必然




渡り廊下を半分渡り切ったところで、ふと視線を上げると、向かいの棟の廊下を歩く柳くんの姿を見つけた。真っ直ぐ前を向いて歩いていた彼が、ふいと立ち止り、こちらに顔を向ける。
こんな遠くからじゃ彼の表情の変化までは分からない。
元々彼はそんなに分かりやすい形で感情を表に出すこともないし。


ひらひらと小さく手を振ってみる。
口元が僅かに緩んだような気もしたけど、やっぱり良く分からない。
柳くんはそのまま歩き出し、私もすぐに視線を元に戻した。






柳くんとは今年に入って同じクラスになったけど、まだあまり喋ったことはない。
席が近くなったこともなければ、班や係が一緒になったこともない。
特に何か趣味や好みが同じと言う情報も入って来ないから、話しかけるきっかけもない。
「おはよう」とか「ばいばい」が、多くて週に1、2回。
後は「○○くんが探してたよ」と声を掛けたことがあったような気がする。


そんな有様なのだけれど、何故か目が合う回数はびっくりする位多い。
別にお互い意識している訳じゃなくて――柳くんだって意識はしていないはず――さっきみたいに、不意に視線がぶつかるのだ。
最初は気恥かしくてすぐに目を逸らしたけど、人間、だんだんとふてぶてしくなって行くもので。
柳くんもたまに目をなかなか逸らさないことがあったりして、何となく、今みたいに手を振ってみたりする。
一番最初こそちょっと緊張したけど、一度振ってしまえば何てことはない。
もう半ば癖のようになっている。
しかしそれは一方的な癖で、柳くんが手を振り返してくれたことはない。


用事を済ませて教室に戻ると、柳くんは既に自分の席に戻って何か本を読んでいた。
チャイムが鳴るのと同時に顔を上げた彼とまた一瞬目が合ったけど、流石に今回は手を振る余裕はなかった。






授業の時、前を向くと自然と柳くんが視界に入ってしまう位置。
当然のことながら、彼が授業中船を漕いだりするのは見たことがない。
でもたまに、「あ、今、退屈してる」と思う時があった。
実際に退屈なのかどうかは、流石に後ろ姿だけじゃ分からないけれど、机に肘を突いてシャーペンを持つ指が何となく怠惰な感じに見える時があって、ああ、今先生の話しがつまらないんだなぁなんて思ってしまう。
今の数学の授業も、中盤に差し掛かって、先生が「ここはテストに出るぞ」と何度も言いながら一つの公式を繰り返し説明し始めると、柳くんはその体勢を取った。
熱心にノートを取っている周囲とあまりに対照的で、思わず笑ってしまう。
きっと柳くんの場合、慌てて今頭にそれを叩き込まなくても、もう完全に覚えちゃってるんだろうなぁ。
ふ、と何気なく顔を上げる。
と、ばちり、と先生と目が合ってしまった。


「何だ、余裕だな、
「いえ、そんなことは――」
「じゃあ、この問題解いてみろ」


そう言ってテキストをこちらに向け、下の方に載っていた応用問題をパンパンと指で差す。
その上にある比較的簡単な練習問題を飛ばして、いきなり応用ってところが性格悪い。
私は肩をすぼめるようにしながら席を立って前に出た。


最近当たっていないから、そろそろ来るんじゃないか、なんて思っていたところだったから、そこはちょうど予習して来た場所だった。
今いち自信はなかったけれど、ノート片手に問題を解いて行く。
解答に到達し、ペンを置いて振り返ると、先生よりも先に柳くんと目が合った。
口の端が僅かに上がって、にやり、と言った感じの笑み。
隣りで先生が「何だ、やれば出来るじゃないか」なんて、聞き様によっては失礼な台詞。
柳くんももしかしたら同じように思ったのかもしれない。
私は柳くんに向かって同じように「ニヤリ」って笑い、先生の言葉にはノーコメントで席に戻った。






