interroge 3
次の日、学校で会ったさんは、何も変わらなかった。
すれ違いざまに、いつもと同じく素っ気ない挨拶を交わしただけで、あとは話をするどころか、目が合うこともない。
本当に、昨日のことは「浮気」だったんだな。
そう思うと――何だか複雑な感情が胸の辺りで蠢く。
ちょっと気を抜くと、昨日のことが思い出されて、体がぞくりって震える。
朝練の後なんて宍戸さんに「お前、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」なんて言われてしまった。
でも、そう言うのは、俺の方だけなのか。
昼休み、話があるって教室に「彼女」が来た。
罪悪感に、思いつめたような表情。
我ながら薄情だって思ったけど、俺にはもうすっかりこの子とのことは「過去」のものになってしまっていた。
中庭で二人きりになって、彼女は色々と言いわけを話し始めた。
今まで何度もしつこく言い寄られていて、仕方なく一度だけの約束で二人で会うことにしたのだと言う。
言い方はもう少し遠まわしで柔らかい感じだったけれど、要はそう言う話だった。
きっと昨日一晩一生懸命言いわけを考えたんだろう。
俺が「それならしょうがないね」って言って、別れないで済むような言いわけを。
「ごめん、俺、もう君とは付き合えないよ」
「そんな――昨日のことは……その……」
「うん、分かった。でもごめん、俺、もう君のこと、好きじゃないんだ」
もう好きじゃない。
じゃあ好きだったことってあったのかな。
そんな酷いことを心の中で呟いて、自嘲的な気分になった。
とどのつまり、一番悪いのは、俺なんだと思う。
俺がこんなだから――ちゃんと、好きじゃないから、彼女たちは浮気するんだろう。
じゃあ、好きって何だろう?
午後の授業でも、気を抜くと、さんの白い肌が目の奥に浮かび上がる。
何だかこれじゃ、盛りのついた子供みたいだ。
自分がこんな風になってしまうなんて思ってもみなかった。
部活で体を動かしている時は無心になれて、ほっとする。
何だかお前らしくないなって、日吉や、跡部さんにまで言われてしまったけど。
次の日も、さんは全く変わらなかった。
うん、たぶん、彼女はこのままずっと変わらないんだと思う。
そう言う子だから。
ちゃんと「自分」って言うものを持ってて、何かに流されることなんてない。
そう言うところが前から何となく苦手で――少し、羨ましかった。
さんは、俺とのことを思い出すことはないんだろうか。
よかったって言ってたけど――本当によかったんだろうか。
日にちが経つにつれて、だんだんと彼女との行為の記憶が薄らいで来る。
授業中に不意に思い返す回数も減って来る。
俺はそのことに安堵すると同時に――忘れたくなくて、悪あがきしたくなってしまう。
一週間くらい経った頃、昼休みに中庭を歩いていると、女の子の笑い声に俺は思わず足を止めた。
その声は、さんの声だったからだ。
あの時、さんは俺の見てないところで普通に笑ってるって聞いて、本当だろうか、なんて思ってちょっと意識して見ていた。
と言っても、結局この一週間彼女が声を上げて笑うところを見たことがなかったんだけど。
「相変わらず、間抜けだねぇ、マサトは」
「うるせーよ!」
思わずキョロキョロと辺りを見渡す。
――と、すぐに彼女は見つかった。
知らない男と一緒にいる姿が。
中庭の芝生に腰をおろして、サンドイッチを頬張りながら隣りにいる男に楽しげに笑いかけている。
その親しげな様子に、誰が見たって分かる。
その「マサト」って呼ばれた男が、さんの彼氏なんだって。
ドクン、って心臓が大きな音を立てて。
目の前が一瞬真っ赤になったような気がした。
あの時、後ろにチラついた男の影の正体が――こいつ?
