして貞治に言われた。
ずっと私と蓮二に嫉妬していたのだと。
ずっと蓮二の位置に立ちたかったのだと。
テニスクラブでたまに開かれるミクスドの大会では、いつも私は蓮二とペアを組んでいた。
それは本人たちの希望ではなくて、最初は大人たちの意見によって。
でも結果的に彼らの目は正しかったのかもしれない、私たちは最強のペアと言われるようになった。
私は、その貞治の台詞を聞いて、彼がずっと私とミクスドでペアを組みたかったのかと思った。
「じゃあ、今度私とペア組む?先生に頼んでみようよ」
「――そうじゃない」
私の言葉に、貞治は怒ったような声を出す。
驚いて彼を見上げると、貞治は、私を、ずっと好きだったと言った。
「蓮二がいなくなって、つらかった。――けど、少しだけ、嬉しかった」
想像もしていなかった貞治の台詞に、私はすぐに言葉が出てこなかった。
でも答えだけは決まっていた。
貞治の気持ちに応えることは――やっぱり出来ない。
蓮二にあんなことを言っておきながら、私の中には結局蓮二しかいないんだ。
「謝らなくていい。俺こそ困らせて悪かった」
俯く私にそう言う貞治の声は、もう怒っていなかった。
今まで通り変わらないでいてくれればいい。
そう言われて、私はなるべく色々考えないようにして来た。
今もそうだ。
でも、ああ言う貞治の顔を見ると、時々、自分は間違っているんじゃないか――なんて思う。
数日後、緒戦の相手があの氷帝に決まったのだと、菊丸くんが物凄く嫌そうな顔をして教えてくれた。
「え?なんで?氷帝って都大会で二位とかじゃなかったの?」
「今年は大どんでん返しがあってね〜。あいつら五位だったんだよ!あーあ、あいつら苦手なんだよなぁ」
私も氷帝コールは知っている。
この前都大会の応援に行ったときも、遠くのコートで試合をしている氷帝の応援が聞こえてきて「相変わらずだな」と思ったばかりだ。
「まあ……頑張ってね」
「何だよ、その他人事みたいな台詞!、ほんっとに応援来いよ!来なかったら絶交だからな!」
「絶交て……」
「、青学コールやってよ!」
「いや、そんなんやったことないし。て言うか、私にそれをやらせるってどうなのよ。後輩にやらせなさいよ、後輩に」
「のケチー!」
ムチャクチャなことを言う菊丸くんに私は顔を引き攣らせ、隣りにいた大石くんは苦笑い。
不二くんは楽しそうにニコニコと笑って言う。
「でもさ、乾もレギュラーに戻って来たし、応援してやってよ」
「ああ、うん……」
「それに、ほら、関東大会に行けば彼に会えるんじゃないの?君たちの幼なじみの――」
柳、だっけ?
不二くんの口から出て来た名前に、私は不覚にもビクンと肩を揺らしてしまった。
変わらず微笑を浮かべている不二くんの考えていることは、よく分からない。
私の気持ちを知っていてわざと言っているんじゃないか――なんて、考え過ぎだろうか。
「やなぎー?だれ、だれ?それ!」
「立海で、一年の頃から三強って言われてる奴のうちの一人だよ。ね?」
不二くんは私の方を見て、同意を求めるように首を傾げる。
私はなるべく自然になるように気を付けて頷いた。
「――なんか、そう呼ばれてるみたいだね」
「あの立海で!?さすが、の幼なじみ……」
「……その『さすが』が妙に引っ掛かる気がするんだけど、気のせいかな、菊丸くん」
「気のせい気のせい!」
「ああ、そっか。もしかして、その彼とどっちを応援すればいいか困っちゃうから、来ないの?」
「そう言うわけじゃないよ」
「だいじょーぶ!緒戦はあいつらじゃないから!」
指がちぎれるんじゃないかと思うくらいブンブンと振りながら、菊丸くんと指切りをさせられ、私は応援に行かざるを得ないような状況になってしまった。
確かに、そんなに頑なになる程のことじゃないはずなんだ。
会いたくないわけじゃない。
寧ろその逆なはずなのに、何だか――会ってはいけないような気がしてしまうのは、何でなんだろう?
