かせ 2




一目惚れ、と言うのではない。
そんなふうに否応なしに引き寄せられるものではなく、
もっと自然なもので、ゆったりとした流れに乗るような感覚。

「ごちそうさま―――って、いいのかな、私から誘ったのに。」

流されるのは好きじゃないが、こう言う流れに乗るのは―――嫌いじゃない。
彼女がたまに来ると言うレストラン。
味も悪くなく値段も良心的で、加えて休日の夜と言うこともあり、それなりに混み合っていた。
活気があっていいが些か落ち着かず、食事だけして出てしまったが、まだ、時間は遅くない。

「これから、どうしようか。」

車で埋め尽くされた駐車場を歩く。
頬を掠める風は、大学を出たときよりも幾分冷たくなっているように感じた。
車のキーを解除し、斜め後ろをゆっくりと歩いていた彼女を振り返る。
助手席側のドアを開け、僅かに、首を傾げる彼女。それが、躊躇ったときに出る癖だと言うことは、すでに理解していた。

正直、こう言うときの駆け引きは苦手だ。
実際にはそれほど経験がない、と言うこともあるし―――失敗したくない、と気張ればその分だけ臆病にもなる。
それを必死に隠し、ハッタリをかまして余裕の笑みを浮かべる。
きっと啓介ならもっとスマートに誘うだろう。たぶん、女に素直に甘えることが出来る。
今ここで弟を羨んでも仕方のないことだが。

「うーん、お茶、飲みたいかな。」
「じゃあどこかお店に入ろうか。」
「それでもいいし―――コーヒーでよければ、うちでご馳走するけど。」
「きみの家?」
「うん、ここから近いから。」

二人とも車に乗り込む。
セルを回す。

「それじゃあ、ご馳走になろうかな。」
「親から送られてきたインスタントだけどね。」

前を向いたまま笑って言う彼女の声は、何かを誤魔化すように、少し、上ずる。
俺自身もそうならないと言う自信はなくて、ただ笑うだけで、車を出した。




彼女の家は、本当にすぐ近くだった。
大学からも近いマンションは、やはり同じ医大生が多く入っているのだと、階段を昇りながら話す。

「散らかってるけど・・・適当に座って。」

たぶん、よくあるワンルーム。
ドアを開けると、ふわりと、彼女の香りが流れ出る。
小さなキッチンやベッドの上は綺麗になっていて「散らかっている」と言う印象はなかったが、机の上や真ん中に置かれたテーブルには本やノートが山積みされていた。医大生なんてどこも変わらないものだ、テストやレポートに追われて学生生活が終わる。
そんなことを考えると、少しだけ、現実に引き戻されたような気になる。
けれど、やはりまだ頭の芯は痺れていて、俺の座る横で慌ただしく片付ける彼女に目を向けても、うまく視覚的に捉えられない。

喉が渇く。
だが、この渇きはコーヒーなんかでは治まるものではないだろう。

キッチンに向かうため立ち上がろうとする彼女の腕を掴み、引き寄せる。
さすがにいきなり押し倒されるとは思わなかったのか、彼女は予期しない方向からの力にバランスを崩し、あっさりと自分の方に倒れこんだ。
息がかかるほどの距離で、目を合わせる。
微かに揺れる瞳。
髪に隠れた耳に触れるけれど、指先の感覚が麻痺したようで、現実感を伴わない。

今までも、女に家に誘われたことはある。もっと露骨に。
自分を誘う女に冷めた視線を向け心の中で嘲りながら、その後腐れのない関係が楽で、愉しんだことはある。

だが彼女は―――?

自分自身に何も考える隙を与えないようにと、やや乱暴に彼女の唇を塞ぐ。
反射的に閉じられた唇を割り、そのまま歯列をなぞって、中へと舌を滑り込ませる。
その中は熱く、舌も唾液も驚くくらい甘く感じて、ゆっくり味わいたいと思うと同時に、逆に余裕を失って行く。

僅かな抵抗を見せていた彼女も、次第に力が抜けてくる。
上着のボタンを外し唇を首筋に移動させると、彼女は浅い呼吸をしながら、慌てたように俺の手を遮った。

「―――待って、シャワーを・・・。」
「待てない。」

耳元で囁くように言い、そのまま、耳に舌を入れた。
その感触に、彼女は声を漏らす。
まるで、がっついたガキのようだな。
ベッドに彼女を横たえてそんなことを考え、可笑しくなる。

つい数時間前に会ったばかりの彼女の一体何が、俺をこうさせるのか、よく分からない。
―――いや、もうそんなことはどうでもいい。

ベッドの上で手を押さえつけられ、俺に見下ろされる彼女。
俺を家に入れた時点でこんなつもりはなかったなどと言うつもりは毛頭ないだろうし、言わせるつもりもないが、
それでもいきなりの展開に戸惑い、恥らって目を逸らす。
照明の灯された部屋。
湿った赤い唇と、細く白い首筋、浅い呼吸に上下する胸元。

もっとその柔らかい唇を味わいたい、その肌に触れたい。
恥らわせたい。
声を上げさせたい。
乱れさせたい。
一時の自己の生理的欲求を満たす―――と言うよりは、もっと嗜虐的なものか。

まだ残っていたボタンをわざとらしくゆっくりと外し、前をはだけさせる。
先ほどまでの性急さとは打って変わったその動きに戸惑い、また、俺の視線に羞恥心を煽られるのか、目を背けたまま体を隠そうとする。
が、そんなものは本当の抵抗ではないから、あっさりと、封じてしまえる。

