ワナ







名前を呼ぶと、彼女はびっくりした顔をして俺の方を振り返った。
そして俺の顔を見た後「何だ、幸村くんか」と目を細めて笑う。
クラスの誰にでも同じように向けられる笑顔。
俺は自分の中の嫉妬を隠すように微笑を浮かべる。


「部活の帰り?」
「ああ、も部活?」
「ううん。私は塾の帰り。すぐそこのSゼミに通ってるんだ」


知ってる。
この前教室で友達と塾に通い始めたと言う話をしていたから。
その塾が土曜のこの時間に終わって、その後に大概この本屋に君が寄るらしいって気付いたのは、ついこの前だけど。


は塾なんて行く必要ないんじゃない?」
「そんなことないって!数学と物理はずば抜けて成績悪いし……」
「数学と物理なら俺が教えてあげるよ」
「あのテニス部で忙しい幸村くんにそんな面倒かけられないよ!」


そんな面倒、いくらでもかけて欲しい。
でも君はそんな俺の気持ちなんて全く気付かず、プルプルと首を横に振る。


「幸村くんっていつ勉強してるの?部活とか半端なく忙しいはずなのに成績はいつもトップクラスだもんね」
「俺の場合は単に要領がいいんだと思う」
「だとしたら、その要領のよさを分けて欲しい」


大げさにため息をつきながら、手にしていた雑誌を棚に戻す彼女。
その細い指の何気ない動き。
毎度のことに自分で呆れながらも、俺は一瞬見とれた。


高校から立海に入った彼女とは同じクラスで席も近くなり、毎朝交わす挨拶は日課のようなものだった。
朝練を終えて教室に入って、一番に交わす挨拶の相手が彼女じゃないと一日が始まる気がしない。
そんなふうに思い始めたのはいつからだったろうか?
それは思い出せないけど、彼女のその手や表情や―――すべてを意識し始めたときのことは憶えている。


「幸村の手って見かけによらず大きいよね」


昼休みにと話してた女子が、どんな話の流れだったのか分からないけど俺の方を見て不意にそんなことを言い出した。
「見かけによらずってどういうことかな」と苦笑しながら読んでいた文庫本を閉じて彼女の方を見る。
「細かいトコに突っ込まないでよ」と笑う彼女の隣りで、自分の手と交互に俺の手を見る
その関心の先は、俺の手だけだったのだけど妙なこそばゆさを感じたのを憶えてる。


の手も大きいよね」
「私には『見かけによらず』って入らないんだ?」
「もーっ、までそんなこと言わないでよ!」


苦笑を浮かべる彼女に向って、可笑しそうに笑う
何故だかその時、無性にその笑顔を自分の方へ向けたくて、彼女の手を掴んでしまった。
少しびっくりした顔をするに気づかないふりをして、俺はその指に触れて何てことはないといった顔ををする。


って、指が長いんだね」
「あ、うん……そうかな」


よく手の大きさを比べる時にやるように、俺の手のひらと彼女の手のひらを合わせる。
女の子の手を握ることなんて別に初めてじゃないのに、俺の心臓は妙に騒がしかった。
その細さと冷たさと―――彼女の少しはにかんだ様な笑みが、さらに鼓動を大きくさせる。


そう言えば、彼女の好きな男が同じクラスの奴だと、余計なことを教えてくれたのも、そのとき一緒にいた女子だった。








彼女と一緒に本屋を出る。
CDショップに行くから付き合って欲しいと言うと、は「うん、いいよ」とすぐ頷いた。


「幸村くんがどんな音楽聴くのか興味ある」
「べつに、と変わらないと思うよ」
「私が演歌とか好きだったらどうする?」
「今度ぜひカラオケで聞かせて欲しいな」


他愛ない会話。
でも、こんな何てことない会話が自分にとってどれだけ大切か―――君はまだ気づいていないんだろう。
駅の反対側にあるCDショップへ向かうため、俺たちは駅へと歩き出す。
俺はチラリと腕時計に視線を落としたが、隣りのは特にそれを気にする様子もない。
ちょうどいい時間だ。


「ん?どうかした?幸村くん」
「―――いや、何でもない」


思わず声が出てしまっていたんだろうか。
首を傾げるに、俺は何でもないのだとニッコリと微笑んだ。


駅の改札口を通り過ぎ、反対側の出口へ出るために階段を下りる。
そして下りきったところで、隣りを歩いていたの足が止まった。
理由は分かってる。
目の前にある店の中の光景が信じられない。
そんなところだろうか。


「―――?」


俺はわざとらしく何も気づいていないと言った表情で、後ろで立ち止まったままの彼女を振り返る。
俺の声など耳に入らないかのように直立不動の彼女。
ある程度予想していたこととは言え、自分勝手にも彼女のその様子に苛立ちを覚えた俺は、やや乱暴に彼女の肩を掴んだ。


