かせ 3




「あなたのせいじゃないから、気にすることないのよ。」

そう何度も繰り返し言った女性。
微かな甘い花の香りをまとった、優しげな目の。
俺はその言葉を聞きながら、どうしようもないほどの後ろめたさに襲われていた。




あれは、小学六年のとき。

彼女は、クラスの中で特に目立つ存在ではなかった。
数人の仲のいい友達がいて、成績も普通で、ごくごく平均的な女の子。
ただ―――歌声は、綺麗な子だった。それはよく、憶えている。
あと、たまに掃除当番が一緒になると、担任に何かと面倒を押し付けられる俺に、最後まで付き合ってくれた。
けれど、名前さえも思い出せない。いや、正確にはついさっきまで思い出せなかった、と言うのが正しい。


久保木、と言った。

小学生の頃と言うのは、クラスに必ず一人や二人騒がしい男子がいるものだ。
俺のいるクラスも例外ではなくて、毎日のように担任に叱られている奴がいた。
クラス委員だった俺も、よく苦労させられたものだった。
まあ、苦労と言っても、授業が始まってもなかなか静かにならないそいつを注意したり、掃除をサボらないように見張ったり、その程度だが。
そう、子供のやんちゃなんて高が知れてる。
いつもはそうやって冷めて見ていたくせに、そのときに限って、執拗に追い回してしまったのだ。

確か、午後に工作の授業があったのだと思う。
版画を製作するために、皆彫刻刀を家から持ってきていたのだが、その男子はたまたま忘れてしまったようだった。
素直に先生に忘れたと言って借りればいいものを、怒られるのが嫌で、誰かの彫刻刀を奪った。
昼休み、子供しか教室にいない時間。
俺は内心やれやれと思いながら、椅子から立ち上がる。

「おい、返してやれよ。」
「やーだね。」

何がそんなに気に食わなかったのか自分でも分からない。
そいつが、追いかければ追いかけるほど調子に乗る性格だと言うことは十分に理解していたはずで、
調子に乗れば、どんな結果を招くかと言うことも、ある程度は予測できたはずで―――。
それなのに、その日に限って、無性にそいつがムカついた。

「―――返せって。」
「うるせーなー。」

俺が追いかけると、案の定、そいつは彫刻刀を振り回して教室中を走り回る。
「危なーい」などと暢気に言いながら俺たちの様子を眺めているギャラリーにも腹が立つ。
全てのタイミングが、悪い方向にピッタリと重なってしまった。


あのとき、俺が追いかけてなければ。


そんなことを言っても、何の意味も成さない―――言わずには、いられないけれど。

誰かの悲鳴。
彫刻刀が床に落ちる、渇いた音。
その上にぱたぱたと落ちる、赤い、血。今までに見たことのないような量の。

腕を押さえてうずくまる彼女。
何が起きたか理解できずに後ずさる男子。
その二人の前で、俺は無様にも、身動きが取ることができなかった。

あのとき、誰も俺を責めることはしなかった。あの男子も表立って責められることはなかった。
そんな「責める」「責めない」と言うレベルではなかったのだ。
傷自体はそれほど大事には至らなかったが、その小さなクラスに与えた衝撃は、かなりのものだった。

その夜、俺は母親と一緒に彼女の家に謝りに行った。
謝って済む問題ではないと分かってはいたが―――いやらしい、自己満足、だったのかもしれない。
そして、あの子はそれを見透かしていたのかもしれない。
だからあれほどの後ろめたさを感じたのかもしれない。
母親が部屋に呼びに行ってくれたが、もう寝てしまっている、と出てきてはくれなかった。

「あなたのせいじゃないから、気にすることないのよ。」

彼女の母親に、何度もそう言われた。あの、花の香りのする女性に。
まるでこちらが被害者であるかのように、優しく、労わるように。
俺はそれを聞きながら、その様子をあの子に見られているような気がして、怖かった。

怖かった。
結局、俺は、自分で作り上げた優等生でしかない、くだらない存在であることを知られるようで。
何故そこまで考えが飛躍したのか、自分でも分からない。
ただ、とにかく、そのときはすごく、彼女が怖かったのだ。





「―――どうかしたの?」

彼女が、本を持って立ったままだった俺を見上げ心配そうに目を細める。
俺は「何でもない」と笑って誤魔化し、本を机に戻した。
それ以上は追求せずに黙ってコーヒーを飲む彼女。つられるように、俺もカップに口をつける。

「ちょっと、昔を思い出した。」
「むかし?」
「そう―――小学生の頃のこと。」
「ふうん。」

目に僅かな好奇心を潜ませながらも、やはり黙ったままベッドに腰を下ろす。
俺もその横に腰掛け、その彼女の髪をゆっくりと撫でた。
寄りかかってくる彼女の重みに心地よさを感じ、そのまま髪に口付ける。
あの、花の香り。





数日後、漸く学校に姿を現した彼女。
「直接的に」怪我を負わせた男子はすぐさま駆け寄って、謝って―――許された。

「もう、平気。」

そう言って、笑顔さえ見せた。
けれど、俺に向けた顔はまったく違って。

「・・・もう、大丈夫?」
「・・・うん。」

腕に巻かれた白い包帯が痛々しくて、そこをまともに見ることが出来ない。
大勢のクラスメイトがいる前では何となく声をかけることが憚られて、担任に呼ばれて職員室へ向かうところを呼び止めた。
そのときは、何故、そこまで後ろめたさを感じるのか自分でも分からなかったけれど。

「ごめん。」

でも、今なら、分かる。
あのとき、何に、ショックを受けたのかも。

「―――なんで、謝るの?」

同じように、許されると思っていた。
もう平気だからと、言ってくれると思っていた。
けれど、彼女に向けられた目は―――酷く、悲しそうで。泣きそうにも見えて。




「小学生の涼介くんって、想像つかない。」
「そうかな。」
「うん・・・何だかうまく想像できないわ。」
「別に、ただの子供だったよ。」

早熟だの何だのと言われていたが、結局は、自分のことしか考えられなかった、ただの子供。

俺は許されたかった。

あの母親のように、彼女にも『あなたは悪くない』と笑って言ってくれることを期待してた。
自分が追いかけなければ―――。
そんな後悔の埋め合わせに被害者である彼女自身を利用しようとしたのだ。

「―――ごめん。」

不意に口から出た謝罪の言葉。
自分はこの期に及んでまだ許されたい、なんて思っているのだろうか。
あの頃から、結局、自分の一部分は成長が止まっているのかもしれない。


好きだった―――のか。


敢えて封じていた問いを自身に投げかける。
そんな単純なものではない。
そんなふうに簡単に言い表せるものではないけれど。
突然の俺の台詞に戸惑った彼女が、身体を少し離し、首を傾げて見上げてくる。

「―――謝るのは、残酷よ。」
「そうだな。」

謝られた方は、取り残されてしまうから。
そんな呟くように言った彼女の言葉が、今なら理解できる。
その手からカップを奪い、顎を引き寄せる。
受け入れてくれるその唇は、少し、苦い。

「―――今度はちゃんと電気消してくれるの?」
「ああ。」
「服も、脱いでね。」
「・・・注文が多いな。」

俺はもう一度彼女に口付け、電気を消すために立ち上がった。