「柳くんてさ、ちょっと怖いよね」


私の周りでの彼の評価は大抵こんな感じだ。
完全には同意しかねるけど、皆の言いたいことも少し分かる。
愛想がいいってタイプじゃないし、気が利くってタイプでもない。
たぶん、他人以上に「気が付く」タイプではあるんだろうけど、だからと言ってむやみとそれをひけらかさないと言うか。
どこか突き放した態度なところが「怖い」とか「冷たい」とか言われてしまうのだろう。
――と知ったふうなことを言っても、私自身、彼とは殆ど話したことはないのは前述のとおりだ。


「何かあったの?」
「んー、別に。ただ、昨日日直でさ、英語の課題回収する時柳くんにも声を掛けたんだけど、何か、それだけで緊張しちゃうんだよね」


そう話す彼女も今年初めて柳くんと同じクラスになったクチだ。
最初は、あの人気のあるテニス部レギュラーと一緒のクラスになれて喜んでいたけど、やっぱりいざ話してみようとすると近寄りがたくてちょっと怖い、と言うことらしい。


「あー、分かる分かる。見透かされてるって言うのかなぁ、前に立つとやたらと緊張するよね」


もう一人の友達が彼女の意見に同意する。
「先生の前に立つ時みたいな?」って聞いてみると、二人とも口をそろえて「先生よりも緊張するよ!」と主張した。






そんな会話のあった数日後、たまたま廊下を歩いていた私は、去年の担任だった化学の先生につかまってしまった。
第二化学室に出してある模型を準備室の方に片付けて欲しいと言う。


「誰かに手伝って貰ってもいいぞ」
「はぁい」


そう返事はしたけど、放課後に特別教室の並ぶ棟で、知っている人に会う確率は物凄く低い。
わざわざ誰かをクラスまで呼びに行くのも面倒だし、一人でちゃっちゃと片付けようと、私は第二化学室に向かった。
そしてその入口のドアを開けて、一瞬気が遠くなりかけた。
なるほど、手伝って貰えと言うはずだ。
教壇の大きな机にずらりと並べられた模型は、どれも大した大きさではなかったけれど、数が半端じゃなかった。
一体あの先生は授業でどれだけ化学式の模型を使うんだ。
私はやれやれとため息をつきながらも、このまま途方に暮れていても仕方がないので、黙々とそれらを準備室の方へと運び始めた。


「――もう殆ど終わってしまったか」


片付けも殆ど終わりかけたとき、ドアを開け放しにしていた入口の方からそんな声。
先生が用を済ませて様子を見に来たのかと思った私は、文句の一つも言ってやろうかと思いつつ振り返る。
すると、そこに立っていたのは柳くんだった。
思いも寄らない人物の登場に言葉を失う私。
構わず柳くんは中に入って来た。


「そこで谷崎先生に言われて手伝いに来たんだが、一足遅かったようだな」


そう言いながら、残っていた最後の模型を手に取る柳くん。
いいよ、大丈夫だよ、とそれを取り返そうとしたけれど、柳くんはするりとかわす。


「なかなかが終了の報告に来ないから、谷崎先生が心配していたようだぞ」
「……それなら自分で見に来ればいいのに」


私が口を尖らせると、柳くんは立ち止り、ふっと笑う。


「俺では嫌だったか」
「え――」
「冗談だ」


言葉を詰まらせる私をそのままに、柳くんは再び歩き出し、部屋を出て行こうとする。
思わずぼーっとその背中を見送りそうになってしまったけど、私も慌ててその後を追った。


「……ありがとう」
「いや。もう少し早く来ればよかったな」


こんな時間にこの辺りを歩いているなんて、生徒会の仕事でもあったのかな、とか。
部活は行かなくて大丈夫?とか。
廊下を並んで歩きながら、頭の中で色々考えてはいるんだけど、何故か口に出すことが出来ない。
柳くんも別に話しかけて来ないから、二人で黙々と歩く。
肩の位置が私と全然違って、やっぱり背が高いんだなぁと今更ながら感心したりしながら。
準備室までの距離って、結構遠いような近いような。
柳くんの歩く速度は思った以上にゆっくりで、もしかしたら私に合わせてくれているのかもしれない。
ゆっくりゆっくり歩く。
変に歩幅を意識し過ぎるせいだろうか、その他の、呼吸とか、手の動かし方も妙にぎこちなくなる。


