かせ 1




目の前が真っ赤になって―――次の瞬間、真っ白になった。
目が見えなくなって、耳が聞こえなくなった。
それは、ほんの一瞬のことだったけれど。
悲鳴が響き渡った、ほんの一瞬。





加藤教授は何かと俺をこき使ってくれた。
彼は両親の古くからの知り合いで、子供の頃から面識がある。
俺が大学に入ってきて、ちょうどいい小間使いが出来たと喜んだんだろう、ことあるごとに用事を言いつける。
今日は埼玉にある大学まで運転手を仰せつかった。

「―――じゃあ、用事が済むまでちょっとこの部屋で待ってて貰えないか。」
「はい、分かりました。」

連れてこられたのは埼玉の北部にある医科大学、通されたのはそこの助教授の準備室だった。
医大なんて、どこもさして造り自体は変わらない。いや、群大よりは建物が新しく綺麗な感じはするが。
しかし、この匂いはあまり変わらない。
薬品と、書類と。色々なものが混ざり合った匂い。
俺はぐるりと部屋を見渡した後、中央にあった机に荷物を置き、椅子に腰掛けた。
さて、用事は一時間ほどで済むと言っていたが―――どうなることか。
ため息を吐き出しながら、鞄から時間潰しのために持ってきていた教科書とノートを取り出す。
そのとき外からパタパタと足音がして、ノックと同時に「失礼します。」とドアが開いた。
俺がいつも啓介に対して「それじゃあノックの意味がない」と言っているものと全く同じタイミングで、少し笑える。

「あ、れ?・・・こんにちは。」

そこから現れたのは若い女性だった。白衣を小脇に抱えているが、助手と言うよりはまだ俺と同じ学生に見える。
いるはずの教授がいなくて、代わりに見ず知らずの俺が部屋の真ん中にいるものだから、面食らっているようだ。

「名倉助教授は先ほど外出されましたよ、一時間ほどで戻られるようです。私はその間ここで待つよう言われたんですが、構いませんか?」
「あ、ええ、それはもちろん。あの、私はここでちょっとある資料の整理を頼まれたんですが、お邪魔しても・・・?」
「どうぞ、私のことは気にしないでください。」

俺がにこりと笑って見せると入口で立ち止まったままだった彼女もちょっと安心したように笑い、ドアを閉めた。

「何だか部屋の空気がこもってませんか?窓、開けますね。」

そう言って俺の前を通り過ぎ、奥にある窓を開ける。
ふわりと、花の香りがする。
いや、香水か?
どこか覚えのある香り。でも、思い出せない。
何となくすっきりとしない気分で、まだ窓際に立っている彼女を見上げた。

「ここの学生さん、ですか?」
「いえ、群馬大学の学生です。」
「そうですよね、あなたみたいな男前な人がこんな小さな大学にいたら有名にならないはずないもの。群大って言ったら―――そうか、加藤教授の?」

彼女は慣れた様子で、奥にあったコーヒーメーカーをセットし、手際よくカップに琥珀色の液体を注ぐ。
窓を開け、白衣と鞄を置き、コーヒーを注ぐ。
その一連の動きに無駄がないと言うか、とてもリズミカルでさえあって、見ていて気持ちがいい。
「どうぞ」と手渡されたカップに口を近付け、その馴染みのある味と香りを楽しむ。

「はい、今日は加藤教授の運転手で。」
「あなたってコキ使われそうな顔立ちしてる。」
「それはお互い様でしょう?」
「・・・痛いところをついてきますね。」

彼女が小さく睨んできて、思わず笑ってしまう。
同類、と感じたせいなのだろうか、もう少し、話をしていたいと思った。
すぐに自分の作業に移ろうとする彼女に、寂しさのようなものを覚え、その彼女の動きを目で追ってしまう。
それを嘲笑うように窓から風が流れ込み、自分の頬を掠めていく。

心地よい声のせいか。
綺麗な動きのせいか。
やわらかい笑顔のせいか。
一応俺だって人並みに男だ。
表立って関心あるように見せるかどうかは別として、好みの女性がいればそれなりに意識することだってある。
だが、それとは少し、異なるように思う。
思い出せない香りのせい、だろうか?

彼女が、端に置いてあるPCを立ち上げ、こちらに背を向けて椅子に腰掛ける。
ファイルを広げ、少し顔を俯かせてコーヒーを飲む。そのときにサラリと動く髪、僅かに見える首筋。
こんな昼間に、しかも他所の大学の一室で、俺は一体何を考えてるんだ?
別に、彼女自身がその手の要素を強く持っていると言うのでは、決してない。寧ろその反対だろう。

突然湧き上がった、恍惚に似た感覚。
罪悪感。

それらを打ち消すようにと、手元の教科書に視線を落とす。
窓から芝生の緑の匂いを含んだ風が入り込み、机の上に載せられていた書類がパラパラとめくられた。
カタカタと、時折彼女のキーボードを叩く音がする。
普段なら場所を選ばず集中できると言うのに、今日はどうも落ち着かない。
俺は静かに立ち上がり、開け放たれた窓の側へと近づいた。