「―――電気、消して。」
「そんなことしたら、見れなくなる。」
「私は、見たくないわ。」
「何を?」
「あなたの―――目。気が、おかしくなりそう。」

そう言われると、なおさら目を覗き込みたくなって、わざと、顔を近付けてしまうものだろう。
「・・・意地悪い。」と言う彼女の抗議は聞かずに口付ける。
一体自分がどんな目をしていると言うのだろう?
羞恥と、見え隠れする期待と、僅かな、淫靡な欲望。
彼女の目の方がよほど俺をおかしくしそうだ。

執拗なくらい、しかしゆっくりと、胸の膨らみを愛撫する。
その先端をゾロリと舐めて口に含めば甘い声と吐息が漏れて、抵抗するように髪の間に差し入れられていた彼女の指が、まるでその先を強請るかのように動く。
下着の間から指を入れれば、すでに想像以上に濡れていて、それはあっけなく飲み込まれた。
スカートと下着をその細い足から抜き取ろうとすれば、この期に及んでまだ抗ってくる。

「私だけって―――ずるい。」
「何が?」
「服・・・脱いで。」

熱を帯びた呼吸をしたまま、俺のシャツのボタンに手をかけてくる。
確かに自分の体の熱も上がっていて、彼女の言うことは尤もだけれど―――敢えて抵抗し、その手を押さえ込んだ。

「俺はが感じているところが見れればいい。」
「―――あなたって・・・見た目どおり、性格悪い。」
「失礼だな。」

お仕置きとばかりにその突起を強く押えれば、僅かに身体が震えて、苦しそうに息を吐く。
「ここ、感じるの?」とわざとらしく言って意地悪く笑えば、負けずと睨み返してくる。
そんな顔がさらに自分を煽る。
―――が、いつもと、少し事情が異なった。
服を脱がない、と言うのは、確かに彼女の羞恥心を煽るためのものでもあったのだが、実は、それだけではなかった。

勃たない、のだ。

気は昂ぶっている。今までにないくらいに。
気がおかしくなるくらいに興奮はしているはずなのに―――勃たない。
頭は醒めていても肉体的欲求は別。
そう言うことは幾度となくあったが、逆は、初めてだった。

理由が思い当たらない。

今、現実に、彼女に対してこれ以上はないと言うほど欲情している。
自分の目の前で、自分の手によって、羞恥と快楽の狭間を彷徨っている彼女に。
品のない言い方をすれば、正直、今すぐにでも突っ込みたいくらいだと言うのに。
まるでその部分だけが自分から分離したように、反応を示さない。

「―――どうか、した?」

さすがにここまで来ると、ハッタリも効かない。
俺の様子が少しおかしいことに気付いた彼女が、呼吸を落ち着けて俺を見上げる。
往生際悪くその唇に口付けてみたが、服の上からではあるが自分の太腿に触れているその部分に変化がないことは、きっと彼女も気付いただろう。
だんだんと現実に戻りつつある彼女が、目を細めたまま、首を少し傾げ、俺を引き寄せてキスする。

「―――すまない。」
「・・・触っても?」
「え?」

聞き返したが彼女は返事をせずに俯き、上半身を起こして躊躇いがちに俺のベルトに手をかけた。
一瞬驚いたが、俺は彼女にされるまま、大人しく服を脱いだ。
もちろんこんな状態で、恥ずかしく感じないわけはなかったが、それよりも、ある種の期待の方が勝った。

外気に触れて、ひやり、とする。
全く反応のないそれに、彼女がゆっくりと触れた。
俯いたままの彼女の髪が揺れ、あの、花の香りがする。
決して慣れているとは言い難い手つきだったが、それでも、それは肉感的にも視覚的にも、十分にそそるものだった。
が、依然として変わりはない。
彼女の顔が下へと降りていく。

「―――っ!やめ・・・っ。」
「私もさっき嫌って言ったのに。」

そう言って、ちょっと意地悪く笑う。
俺ももうちょっとまともに抵抗すればいいものを―――結局期待していたのか。
その温かくて柔らかい粘膜の感触に、感じないわけがない。
―――が、結局、それは全く反応を示さなかった。

「―――ごめんなさい。」
「きみが悪いんじゃないだろう。」
「でもあなたのせいでもないわ。」

罪悪感を滲ませて笑う彼女が愛おしく、その目と髪に、口付ける。
そうしていると、気分が落ち着いてくる気がした。

「いいのよ、家に誘ったのはもう少し一緒にいたかったから―――って言ったらわざとらしく聞こえる?」
「―――いや。」
「明日も大学あるんでしょう?朝から?」
「いや、3限からだから、そんなに早くない。」
「じゃあもう少し一緒にいられるのかな。」
「きみさえよければ。」
「じゃあ、コーヒー入れるわ。」

先程までの熱っぽい表情は嘘のように、ふわりと微笑んでベッドの際で下着を着け、立ち上がる。
再び、あの大学で見たような、流れるような綺麗な動き。
もう一度その腕を引き寄せたくなるなんて、俺も相当往生際が悪い。
つい自嘲的な笑いが漏れ、それを誤魔化すように部屋をグルリと見渡した。
テーブルから机に移動された大量の本。その中の一冊を何とはなしに手に取り、パラパラとめくる。
血液学概論。
俺もこの春に購入していたものだった。

「大学のテキストなんて、どこも似たようなものでしょう?」
「そうだな・・・少なくともこの本は読んだことがある。」

何の飾りもない白いマグカップ。
そこに注がれた、少し濃い目のコーヒー。
差し出されたときに、その香りが鼻腔をくすぐる。
部屋に広がる彼女の香りと、コーヒーの香り。


―――ああ・・・。


「どうかした?」
「・・・いや、何でも、ない。」

突然、思い出した。
その彼女の香り。

今になって急に。