「――も、俺が怖いのか?」
「え……え?」


私がドアを開け放しにしていた準備室の入口に差し掛かったところで、柳くんがまるで独り言でも言うかのようにポツリ。
最初何のことを言っているか分からなくて、思考と一緒に足も止まってしまった私に構わず、柳くんはスタスタと中へ。
そして何事もなかったかのように、奥の棚へ模型を仕舞う。
私はバタバタとその彼のもとへ走り寄り、その時、ついこの前、友達としていた会話を思い出した。


「もしかして、あの会話、柳くん聞いてたの?」
「盗み聞きするつもりはなかったんだが――耳に入って来た」
「そうだったんだ……」


柳くんが棚の扉に手をかける。
けど、その場から動こうとしない。
私もそんな彼の背中を見ながら、何となく動けないでいた。


はあの時肯定も否定もしていなかったが」
「そうだったっけ。まあ……肯定も否定も出来るほどよく知らないから――」
「よく目は合うが、な」


ゆっくりと振り返った柳くんの口元には、複雑な感じの笑み。
反射的に浮かべた私の微笑いも、何だか曖昧なものになってしまった。


「目が合う、よね」
「そうだな」
「そうだよね」


あの時、能天気に手を振ってしまうくらいなんだから、私は柳くんを怖いって思っていないのかもしれない。
けど――やっぱり緊張する、と思う。
だって、今だってこんなに心臓がドキドキとやかましいくらいに鳴っている。
そう言えば、こんなに言葉を交わすのは初めてだ。





一歩、こちらに踏み出して来る柳くんの顔には、もう笑みは浮かんでなかった。
私は後ろの棚に背中をはり付かせる。
やっぱり怖い、かもしれない。
怖い、のかな。
少しでも動けば、すぐに触れそうな位置に立つ。
柳くんがじっと私を見下ろす。
私も彼をじっと見上げる。
こんなに近過ぎると、流石に手は振れないな……なんて、ちょっと場違いなことを考えながら。


「目が合うのは、偶然だろうか」


きっと、そんな変なことを考えることで必死に冷静さを保とうとしていたんだろうな、と後で思った。
そんなの、無駄な努力なのに。


「偶然、だよね」
「そうか」
「そう――だよね?」


柳くんの手が伸びて来る。
頬に、耳に触れるんじゃないかと反射的に身を固くしたけれど、彼の手はするりとそこを通り過ぎて、私の後ろにあった棚の扉を静かに閉めた。
一人緊張している自分が馬鹿みたいで、ほっと息をつき肩の力を緩めた瞬間、柳くんの指が髪に触れる。


「棚に挟まれるぞ」


そう言いながら撫でる彼の手の動きは、棚から髪をかばうだけにしてはやたらと緩慢で、じれったいほどで。
そして不可抗力のように耳朶を掠めると、ゆっくりとそれを下ろした。


「――柳くん、からかってる?」


声に精一杯の非難の色を滲ませる。
けど、これだけの至近距離、それよりも震えの方が目立っていたかもしれない。


「そんなに、余裕があるように見えるか?」
「少なくとも……私よりは」
「そうか」


柳くんのちょっと困ったような笑みが、ほんの少しだけ、可笑しそうなものに変わる。


は、もう少し洞察力を磨いた方がいいな」
「どういう意味?」
「今のところ、全て不正解だ」


柳くんの言葉の意味が分からない。


「――さて、帰るか」


ううん、違う。
分からないふりをして、ちゃんと、柳くんの口から聞きたいだけなのかもしれない。
背中を向けて出口へと向かおうとする彼の制服の裾を掴む。
私の行動はお見通しなのか、特に驚いたふうもなく、振り返る柳くん。


「ちゃんと、言って」
「言っていいのか?」


問いかけるその声が一段と低くなって――甘やかになって。
服の裾を握っていた手を掴まれた時、私は軽い目眩を覚えた。