すぐ側にいる彼女は、自分のことを気にすることなく手元のファイルとディスプレイを見ていて、手も休むことはない。
邪魔しないようにと物音を立てず気をつけていたくせに、自分がその彼女の意識に全く入らないと、それはそれで不満で。
彼女の背中を見ながら抱く、この子供じみた感情を持て余して、意味もなく、遠くにある大きな木をじっと見つめたりする。
パタリとファイルの一冊が閉じられたとき、彼女は漸く後ろにいた俺に気付いたようで、こちらを振り返り、にこりと笑った。

「コーヒーのおかわり、入れましょうか。」
「ああ・・・お願いします。」

椅子から立ち上がり、二人のカップを手に取り、コーヒーを注ぐ彼女。
やはり、綺麗な動き。
忙しない感じもせず、ゆっくりすぎもせず―――たぶん、俺のペースと似ているのだろう。

「きみは、ここの学生?」
「そう、よく研究室に押しかけてたら、色々雑用を言い付けられるようになっちゃって。」
「それでわざわざ日曜の午後だと言うのに大学に?」

二人で窓際に並ぶ。
彼女はコーヒーを一口飲み、小さく肩を竦めて見せた。

「お互い人使いの荒い教授には苦労しますね。」

そんなことを言いながらも、俺自身、今日は別に苦に思っていなかった。
現金なものだ。
我ながら可笑しい。

「今度美味しいものをご馳走してあげるって言われて、つい頑張っちゃうんですけど。」
「私はあまりそんな美味しい経験をしたことはありませんね。」
「そう?・・・ねえ、敬語はやめていい?」
「え?ああ、そうだね、同じ学生なんだし。」
「よかった。何だかあなたが『私』って言うと似合いすぎる分、すごく緊張するんだもの。」

そう言って言葉遣いがくだけるのと同時に、彼女の表情も和らぐ。
その変化を見て、いつもと何も変わらなく見えた彼女も、少しは緊張していたのだと初めて知り、思わず笑みを漏らす。
普段どおりの調子でなかったのは自分だけではなかったのだと言う、安心感か。

「『あなた』って言うのも照れくさいわ、名前で呼んでもいい?私は。」
―――。」
「どうかした?」
「いや・・・俺は高橋、涼介。さん―――と呼んでも?」
「じゃあ私は涼介くんと呼んでもいいのかな。」

こうやって改まって自己紹介をするのも何だか照れくさくて落ち着かない。
いつも他人に見せているような笑顔を作ればいいだけなのに、自分を見上げて笑っている彼女の目を満足に見ることが出来ない。
ぬるくなったコーヒーを啜り、窓の外に視線を移す。
日曜の、すでに夕方。
病院の棟ならともかく、こんなキャンパスの端には殆ど、いや全くと言っていいほど人影がない。
さらさらと、夕日に染まった木の葉が揺れるだけ。
時折、風に乗って彼女の香りがするだけ。

時計を見る。この部屋に来て、もうじき一時間が経とうとしていた。
教授が戻ってきて、この部屋を出れば、おそらくもう彼女とは会うことはない。
名前を呼ぶことも、ないだろう。

「―――あ、戻ってきたかな。」

この子はそんなこと、考えもしていない―――か。
我ながら勝手だと思いながらも、少し、苛立たしさを感じる。
ドアの外から聞こえてくる複数の足音が、教授のものでなければいいと、真剣に考えている自分。
だがそれは無情にも部屋の前で止まる。

「やあ、待たせてしまったね。何だ、くんも来てたのか。」
「『来てたのか』は酷いですよ、先生。朝電話で呼び出しておいて。言われた資料はプリントアウトしておきました。」
「ああ、ありがとう。」

名倉助教授が印刷された書類を確認している横で、加藤教授が煙草を取り出す。
今までも十分に吸ってきたらしく、スーツには煙草の匂いが染み付いている。
医者と言うのはそれがどれだけ体に害を及ぼすか分かっていながら、人一倍多く吸うものだな。
そんな今さらなことを考えながら、俺は机に出していた教科書類を鞄にしまった。

「ああ、高橋くん、すまんな。」
「はい?」
「待っていてもらって何なんだが、これからちょっと名倉くんと食事に行くことになってね。」
「・・・は?」

きみ、先に帰っていいよ。
そう言われたとき、きっと俺は随分と間抜けな顔をしていたに違いない。




「せっかく待っていたのに、時間を無駄にしちゃったね。」

教授たちを送り出し、気の抜けたままの俺に向かって彼女が笑って言った。

「そんなこともないさ。」
「そう?」
「ああ・・・。」

きみと話をすることが出来たし。
などと言う台詞が頭に浮かんだが、陳腐な気がして口には出さなかった。第一、ガラでもない。
だからと言って、このまま別れるのは―――。

「群馬って言うことは、家はここから遠いんでしょう?」
「いや―――どうかな、高速使えば一時間くらいで帰れるさ。」

ファイルをしまい、PCの電源を落とす彼女。
ちょっと躊躇ったように首を傾げて、それから俺を見上げた。

「じゃあ、よかったら私達もご飯でも食べに行かない?」

少しは彼女も、俺に興味を持ってくれた、と言うことか。
いや、それは考えすぎか。
都合のいい方向に考えるのはよくない。
けれど、都合のいい方向に物事を運ぼうと努めるのは罪じゃない―――よな。

「―――いいですね。」

なるべく普通に笑い、窓を閉めた。