balance 2




見た目にそぐわず、その男は堅実な走りをした。
いや、からしてみれば「地味」と表現した方がいいような。
別に兄達の走りもオーバーなアクションからは無縁なものなのだが、彼の場合、その強面からついそう言うものを期待してしまう分、そのギャップは激しい。

「なんか、地味な感じだね。」

ついつい兄に思ったとおりのことを口にすれば、信じられないと言うような顔をされた。

「ばーっか、あいつ、すっげぇ速いぞ。」
「え?」

お前もまだまだだな、などと言って色々解説を始める兄。
もちろんにはついて行けず、右から左へと耳を通過するだけ。

「速いんだ・・・。」

もう一度よく見る。
きっちり減速して、きっちり曲がって、きっちり加速する。
確かに、無駄のない、隙のない走り。
ちゃんとよく見れば、やっぱりその人らしい走りなのかもしれない。
ちゃんと見始めると確かに―――目が離せなくなるのかもしれない。



彼は一人で参加していたようで、昼の弁当も一人で食べ、その後も一人で一服していた。
周囲の人間も、それなりに彼が気になっている様子なのだが、その近寄りがたいオーラが邪魔をしている。

「よし、、ナンパして来い!」
「えー!やだよっ!!」

妹に逆ナンを勧める兄がどこにいるんだ。
は、一緒になって「頑張れー。」なんて無責任に言っている友達を睨んだ。

「なんだ、ああ言うタイプは好みじゃなかったっけか。」
「そう言う問題じゃないでしょー!お兄ちゃんが声かけなよ。私、車のこと分かんないから話出来ないよ。」
「そんな消極的なことじゃいい男は捕まえられないぞ。」
「余計なお世話だよっ。その台詞、そっくりそのままお返しします!」

そんな妙なやり取りをしている間も、その男はゆったり煙草を吸い、缶コーヒーを飲んでいる。
気にならないことはない。
気にならないことはない―――けど、兄にそんなふうにけしかけられた後では、何となく声をかけるのも憚られてしまう。

「くそー、お兄ちゃんの馬鹿。」

空の弁当箱を捨てるためにゴミ箱の置いてある場所へ向かう。
その人の車の前を通るけれど、後ろで兄達がどんな様子で見てるのか想像すると、まじまじと見ることは出来ず、チラリと見ることしか出来なかった。
意識するんじゃないわよ、
ゴミを捨てながら、は心の中で自分に言い聞かせる。

でも、あんな大きな車で、よくあんなチョコマカ走れるな。
あんなふうに運転できるってことは、実は結構繊細だとか・・・神経質?
あ、あの頭に巻いてるタオルも、朝ちゃんと決まらないと出かけたくない!とかね。
・・・それは別に神経質って言うんじゃないか。
そんなくだらないことを考えてボーッと歩いていたら、いつの間にかその黒い車の前で足が止まっていた。

「わ!」

そんな自分に驚いて思わず声をあげると、その車の横に凭れかかっていた持ち主が、何事かとの方を向いた。
もともとの顔つきなのだが、その睨むような鋭い目に、さらにの足が動かなくなる。
こ、ここまでじっと立ち止まっておきながら何も言わず逃げるのも・・・。
そう思い、この際目の端に映る兄の姿は無視して、思い切って話しかけることにした。

「こ、こんにちは!」
「・・・おう。」
「え、えーっと、速そうな車ですね。」

そう言ってからはたと気が付く。
「速そう」じゃなくて、実際速いんじゃん!
慌てて何か取り繕う言葉を探すけれど、半分混乱したようなには気の利いた言葉が見つからない。
そんなあたふたしている彼女を見て、その男は煙草を吸う手を休めて小さく笑った。
その笑った顔が思ったよりも優しげで、はちょっとほっとする。

