interroge 1




他校での練習試合が終わり、皆が駅の方へ向かう中、俺は一人反対方向へと向かった。
楽譜の品ぞろえがいい楽器店があるので、ちょっと覗いて行こうと思ったからだ。
こじんまりとしたお店の立ち並ぶ通りを抜けて行く。
自宅からも学校からも離れていて、自分にはあまり馴染みのない街で、俺は誰かに会うかもしれないなんて可能性を考えもせず、たまにはヴァイオリンの楽譜でも買おうかな、なんて思いながら歩いていた。
だから、最初正面からの視線にも気付かなかった。
気付かなかったと言うよりも寧ろ気付かないふりをしていた、と言う方が正しいかもしれない。
自惚れたいわけではないけど、見知らぬ人間から不躾な視線を向けられることは、よくあることだから無意識にそうしてしまっていたのだ。
だから、小さく俺の名前を呼ぶ声で、ようやくその視線の元へと目を向けた。
そして、目を疑った。
そこには自分の彼女が、他の男と並んで立っていたからだ。

「鳳くん、あの……」

俺と目が合うと、ぱっと顔を俯かせて彼女は必死に何か言い訳を探している。
どう見てもお兄さんって感じじゃない。
こちらに向けてくるその男の、胡散臭げな視線。
俺は自分の中で何かがすーっと冷めて行くのを感じる。
またか。
半ばうんざりしてそう思いながら。

「――こんな所で会うなんて驚いたな」

俺がちょっと微笑ってそう言うと、彼女の肩に力が入るのが分かった。
どうやらとぼける余裕はないみたいだ。
おどおどとした仕草。
小さくため息をつき、肩に掛けていたテニスバッグを背負い直す。

「あの、あのね……」
「俺、こっちに用事があるから」

何かを言おうとする彼女の言葉を遮って、俺はお店の方に歩き出す。
どうせ言い方は色々あっても、結局は言い訳か、開き直りの言葉だけだろうから。
背後に暫くの間視線を感じて、俺はもう一度、小さくため息をついた。

何故だろう。
いつも女の子の方から告白されて付き合うのに、大概相手の浮気が原因で別れるか――相手に別れて欲しいと言われるか。
確かに彼女のことを常に一番に扱えていないかもしれないけれど、でも、いつも大切にはしているつもりだ。
それなのに――何でなんだろう。

やれやれ、そう思いながら何とはなしに横に目を向ける。
たまたまそこにあったのは、ファストフード店。
そして、たまたまその窓ガラスの向こうに見えたのは――クラスメイトのさんだった。
正直、さっき自分の彼女の浮気現場を見た時よりも驚いた。
ギクリって、足が止まるくらいに。
こちらに向かう形のカウンター席に座っているさんは、手に文庫本を持っている。
けど、外の景色を見ていたのか――今の俺たちのやり取りを見ていたのか――俺とすぐに目が合った。
空いている方の手を、小さくヒラヒラとさせる彼女。
俺はさっきの何倍もばつの悪い気分で、分かるか分からないかくらいに会釈をして、逃げるようにその場を立ち去った。



楽譜店の品揃えは、評判どおりにとても充実していた。
直前にあんなことがなければ、もっと落ち着いてゆっくり見ていたと思う。
けれど、楽譜のタイトルを見ても上滑りして行くような感じで、何も考えられない。
せっかく来たのに。
結局何も買わずにすぐに店を出てしまった。

さんはまだあのお店にいるんだろうか。
さっきその前を通ってから30分も経っていないから、十分いる可能性はある。
敢えて見ないようにして、そのまま通り過ぎた方がいいんじゃないか。
頭の中ではそう考えていたはずなのに、何故か体は全く正反対の動きをして、彼女がまだカウンター席にいるのを見るや否や俺はその店内に入ってしまった。