、どうしたの?顔色が悪いけど?」
「あ……う、ん、ごめん……何でも、ない」


無理して笑っているのがバレバレだよ、
でも俺は敢えて気付かないふりをして「そう?ならいいけど」なんて言って微笑む。
何でもないわけないよね、自分の好きな男が、他の女と一緒にいる場面に出くわして。


「あれ?あそこにいるの、サイトウじゃない?」


ビクリ、と肩を揺らして。
その動揺を必死に隠すように笑って「あ、ほんとだ」なんて今初めて気が付いたような素振り。
って演技が下手なんだね。
あまりに下手すぎて、もっと苛めたくなる。


「へえ……あいつも隅に置けないな」


クスクスと笑いながら白々しい台詞を口にする。
あの女をあいつに紹介したのは俺なのに。
そしてあの二人が毎週土曜日にあの店で待ち合わせるのを知っていたのに。
いや、知っていたからこそ―――なんだけど。


小学校が一緒で、たまに思い出した頃会う程度の女友達。
彼氏募集中とか言う彼女に、あいつの写真を見せたらすぐにその気になった。
あの男が押しに弱いのは知っている。そんなに仲がいいわけじゃないけど中学からの付き合いだからある程度性格は知っていた。
彼女はどんどん自分からリードしていくタイプだ。
それにブスじゃない。
一か月くらいは続いてくれるだろう。
その期待を裏切らず、二人は結構続いていた。








平然を装う彼女はCDショップに入っても必死に笑顔を見せていたけど、ほんの少し作った沈黙に、緊張の糸が切れてしまったらしい。
「ごめん」と言って、不意に立ち止まった。


「あの、私……忘れ物思い出して……。幸村くん、先に帰って?」
「忘れ物?どこに?」


首を傾げて聞き返す俺に、気が動転しているんだろう彼女は、上手い嘘が思い浮かばない。
前髪をかき上げて口を開きかけるけど、じっと見つめる俺の目を見ることが出来ないようだ。
はまた「ごめん」と言って俯いた。


「どうしたの?


彼女の隣りに立ち少し身を屈めて、優しく、優しく問い掛ける。
その言葉しか思い出せないかのように、またごめんと呟くように言うの声は、微かに震えていた。
そっと髪を撫でると、ポタリとアスファルトに黒い沁みが一つ。
二つ三つと落ちて、四つ目が落ちる前に彼女の顔を自分の胸に引き寄せた。


「ごめん、幸村くん……。私サイトウくんのこと―――」
「言わなくていいから」


言わなくていい。
あんな男のことが好きだったなんて。
俺はの肩を抱き寄せる。
嗚咽に震える彼女の肩はとても細くて頼りなさげで、強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。
髪を撫でる指が彼女の耳に触れて、その熱さに少し驚く。
―――でも、俺は後悔していない。


「―――泣かないで、


自分で泣かせておいて、我ながら白々しい台詞。
ごめん、と掠れ声のに「さっきからは謝ってばかりだね」と小さく笑って、囁くように。


「俺はいつでものそばにいるから」
「幸村……くん……」
がいつも笑っていられるなら、どんなことでもするよ」


君が俺の隣りで笑顔になるためなら―――どんなことでもする。


「ありがとう……幸村くん」


そう言いながら、まだ涙の止まらない
あの男のために流す涙だと思うと無理やりにでも止めたくなるけれど―――今日だけは付き合ってあげる。
でも明日からは、他の男のことを思うことは許さないから。








数週間後、サイトウが彼女と別れたと言う話をして来た。
「紹介してもらったのに悪かったな」と少し申し訳なさそうに言う彼に、俺は仕方ないとばかりに肩を竦める。
でも君たちは十分に役に立ってくれたよ。


「そう言えば、幸村、と付き合ってるってホントかよ?」
「―――ああ、ほんの少し前からね」
「俺もちょっと前は狙ってたんだぜー?」


知ってる。
だから彼女を紹介して、あんな場所にを連れて行ったんだから。
でも狙ってたと言いながら、別の女を紹介されて付き合ったんだから、結局その程度ってことだろう?
その程度の男が、ほんの少しのタイミングのズレで、もしかしたらと付き合っていたかもしれないと思うと、ぞっとする。


「飽きたら俺がいつでも代わりになるからな」
「それはあり得ないね」


冗談めかして言う彼に、俺も冗談めかして返したつもりだったんだけど、サイトウの顔がちょっと引き攣っている。
どうしてだろう?
俺の笑みは時折相手にこんな表情をさせてしまう。
でも、まあいい。
別にこれは冗談なんかじゃないから。


に手を出したら―――どうなるか分かってるよね?」


にっこりと、精一杯の笑みを作って。
ゆっくりとそう言うとサイトウは何故か逃げるようにどこかへ行ってしまった。


「―――幸村くん、お待たせ」
「ああ、。委員会は終わったの?」
「うん。サイトウくんと何話してたの?」
「ちょっとね」


さあ帰ろうか。
背中に手を回して微笑うと、はちょっとだけ困ったような笑みを浮かべた。






君が俺の隣りにいるためには、これからも、どんなことでもするから。