その後、頭が真っ白になって、足がすくんで。
でも、気が付いたら教室に戻っていたから、何とか自力で歩けたんだろう。
午後の授業なんて全然身に入らなくて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
整理しようにも、一体何でそんなに混乱しているのか、自分でも分からない。
むかむかするような、悔しいような、寂しいような。
何でそんな感情が一気に押し寄せてきたのかも、分からない。
だって、本来はそんな感情を抱くような関係じゃない。
抱いちゃいけないんだ。
あれは、お互いにただの「浮気」なんだから。
ついさっきまでは、頭の中に浮かぶのは日曜の昼の記憶だけだったのに、今では、さっきの男との笑顔ばかりが思い出されて、こびりついて離れない。
そこには甘やかなものなんか一欠けらもない。
言いようのない苛立ちばかりが湧き上がる。
これはただの独占欲、なんだろうか。
一度手に入れた――手に入れたように思えたものを奪われて。
本当にそれだけなんだろうか。
好きって、一体何なんだ?
この前から目で追ってるのは、さんのことばかりだ。
考えているのも、さんのことだけ。
あの男と一緒にいるところを思い出しては口の中に例えようのない苦味を感じて――そして、奪うことばかり考えてる。
一人の女の子のことで、こんなに頭がぐちゃぐちゃになるなんて。
好きって、どう言うことだろう。
ああ、でももう、そんなことどうでもいいような気がしてきた。
ただ、俺はさんが欲しくて。
あの男から奪いたい。
自分だけのものにしたい。
自分自身も、さんだけのものになりたい。
次の日曜日は部活がオフだった。
部活がないって知ってから、俺はその日の予定を決めていた。
あのファストフード店に行くって。
さんがそこにいるって言う保障はない。
でも、それはそれで構わないと思った。
この前、練習試合が終わったのと同じくらいの時間に、そこへ向かった。
電車を降りて、駅を出て、まっすぐお店に行く。
家を出るときから、いや、そこに行くって決めてから、ずっと緊張していた。
会って、何て言ったらいいんだろう。
「浮気」って言ったじゃないかと、呆れられるかもしれない。
嫌な顔をされるかもしれない。
怖かったけれど、でも、このまま何も変わらずにいるのは、もっと耐えられないような気がした。
店の前に差し掛かる。
小さく深呼吸して、ゆっくりと、窓ガラスに目を向ける。
探すまでもなく、さんはこの前と同じ場所に座っていた。
今日は文庫本を手にしていなくて、頬杖を突いて外を眺めている。
俺に気が付くと、この前よりも驚いた顔をした。
「――びっくりした。今日も練習試合?」
「ううん、違うよ。この先にある楽器店知ってる?あそこって楽譜の品ぞろえがいいんだ」
「そうなんだ、知らなかった。あんまり縁のないお店だから」
「――と言っても、今日はそこに用があったわけじゃないんだけど」
回りくどい言い方をする俺に、さんは「ふうん?」と、納得の行ったような行かないような顔を向けて来る。
隣りに腰を掛けると、彼女はまた頬杖をついて外を見た。
「さんは、日曜はいつもここにいるの?」
「ん?ううん、そんなことはないよ。今週は何となく」
何だかはっきりしない答えに、今度は俺の方がふうんって、首を少し傾げた。
外に顔を向けたままのさん。
俺も外に目を向けてジュースを飲んだ。
暫くの沈黙の後、ポツリ、と彼女の方から一言。
「――この前のが、忘れられなかった、とか」
なんてね、と冗談めかした口調で付け足す。
そこで俺が肯定するなんて思わなかったんだろう。
「うん、そうかも」
ちょっと笑って答えると、さんが頬杖を突いたままの形でこちらを振り向いた。
別にその目には軽蔑の色は含んでいなくて、ただ、驚いていると言った感じ。
それにほっとして、俺はまたちょっとだけ微笑った。
「鳳くんでもそんな冗談言うんだ」
「別に冗談なんかじゃないよ、俺は本気」
「……本気」
「うん、本気。浮気じゃなくて」
さんの目が、更に大きくなった。
でも、さっきとは少し違って、その直後に僅かに口元が歪む。
「だけど、鳳くん、私のこと嫌いでしょう」
低められた声で発された言葉に、ああ、やっぱり彼女にそう思われてたんだなぁと再認識した。