「――やあ」

自分でもよく分からない。
俺はどちらかと言えば、彼女は苦手なタイプなのに。
それはきっと、彼女の方も同じはずだった。

「鳳くんって、家この辺だっけ?」

さんはちょっと驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの飄々とした感じに戻る。

「この近くの学校で練習試合があったんだ」
「ああ、もしかしてS中?あそこって運動部は皆そこそこ強いらしいよね」

テーブルに片肘をついて、隣りに座る俺の動きを見届けながら、さんは当たり障りのない言葉を口にする。
彼女はさっきの場面を見ていなかったのかもしれない。
もし見ていたとしても、この子の場合、ゴシップには一切興味がなさそうだから、どうでもいいことなのかもしれない。
さんは、いつも自分の世界を作っていて、下界のことは関心がない、と言うような雰囲気がある。
学校では、それが協調性なく見えて時折腹立たしく思う時もある。
けれど、今はそんな彼女の様子にほっと安堵を覚えた。
俺は適当に注文して買ったMサイズのジュースを一口飲む。

「――俺、あの子と付き合ってたんだ」

文庫本に視線を戻そうとする彼女に向かって、呟くように言う。
安堵を覚えた、って矢先に言う台詞じゃない。
自分でもそう思ったけれど、気が付いたら口から言葉が出てしまっていた。
下を向こうとしていたさんの顔の動きが止まる。
でも、こっちを見た彼女の表情は、さっきまでと変わらないものだった。

「うん。知ってる」

鳳くんって人気者だから、勝手に色々情報が入って来ちゃうんだよね。
そう言いながらさんはちょっと苦笑いを浮かべてジュースを手に取った。
俺ももう一回ストローに口を付けてジュースを吸い込む。
何だか味が良く分からない。
冷たいものが、喉の奥を通っていく感覚だけが残る。

「いつから浮気されてたんだろ」

苦笑交じりの俺の台詞に、さんは小さく肩をすぼめる。
もしかしたら、この子は彼女の浮気現場を今までにも目撃したことがあるんじゃないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
でももう、どうでもいいことだけど。
ジュースをテーブルに戻して、再び文庫本を開く彼女。

「俺、よく彼女に浮気されちゃうんだ」

自分でも、何でこんなことをペラペラと話してしまうのか、よく分からない。
おおよそカッコいいとは言い難い、情けない打ち明け話。
さんとはクラスメイトとして必要最低限の会話しかしたことがないし、さっきも言ったように寧ろ苦手な子の中に入る。
決して親しい仲じゃない。
けど、何故か自分の意志に反して、口から言葉がぽろぽろと零れ出した。

「前に付き合ってた子も、やっぱり他の男と浮気してて。何でかなぁ」

さんは黙って聞いてる。
俺は一人で喋り続ける。
本来、こんなにお喋りな性格じゃないはずなんだけど。
こんなこと、友達にだって、宍戸さんにだって話したことない。

「いつもちゃんと、大切にしてるはずなのに」

きっと、いや絶対、さんだってこんな話されても迷惑に決まってる。
いきなりただのクラスメイトに日曜に会って、恋愛がらみの愚痴なんか聞かされたらたまったもんじゃないだろう。
そう分かってるのに。
さんは小さく首を傾けた後、ゆっくりと、文庫本をテーブルに置いた。

「――鳳くんの、好きなタイプってどんな子?」

そして、その手の動きと同じようにゆっくりと口を開いて、そんな台詞を口にする。
ちょっと予想外の言葉に俺は一瞬言葉を詰まらせたけど、すぐに答えた。

「浮気しない子」
「なるほど」

苦笑いと共にジュースを飲み干す彼女。
ストローに付けられた唇と、上下する喉の動きをじっと見つめる俺。

「やっぱり私は好きなタイプじゃないね」
「――え?」

テーブルに置かれた紙カップがカタンと軽い音を立てる。
また思いも寄らないさんの言葉に、俺はキョトンとしてしまった。
そんな俺を見てちょっとだけ笑い、さんは文庫本を鞄に仕舞って立ち上がる。
ああ、俺の相手なんかしてられなくって帰るんだな、なんて自虐的に思った時、三度目の予想外の言葉。

「これから鳳くんと浮気するから」
「――は!?」
「じゃあ、行こっか」
「ええっ?」

目を白黒させる俺の前で、さんは俺の分のトレーまで片付ける。
ほら早く、と急かすさんに流されるまま、俺は彼女と一緒に店の外へと出た。