「―――あんたは走らないのか。」

でも、声は思ったとおりの、低くてちょっと怖い声。
ほんの少し解かれた緊張も、瞬く間に戻ってくる。

「ずっと見てるだけだが。」
「・・・うん。私はお兄ちゃんにいつも連れてこられるだけだから。」
「見てるだけで楽しいのか?」
「まあ、それなりに。」

いつもは自分を引っ張りまわす兄にぶつぶつ文句ばかり言っているくせに、そんな返事を返す。
でもまったくの嘘ってわけじゃない。
この人の走るのを見ているのは、少し楽しかった。
「楽しい」とか、そんな余裕のある感覚ではなかったような気もするけれど。

「何か、自分がこう言う所で自分が走るって想像つかないな。もうずっと前からお兄ちゃんが車、車って騒いでて、それを傍観するのが当たり前になっちゃった。」
「・・・そう言うもんか。世の中には兄貴が走ってて当然のように自分も一緒に走るようになった奴もいるのにな。」
「うーん、たぶんそれは『兄貴』によるんだと思う。」
「走ってみたいと思ったことはないのか?」
「自分で?・・・お金かかりそうだし。」
「確かにな。」

また、その男が小さく笑う。
彼の笑いはちょっと皮肉っぽいけど、その割には嫌な感じがしなくて―――は結構好きだ。
さっきまで気になっていた兄達のことなどすっかり忘れて、は彼の立っている横に転がっていたブロックに腰掛けた。

「あ、でも・・・乗ってみたい、とは思った。あなたの車に。」
「俺の?ランエボが好きなのか?」
「いや、そうじゃなくて、えーっと、あなたが運転する車にって言うのが正しいのか。」
「兄貴の車には乗ったことはあるのか。」
「こう言う所で?ないない。怖いもん。」
「俺の運転も怖いかもしれねぇだろう。」
「そうだけど・・・何となく大丈夫な気がする。」
「随分いい加減な理由だな。」

短くなった煙草を灰皿に押し付け、缶コーヒーを飲む。
そんな何てことない姿も、はちょっと気に入ってしまった。

「乗せてもらいたいなぁ。」
「ここでか?俺は本気で走るときは横に人は乗せねぇ。」
「別に、そんな100%本気で走らなくてもいいよ。」
「そんな適当に走れるか。」

案外真面目だな。
睨まれながらも、その、妹か何かを叱るような目つきに、は肩を竦めて笑ってみせる。

「じゃあ、『ここでか?』って聞いたけど、ここ以外ならいいの?」
「だめだ。」
「・・・けち。」
「危ねぇだろうが。」
「こう言う所なら比較的安心でしょ?別に峠とか行くわけじゃないし。」
「・・・また今度な。」
「今度っていつ?またここに来るの?」
「そう言うお前はまたここに来るのか。」
「来るよ。」

何でそんなに必死になってるのか、改めて考えると可笑しい。
ただ、意地と言うか何と言うか、は無性にこの男の車に乗ってみたくなった。
つれない態度に燃える―――と言うのもないではないけれど、それだけ大事にしているこの男の車の世界と言うものを見てみたくなった。
でもそれと同時に、それだけ大事にしているものの中にどかどかと踏み込んで壊してしまうのも怖い。
そんな複雑な心境が表にも出たのだろうか、その男はの顔を見て少しだけ、顰め面を和らげた。

「―――悪いが、今はちょっと大物が控えてるから遊んでられねぇんだ。」
「大物?何かレースでも出るの?」
「まあ、そんなもんだ。」
「ふーん・・・。」
「だから、それが終わったら・・・乗せてやる。」
「えっ!?」
「何だ、それじゃあ不満か。」

まさかそんな提案がされるとは思いも寄らなかったは、目の前の男に掴みかかりそうな勢いでにじり寄る。
男も、「ほんとに!?」と、何度も聞き返す彼女の勢いに後ずさりしながらも、その喜びように笑いを漏らした。

「変な奴だな。」
「へん?」
「別に車が好きってわけでもねぇのに。」
「え、だって」


あなたの車は、ちょっと特別だから。


そう口にしようとして、でも、何故特別なのか上手く説明できない気がして、やめた。
絶対に約束だからね、と交換した連絡先。
の手帳には、思ったより綺麗な字で名前と携帯の番号が書かれた。