そんなにあからさまだったんだろうか。
「別に、嫌いだと思ったことはないよ。少し、苦手だとは思ってたけど」
「ふぅん。やっぱりそう思ってたんだ」
「さんだって、俺のこと嫌いだったんじゃない?」
「別に嫌いじゃないよ。ただちょっと私とは違いすぎて合わないなぁと思ってただけ」
「やっぱり君もそう思ってたんだ」
二人で互いに小さく睨み合った後、何だかおかしくって笑い合った。
本人に向かって「合わない」なんて言ったこともないし、言われたこともない。
でも互いにそう言い合ったことで、逆に俺たちの距離が近づいた気がした。
「――正直、さんのことが好きなのか、よく分からないんだ」
笑いがおさまって、ふう、と一つ深呼吸をした後、俺は口を開く。
「でも――君が欲しい」
ゆっくりとそう打ち明けると、さんは少しの沈黙の後、「ほんっと、鳳くんって――」と呆れた顔をした。
確かに、こんな告白ってないよな、って自分でも思う。
好きかどうか分からないなんて。
けど、さんには偽らずに伝えたかった。
きっとそうすればさんも――返事はともかくも――俺の言葉を聞いてくれるような気がしたから。
「そう言うタイプなんだろうなって思ってたけど、ホント、恥ずかしい台詞も真顔で言えちゃうんだね」
「な――っ、どこが恥ずかしいんだよ!?」
「君が欲しいなんて、小説以外で聞いたことないよ」
「しょうがないだろ、本当のことなんだから!」
また呆れ顔をされた。
でも、その後笑った顔はちょっと赤かった。
「……私も、やっぱりまだよく分かんないんだけど」
独り言のように、投げやり気味にそう言ってため息をつく。
ジュースの入ったカップを持ち上げて、口に持って行くことをせずにそのまままたテーブルに戻して、もう一度ため息。
「この前ここで会った時、鳳くんのこと、欲しいなって思っちゃったんだよね」
口を少し尖らせて、頬杖をつくさん。
俺は最初何て言っていいか分からなくて、また暫しの沈黙。
「――さんの方が、よっぽど恥ずかしいよ」
思わずそう言ってしまうと、真っ赤な顔をしたさんに殴られた。
だって、すごく恥ずかしいじゃないか。
「鳳くんって、実は結構毒舌だよね!」
けど――今までのどんな告白よりも嬉しかった。
たぶん、俺もあの時、同じことを思ってたんだ。
あの時から。
さんが欲しいって。
「――カレ?」
さんはベッドの上で服を着ける手を止めて、俺の言葉にキョトンとした顔をした。
あの彼とは別れて欲しいって言ったら、意味が分からないとばかりに瞬きをして首を傾げる。
この前の昼休みに中庭で一緒にいた――って言っても暫く首を傾げたままだったけど、漸く思い出したようで「もしかしてマサトのこと?」と言った後、ぷっと吹き出した。
確かそんな名前を呼んでいた気がするって、ちょっと面白くない気分のまま言うと、更に笑われた。
「マサトは私の従兄弟なんだよ。あの日はたまたまお昼行く前に廊下で会ったから一緒に食べたんだ」
「いとこ……あれ――?じゃあ、浮気って……」
「彼女のいる鳳くんとするってことは、浮気でしょ」
「え……そういうこと……?」
俺はその彼女の言葉にほっとしながらも、やっぱりまだ何となく面白くなくて。
「それでも男は男だし」とポツリと本音を漏らす。
そうしたら、ちょっとだけ目を見開いた後、また、小さく吹き出されてしまった。
「鳳くんって、案外やきもち焼きなんだ」
「これくらい普通だろ?」
「もっと淡白なのかと思ってた」
あはは、と本当に可笑しそうに、意外そうに笑うさんを見て、俺ってそんな風に周りから見られてたのかなぁと、ちょっと心外な気がして、肩を竦めた。
「淡白じゃない俺は、いけない?」
「そんなことないよ」
素っ気なく言ってベッドから立ち上がろうとするさんをグイと引き寄せて、自分の腕の中に収める。
首筋に顔を寄せると――ついさっきまでのことが頭と体に蘇って来て。
「……って、そっちも淡白じゃないとか言う?」
俺の体の変化に気付いたのか、さんがちょっと冷ややかな声で聞いて来る。
それに半ば開き直って、ぎゅっと強く抱き締めた。
「淡白じゃない俺は、いけない?」
さっきと全く同じ台詞を、違う意味で使って。
そうしたら、さんも「そんなことないよ」と同じように返して、今度は小さく笑った。