discretion
幸村くんが倒れた。
柳くんからの電話でそのことを知ったとき、目の前が真っ暗になった。
「―――ここには来ないでくれ」
命に別状はない。
そう言われたけれど本人の姿を見るまで安心できなくて、駆けつけた病院。
そこでいきなり言われたその台詞に、私は声も光も失った。
幸村くんとは小学校が一緒で、6年のときに初めて同じクラスになった。
それまで全然話したことなんかなくて、クラスが一緒になったとは言っても最初は必要最低限の会話だけ。
けれど中学は同じ立海を受けると聞いて、2学期位から急に話すようになった。
無事に二人とも合格して立海に入って、たまたま同じクラスになって。
気が付くと一緒にいるようになっていた。
面白いテレビ番組を見ると、次の日にはまず幸村くんに「見た?」って聞いて。
―――まず幸村くんが見ていることはなかったけれど―――。
すごくいいと思った音楽は、まず幸村くんにCDを貸した。
自分の生活の中で、一番近い存在だった。
来ないでくれ
そう言われた後、どうやって家に辿り着いたかは覚えていない。
とにかく、一生懸命考えた。
何でそんなことを言ったのか。
どうしてそんなことを言わなきゃいけなくなってしまったのか。
考えて考えて考えて―――出した結論。
幸村くんに会わない
考えて、考えすぎて、私は選択を誤ったのかもしれない。
「あのね、真田くん。駅の近くにラ・プリメールって言うケーキ屋さんが出来たの知ってる?東口のモスの近く。あそこのシュークリーム美味しいよ」
「……。そう言う情報はまず柳か丸井に伝えてくれ」
廊下でちょうど見かけた真田くんに、新しく見つけたお店のことを話す。
真田くんの言うことは分からなくもないけれど、隣りのクラスの真田くんに会う機会の方が、他の二人に比べて断然多い。
眉間に皺を寄せて私を見る真田くん。
最初はちょっと怖い人だと思ったけれど実はそれほどでもなくて、今もこんな顔をして私を睨んでいるようだけどただ照れているだけなのだ。
「―――今、俺の名前が聞こえた気がしたが?」
珍しく柳くんが通りかかる。
どうやら真田くんに英和辞書を返しに来たらしい。
「柳くんが辞書を人に借りることなんてあるんだね」
「実は午前中、仁王に貸したんだがつかまらなかったのだ」
「それは……大変だったね」
「ところで、何の話をしていたんだ?」
「ん、美味しいケーキ屋さんを見つけたから、今度またお見舞いにどうかな、と思って」
が自分で持ってけばいいじゃないか。
幸村くんが入院したばかりの時は皆がそう言ったけれど、最近は誰も言わなくなった。
「この前が持ってきたパウンドケーキは、どこの店だったかな。あれはあまり甘くなくて精市も結構気に入ってたようだが」
「あれは……」
柳くんの台詞に、私は曖昧な笑みを浮かべる。
あれは、私が自分で焼いたものだ。
もしかしたら知ってて聞いているんだろうか?
柳くんの表情は読めない。
幸村くんが気に入った、というのは本当だろうか。
彼は―――気づかなかっただろうか。
「うむ、あれは確かに……旨かった」
たぶん真田くんは気付いていないな。
ちょっと苦笑い。
「そう言えば、もうじき関東大会なんだよね?また差し入れ持って行っていい?」
「ああ。皆喜ぶ」
「主に丸井がな」
「初日とかがいいかな?」
「いや、どうせなら最終日がいい」
柳くんの言葉に、真田くんがピクリと片眉をあげる。
けれど特に私は気にせずに、首を傾げてちょっとからかうような笑み。
「決勝の日?大丈夫なの?」
「どういう意味だ」
真田くんの眉が、さっきよりも1センチは上に上がった気がする。
「、あまり弦一郎をからかうな。」
柳くんがため息をつきながら苦笑い。
ごめん。真田くんが真面目というか一直線な感じだから、ついつい構いたくなる。
「この前のパウンドケーキを持ってきてくれるか?」
「え?うん……いいよ」
別にケーキを焼くことくらい簡単だ。
果たして自分の作ったものなんかでいいのか、ちょっと不安だけど。
関東大会の決勝前の週末。
柳くんが私の教室までやって来た。
「、明日の時間なんだが……早めに来てもらっても構わないか?」
そう言いながら、少し申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
差し入れを持って行くという約束。
私は、もちろん構わないよ、と笑って言った。
「9時くらいに来てもらえるとありがたいんだが」
「うん、大丈夫だよ」
「場所は分かるか?駅で待ち合わせた方がいいだろうか」
「え?うーん……たぶん大丈夫だと思うけど」
「しかし秋の会場とは違うぞ?」
きっと大丈夫だろうとは思ったのだけど、柳くんが何度も大丈夫かと聞くので駅で待ち合わせることにした。