不二くんが、私の方を見て、またクスリと微笑う。
私も何かを誤魔化すように彼に向って笑った。
大会当日、珍しく大石くんが時間になっても来ていなかった。
まさかあの大石くんが寝坊するわけはないから、事故にでも巻き込まれたんじゃないかとか、いろいろな憶測が飛び交う。
何でだろう、妙な胸騒ぎがして落ち着かなかった私は、探しに行くと言って一人その青学の団体から外れて走り出した。
「!」
後ろから聞こえて来た貞治の声が少し緊迫していたように感じたけれど、私は気にせず会場の出口へと向かう。
その時はとにかく大石くんのことしか頭になかったのだけど、入口の方からこちらに向かって来る人たちを見て、一気に、自分の中が真っ白になった。
明らかに、他とは一線を画した、圧倒するような雰囲気を持った集団。
その中でやや後方を歩いている人。
一度走るのを止めた私の足は、全く動かなくなってしまった。
隣りの人と喋っていた彼が、前に立っている私に気づく。
その瞬間、足だけじゃなくて全身が動かなくなる。
「――」
低い声。
背も高くなって、声も変わって。
知らない人たちに囲まれて。
全くの別人のようなのに、涙が込み上げそうになって、私はぐっと拳を握り締める。
蓮二の声に、周りにいた人たちの視線が一斉に私に向けられる。
「――ごめん、急いでるから……っ」
そして私の方に一歩踏み出してきた蓮二に、私は急に金縛りが解かれて、逃げるように走り出した。
暫くして、大石くんと連絡が取れたと菊丸くんから携帯に連絡があって皆のところに戻った後も、何となく貞治の顔を見ることが出来なかった。
別に何の後ろめたさを感じる必要もないはずなんだけど目を合わせられない。
そんな私に、貞治は何か勘付いたのかもしれない。
「会場は広いから、あまり一人で動き回らない方がいい」
普段そんなことを言わないくせに、貞治が私の後ろに立ってそんなことを言う。
隣りでそれを聞いていた越前くんが「乾先輩って過保護っすね」と下を向いたまま呟くように言った。
「先輩にそんな心配不要だと思いますけど」
いつもの余計な一言に、普段ならその帽子を取り上げるところだけど、何となく救われた気がして、私はちょっと笑った。
貞治たちの試合が始まって、最初は優勢だったけれどだんだんと相手チームに試合の流れが移って行って、一時はおさまりかけていた氷帝コールが激しさを増してきた。
普段通りの貞治。
そう、いつも通り。
落ち着いてデータテニスをする彼は何も変わらないのだと思うけれど、どうしても、見ていることが出来なくて私はベンチから立ち上がった。
試合に集中していて私がその場から去ることに誰も気付かない。
不二くんが振り返った気がしたけれど、ほんの一瞬だったので私のことに気付いたのかは分からない。
自販機で水を買い、近くにあった木陰に腰を下ろす。
何をしているんだろう。
水を一口飲んでため息をつく。
自分の試合の時だったらこんな余計なことを考えなくていいのに。
もう一口飲みかけた時、少し強い風が吹いて木の葉が一枚落ちて来た。
「――こんな所にいていいのか?」
近くの芝の鳴る音。
そして同時に――ついさっき聞いた低い声。
でも、やっぱり少し、昔の名残がある。
私の心臓がドクンと跳ねた。
「柳せんぱーい、行っちゃいますよー?」
少し離れた所から、そんな声。
さっき一緒にいた人たちの中の一人だろうか。
振り返りもせず、身を固くしてそんなことを思う。
「ああ、すぐに追いつくから、先に行っててくれ」
俯いた視線の先に、テニスシューズが映る。
ふわりと、風に乗ってきた香りに、私はどんな顔をしていいか分からなくて、更に俯いた。
ああ――私は一体何をしているんだろう。
貞治はまだ試合をしているって言うのに。
ずっと、ずっと会いたかった人がすぐ隣りに座っていることへの緊張と喜びと、それを感じてしまっている自分への罪悪感と。
ごちゃごちゃになって、訳分からなくなって、私はペットボトルをぎゅっと握りしめた。
「――もう、試合は終わったのか?」
私は小さく首を振り、何とか声を出す。
「貞治は――大丈夫」
「そうか……そうだな」
ため息交じりの声。
私が恐る恐ると言った感じでゆっくり蓮二の方を見ると、蓮二も私の方を向いた。
「お前も、元気そうだな」
今度は縦に首を振る。
けど、声を出すことは出来なかった。
「――お前の話は、聞いてる」
「え……」
「テニス、続けているらしいな。関東大会では優勝候補なんだろう?うちの女子が話していた」
「そんなこと……ないけど……」
蓮二が、私の知らないところで私の話を聞いていることが、すごく擽ったくて恥ずかしくて、顔が熱くなる。
こんなの、いつもの私じゃない。
何度も何度も心の中でそう呟くけれど、体中が言うことを聞いてくれない。
今の私を越前くんや桃城くんが見たら、一体どう思うだろう。
「ミクスドも、やってるのか」
「……うん」
「そうか」
本当はその答えを聞きたくないような。
私は声が震えそうになるのを必死に堪えて、ゆっくりと口を開く。
「――蓮二は?」
「俺は、やっていない」
「え、そう……なんだ……」
ほっとしたのが顔に表れてしまったんだろうか、蓮二はちょっとだけ口元に笑みを浮かべた。
私は慌てて目を逸らし、ペットボトルの蓋を開ける。
けれど、続く蓮二の台詞に、私はそれを呷ることが出来なかった。
「お前以上の相手は見つからない」
なんで。
なんでこの人はこんなことを平然とした顔で言えちゃうんだろう。
違う。
分かってる。
きっと、それは、ただ単に冷静にデータを分析した結果でしかないんだ。
「――でも」
悔しくて、悲しくて、私は思わず口を開く。
「でも、私は貞治と組んでる」
嘘だ。
結局、私は貞治と組むことが出来なかった。
三年前から私は全然成長していない。
こんなことを言っても、蓮二は何とも思ってくれやしないのに。
涙が零れそうになって慌てて立ち上がる。
「――」
会いたかった。
ずっと会いたかった。
声が聞きたかった。
私にも、蓮二以上の相手なんて見つからない。
どうして、素直に言えないんだろう。
「――っ、痛い」
不意に蓮二に掴まれた腕が痛んで、私は涙が堪えられなくなって、慌ててシャツの袖口で拭う。
「あいつでは、お前の能力は完全に引き出せない」
「そんなの――分からないじゃないっ」
「分かる」
少しだけ、蓮二の声が大きくなった気がして、私はその腕を振り払おうとする力を緩めてしまった。
顔を上げて、蓮二を見る。
昔テニスクラブを出た所で見た表情に似ている。
「お前のことを一番分かってるのは――貞治じゃない」
「じゃあ……誰だって言うの」
涙が込み上げそうになって、私は歯を食いしばる。
蓮二の肩越しに、青と白のジャージ。
涙でぼやけかけた視界にそれは鮮やかに飛び込んで来て――
「不二、くん」
蓮二が掴んでいる私の腕にチラリと視線を向けたけど、浮かべている笑みは変わらずに、不二くんが静かに言った。
「――乾、負けたよ」
ああ――ワタシハナニヲシテイルンダロウ?