心配性だな。
その時私はそう思ったけれど、実は柳くんの目的は違うところにあったのだ。
改札の中で待ち合わせ。
敢えてそう言って来る彼をちょっと不思議には思ったけれど、そんなに深く考えなかった。
当日の朝。
待ち合わせの駅に約束の10分前に着くと、ホームと改札を繋ぐ階段には既に柳くんが立っていた。
立海のジャージに、テニスのバッグ。
本当なら幸村くんも同じ格好をして、今日この駅に来ているはずなのに。
壁に寄りかかるようにして立っている彼を見て一瞬そんなことを思い、胸が、痛くなる。
「おはよう、柳くん。ごめんね、待たせちゃった?」
「いや、ちょっと早く着き過ぎてしまった」
そう言って苦笑しながら「では行こうか」と階段を上がる。
「え?あれ?柳くん?改札は下だよ?」
階段の上はホームだ。
こんな間違いをするなんて珍しい。
きょとんとする私に、柳くんは「いや、上でいいんだ」と微笑う。
「に差し入れをして欲しい奴は、隣りの駅にいるんだ」
「え―――?」
自分の表情が強張るのが分かる。
隣りの駅に何があるかなんて、考えるまでもない。
一度だけ、数か月前に降りた所。
「?」
「……私、行けないよ」
「なぜだ?」
「なぜって……」
「あいつが『来るな』と言ったからか?」
「―――知ってたの」
以前に本人から聞いた。
淡々とした口調でそう言う柳くんの言葉に、体の力が抜けた。
「の出した結論だ。俺達が周りでとやかく言うことじゃない……そう思って今まで黙って見てきたが、今日は言わせてもらおう」
「柳……くん?」
「お前は考え過ぎだ。もう少し自分の思ったとおりに行動した方がいい」
「思ったとおり……?」
「幸村に会いたくないのか?」
あまりにストレートな質問。
私は言葉に詰まって、ただじっと柳くんを見つめるしか出来ない。
会いたくない?
幸村くんに?
そんなわけ――ーない。
幸村くんがいなくなってから、今までまいにちまいにちまいにち、会いたくて仕方なかった。
「精市が好きじゃないのか?」
好きじゃないわけ―――ないじゃない。
でも頷くことが出来ず、代わりに涙が零れる。
慌ててゴシゴシと手で拭ったけれど、それくらいじゃ、この数ヶ月間の涙は止まってくれないらしい。
目の前に柳くんのハンカチ。
「今日は午後から精市の手術がある」
「――ーえっ?」
「成功率は決して高いとは言えないらしいが、あいつはそれに立ち向かうことを選んだ」
手術を受けることになるらしい。
少し前にそんな噂を耳にはしたけれど、テニス部の皆に聞いてもちゃんと教えてもらえなくて、それが今日であることも―――成功率が高くないことも、知らなかった。
「その前に、あいつに会ってやってくれないか」
柳くんが私を見る。
さっきよりも強い視線。
でも、私はまだ躊躇ってしまう。
「精市も、お前に会いたいと思ってる」
「そんなこと―――」
「そんなことない、とお前は言い切れるのか?」
でもきっと躊躇っている時間は、もうないのだろう。
私に最後まで言わせずに柳くんの声が重なる。
「あいつが、本当にお前に会いたくないと思って、言ったと思うか?」
思わない。
「あいつは、今でもに言ったことを後悔していないと言っていた。一時はテニスどころか普通の生活も出来なくなるかもしれないと医者に言われたらしい。そんなときにお前が側にいたら、間違いなく傷つけていただろう。そう話していた」
ひどいよ、柳くん。
こんな所で容赦なく女の子を泣かせるなんて。
「お前が誰よりも精市に近い場所にいたから、逆にどうしようもなく深い傷を負わせていただろう―――確実に」
分かってる。
そんなこと、分かってるよ。
「は、傷つけられるのが怖かったのか?」
「―――っ、違う……!」
「では、何を恐れていたんだ?」
それは―――傷ついた私を見て、幸村くんもまた同じように、ううん、それ以上に傷つくだろうから。
私はもう涙が止まらなくて、上手くしゃべることが出来なかった。
けど、きっと柳くんは私の答えなんて知っているんだ。
「俺たちも、試合が終わったらすぐに行く」
「……う、ん」
「一人で、行けるな?」
「うん……」
ハンカチを握って、ただ何度も頷くしか出来ない。
ごめんね。
ありがとう。
「ああそうだ。精市に会う前に顔は洗って行った方がいいぞ」
「……柳くんがそれを言う?」
ジロリ。
非難の目を向けたけど、柳くんには効果なく、小さく微笑われるだけ。
ホームに、電車の入線のアナウンスが響く。
私は背中を押され、階段を昇る。
「皆の応援に行けないね」
「全国の時に来ればいい」
電車の音が近付いて来る。
階段を昇る足を速める私に、もう一度だけ、柳くんの声。
「。……精市を頼むぞ」
「―――うん」
私は大きく頷いて、電車に乗り込んだ。